1-31 北倉庫の空白
翌朝のレヴァル・アーシェは前日よりも乾いた顔をしていた。
蒸気の白は相変わらず空へ立つが匂いの層が薄い。夜の湿り気を押し出し、都市が「今日も回る」と宣言しているみたいだった。
アシュレイは宿の朝餉を最小限で済ませ、配置図を折って内ポケットへ入れた。
鞄の奥、布包み――鍵は入れたままにしておく。不用意に出すほど、都市の目耳に触れる。
やるべきことは先ず表の手順通りに北倉庫へ行き、正規の入口を確かめることだ。
リュカは階段を下りる途中で何度も窓の外を見た。
表通りは平穏で笑い声もある。けれど、裏路地の湿った匂いが風の向き次第でふっと混じる。
「きょうは北倉庫だね」
「昼に正規の受付を通る。日があるうちは目が多い。夜より安全だ」
「夜は危ない?」
「ああ。だから昼に地形を覚える」
リュカは短く頷き、すぐ言い返す。
「横にいるからね」
「そうしてくれ」
「よし!」
宿の中庭ではキャリッジが変わらず柵に繋がれていた。番号札も鎖も無事だ。
係が敬礼めいた仕草で近づいてくる。
「昨夜は問題ありませんでした。見回りも増やしました」
「助かる」
アシュレイはそれ以上余計な礼を言わない。話を長くすると理由を問われる。問われれば余計な説明が必要になる。
都市では丁寧さと沈黙とのバランスが大事だ。
表通りを北へ。
市中心部から外縁へ向かうにつれ、店の密度が少しずつ落ちる。代わりに倉庫や工場が増える。
建物は低く、壁は厚く、窓は小さい。歩く人の服も作業着が多くなる。人の言葉も短い。
それでも整っている。
道路の端には排水溝の蓋が並び、蒸気管は保護枠に収められ、衛兵の巡回も途切れない。
旅人に見せる都市の顔はこの外縁でも崩れない。
ただし――匂いは別だった。
煤と油と、湿った木材と、染料の残り香。
そして時々、あの甘い匂いが薄く鼻腔を刺す。
アシュレイが歩幅を微妙に落とすと、リュカが横目で見た。
「匂う?」
「混じっている。だが、宿場ほどじゃない」
「それ、ぜんぜん安心できないね」
「する必要はない。むしろ警戒だけしていろ」
「うん……」
北倉庫区画の入口は門というより検問所だった。
石造りの小屋があり、帳面を持った管理員が二人。扉の横には掲示板があり、入退区画の規則が書かれている。
・無断立ち入り禁止
・危険物の搬入は証文必須
・封印破損は即時報告
文字は整っていて悪筆の脅し文句ではない。正規の規則だ。
だからこそ、その規則が破られている可能性があるなら、それは内部で起きている。
「用件は」
管理員が顔を上げる。
目は鋭いが対応は丁寧だ。
アシュレイは配置図の控えを出し、必要な範囲だけ見せた。
「北倉庫の照会。紛失荷に関する問い合わせだ。管理責任者に会いたい」
管理員が控えを確認し、頷く。
「倉庫監督官代理、レム・クオードですね。
こちらの通行札を。倉庫区画内は勝手に歩かないでください。誘導が付きます」
通行札は木札で、表には番号、裏には市章。
――市章の線は途切れていない。
印務所で見た蝋封の途切れとは別物だ。
アシュレイはその差を胸の内で冷たく整理した。
正規の市章は途切れない。途切れは“新式”に紛れた異物だ。
誘導役の若い職員が現れ二人を案内する。
倉庫区画の中は通路が広く、荷捌き場が整然と並ぶ。車輪の跡が規則正しく刻まれ、荷の積み降ろしが一定のテンポで回っている。
働く人々はこちらをちらりと見るが、すぐ目を戻す。
その視線は警戒のためではなく、「業務の流れの一部としての確認」だ。都市の歯車は余計な好奇心で止まらない。
北倉庫は区画の奥――旧荷捌き場の隣接地にあった。
建物は他より古い。壁の石が黒ずみ、補修跡がある。
だが入口の錠前は新しく、扉の蝶番も強化されている。外面は古いのに要所だけは新しい。進行形で問題が起きている場所の典型だ。
「こちらです」
職員が扉を叩く。
中から低い声。
「入れ」
扉の向こうは冷たかった。
倉庫特有の冷えではない。湿気の冷えでもない。どこか、熱が抜けたような冷たさ。
アシュレイはそれを顔に出さず、ただ足元の感触だけを確かめた。
部屋の中央に机、その上に帳面の山。
壁際に棚。棚には封印用の道具。蝋、印章、封帯、封符。
そして机の向こうに男が一人。
レム・クオードは四十代ほどに見えた。
細身で顔色は良くない。徹夜が続いている顔だ。
ただし目は曇っていない。
「旅人が紛失荷の照会だと?」
レムが眉を寄せた。
疑うというより、「なんで巻き込まれたんだ」という顔だ。
「旅人だが、事情がある」
アシュレイは言い訳をしない。
代わりに、必要な事実だけを並べた。
「赤い樽が消える。帳面は合っている。封は破れていない。
印務所でも同じ話を聞いた。そしてここに辿り着いた」
レムの目が細くなる。
「……どこまで知っている」
「噂と現場の断片だ。
俺は赤の染料が欲しいんじゃない。消え方の仕組みを知りたい」
レムは短く笑った。いや、漏れた息が笑いに似ただけだ。
「仕組みか。……分かるならこちらが教えてほしいくらいだ。
封印も、見張りも、帳面も、全部正しくやっている。
それでも消える。だから締め付けが強くなる。締め付けるほど、裏の仕組みが増える。最悪だ」
愚痴の形で出てくる言葉ほど本音に近い。
アシュレイは頷き、机の上の帳面へ視線を落とした。
「見せてもらえるか」
「どこまで」
「該当区画だけでいい。赤い樽の搬入記録と封印記録、見張りの交代記録」
レムは迷い、数拍の沈黙の後、帳面を一冊だけ前に出した。
「ここだ。
ただし写しは取るな。持ち出しも不可だ」
「読むだけでいい」
アシュレイは椅子に座らず、立ったまま帳面を読む。
座ると長居になる。長居は思わぬ油断につながる。
記録は整っていた。
日付、搬入元、樽数、封印番号、印章担当、見張り交代。
そして、消失報告の欄。
消失報告は奇妙な書き方をしていた。
『所在確認不能』
『封印番号一致』
『扉破壊痕なし』
『在庫数:帳面上一致』
帳面上一致。印務所で聞いた話と同じだ。
現物が消えたのに帳面は一致する。
それは本来一致とは言えない。
アシュレイは視線を上げレムを見る。
「これは誰が書いた」
「俺だ。……市の監査が来た。
監査は数字しか見ない。下手に数字を変えれば責任を逃がれようとしたと思われる。
だから“帳面上は合っている”と書いた。現物は無い、とも書いた」
レムの声が固くなる。
責任と恐怖を含んでいる。都市の制度は現象より先に人を潰す。
アシュレイは次の質問へ進む。
「消える直前に共通点は?」
「……共通点なら、ある」
レムは棚から蝋封の見本を取り出し机に置いた。
深紅の蝋に金粉。
そして、途切れた線の幾何学模様。
「これだ。新式の封。
導入してから消え方が変わった。
以前は単純な盗難だった。扉が壊れる。見張りが殴られる。荷が動く。
だが今は違う。何も起きない。……ただ、物だけが無くなる」
リュカが小さく息を呑んだ。
「途切れた線」を見ている。
アシュレイも同じ模様を見た。印務所と同じだ。
「この封を提案したのは誰だ」
レムの口元が引きつる。
「……“外部の技術顧問”だ。
市に雇われた。名は、レドラ・アー――」
そこでレムが言葉を止め、眉を寄せた。
自分で言い出しておきながら、言い切れていない。
名が思い出せないのではない。どこか思い出したくないといった顔だ。
アシュレイの胸が冷える。
レドラ。
教団の女。深紅と金。
「続けてくれ」
レムは喉を鳴らし、吐き出すように言った。
「……レドラ。姓は知らん。市の文書には“レドラ”とだけある。
女だ。上品な外套だった。
だが、目が……妙に冷たかった。いや、軽かったと言うべきか」
軽い。
他人の生死を軽く扱う目。
アシュレイの記憶の底にある二十年前の恐怖が輪郭を持つ。
リュカがアシュレイの袖をほんの少しだけ引いた。
それは「ここで暴走しないで」という合図に近い。
アシュレイは深く息を吸わず、浅く整え、冷静な声に戻った。
「封の導入は二週間前。本格化が数日前。
宿場の入口に異変が起き始めた時期と一致する。
――この倉庫の中、実際に見せてくれ」
レムは一瞬迷い、結局頷いた。
「誘導を付ける。しかし勝手に触るな。
……消えるのは赤だけじゃない。だが赤が一番“分かりやすく”消える」
「分かりやすい?」
「匂いが残る。妙に甘い匂いだ」
リュカの顔が強張る。
アシュレイは目線を落とし、リュカの横に半歩寄った。
倉庫内は広かった。
天井は低めで、梁が太い。古い木の匂いがする。
床は石。運搬のために滑りを良くしたのか、ところどころに油膜がある。
棚が並び、樽や箱が積まれ、封帯が揃っている。
レムが手袋をはめ、封帯の一つを指さした。
「ここが消えた場所だ。
昨日の朝、赤が三樽。ここにあった。
封はこの番号。帳面上も同じだ。
……だが、今はない」
確かに空白がある。
樽が並ぶ列の中に三つ分だけ綺麗に欠けている。
乱れた形跡はない。運び出したなら周囲の樽も動くはずだ。
だが周囲は整っている。そこだけが最初から空だったように綺麗だ。
アシュレイは床を見る。
樽を動かしたなら油膜が擦れる。車輪の跡が残る。
だが跡がない。
それどころか、空白の床だけ微妙に乾いている。周囲は湿り気があるのに、そこだけ浮いたように均一だ。
宿場の点検口の前と同じ乾き方。
リュカが小声で言った。
「……変。ここ、薄い」
アシュレイは首だけで頷いた。
そして“線”を探す。
肉眼では見えない。だが感触がある。空気が薄い。匂いが甘く冷たい。
レムが苛立ちを抑えた声で言う。
「なあ、旅人。
あんた何者だ。……ただの商人の顔じゃないな」
「いや商人だ。魔道具屋をやっている。
ただ、理屈が好きなだけだ」
「理屈でこの空白が埋まるなら、いくらでも聞くがな」
アシュレイは返事をせず、空白の床の上――ぎりぎり手前で足を止めた。
踏み込まない。踏み込めば条件が増える。
代わりに、周囲の構造を読む。
蒸気管が天井を走っている。
排水溝が壁際を通る。
梁の継ぎ目がある。
そして――柱の根元に、深紅の蝋の欠片が微量に付いている。
蝋がここに落ちたのではない。
意図してそこに置かれたように付着している。
「レム。見張りはどこに立っていた」
「入口と奥の通路。二人だ」
「消える瞬間を見た者は」
「いない。だから、こちらばかりが狂ったと言われる」
アシュレイは空白の周囲を半周し、柱の陰に目を向けた。
柱の裏、床と壁の境に細い亀裂がある。
亀裂は古い。だが、その亀裂の中に――金粉のような微粒子が挟まっている。
彼は結論を急がず、口にする言葉を選んだ。
「……これはただの空白じゃない。
“通路”だ。外へ運ばれたのではなく、別の場所へ落ちている」
レムが息を呑む。
「落ちるだと? どこへ」
「分からない。だが、宿場の橋と同じ構造だ。
現実の床の下に別の床がある。
そこに“余白”が繋がっている」
リュカが緊張した声で言う。
「余白って言葉、やだ」
「すまん。だがその感覚は正しい」
アシュレイは言い切る。
そしてレムへ向き直る。
「ここに封を導入したことで、外部とつながる“弁”が付いた。
弁が付けば自由に開閉ができる。
開閉する間に物が消える」
レムの顔が青くなる。
「……じゃあ、あの女が」
「可能性が高い。
だが証拠が要る。都市の制度を動かすには、確かな証拠が必要だ」
レムは歯を食いしばり、拳を握った。
怒りと恐怖が混ざっている。自分の職務が目の前で踏みにじられている怒り。すべて自分の責任にされることへの恐怖。
「証拠など……どうするつもりだ」
「正規の顔が強い分、昼は無理だ。
歪みは夜に出る。夜に入口が呼吸する」
アシュレイは空白の床を見つめ、鞄の奥――鍵の冷気を思い出した。
鍵がここで跳ねたかどうかはまだ確かめていない。
だが、リュカの感覚はここが“薄い”と言っている。
鍵はきっとここで呼吸を速める。
「夜に来るのか」
レムが問う。
声が微かに震えている。
「また来る。ただし俺だけではない。
見張りの配置を変える。封の担当もだ。
そして、ここに誰かが近づいた痕跡を取る。
都市の制度の言葉で”証拠”にできる形でな」
レムは頷き、低い声で言った。
「……手を貸す。
ここは俺の倉庫だ。俺に責任がある。
これ以上奪われてたまるか」
その言葉は男の矜持だった。
アシュレイは短く頷き、リュカへ目線を落とす。
「戻る。今日はここまでだ」
「うん……。ここ、嫌」
「嫌なら嫌でいい。
そう言えるうちは、飲まれていない証拠だ」
倉庫を出ると、外の空気がやけに温かく感じた。
倉庫の中の冷たさが異質だったことが逆に証明される。
帰り道、アシュレイは表通りへ戻る動線を選んだ。
昼の都市の目が、今は味方だ。
裏路地の匂いをわざわざ踏みに行く必要はない。
宿へ戻る途中、リュカが小さく言った。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「夜、時計使う?」
アシュレイは少しだけ間を置き、正確に答えた。
「使う可能性はある。
だが使うのは、出口が見えた時だけだ。
――お前を置いていかない形でな」
リュカはその言葉にほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「横にいるからね」
「ああ。よろしく頼む」
「よし!」
北倉庫の空白はただの紛失によるものではなかった。
帳面と現物の裂け目。
都市の制度の隙間に仕込まれた“余白”の入口。
そしてその入口には、深紅と金の途切れ線が絡んでいる。
夜が来る。
都市が二重の呼吸を深める時間。
その時、鍵がどこを指すのか――アシュレイはそれを正しい手順と理屈で掴むつもりだった。




