1-30 尾行切り
表通りの秩序は追う側にも追われる側にも平等に作用する。
ここは人、音、視線が多い。
だからこそ違和感はすぐに目立つ。そして目立つ者から損をする。都市が作った公平はそういう形で成立している。
アシュレイはそれを武器として使うことにした。
追跡の気配は二つ。
ひとつは印務所の若い役人。歩幅が一定で視線の位置が安定している。訓練を受けた追跡だ。
もうひとつは少し遅れる影。役人ではない。歩き方が柔らかい。商人か、あるいは市警の便衣兵か。
「後ろ、さっきより近い」
リュカが小声で言う。
声は震えていないが、どこか緊張している。
「ああ。……視線は前。背中で感じろ」
「それ、むずかしい」
「そのうち慣れる」
アシュレイは表情を変えずに雑貨屋の前で立ち止まり、あえて棚の品を眺めるふりをした。
真鍮のボタン、歯車のチャーム、魔術符の貼られた油差し。旅人が足を止めるのにちょうどいい品揃えだ。
止まった瞬間、背後の気配が一瞬濃くなる。
追う側が距離を詰める。近づけば近づくほど、こちらは見つけやすくなる。
アシュレイは何事もない顔で銅貨を一枚置き、ボタンを二つ買った。
買う必要はない。だが普通の行動が追跡側の思考を鈍らせる。追う者は逃げる者の動きにだけ反応する。逃げる意図のない動きは読みづらい。
店を出て今度は人の流れに紛れて歩く。
歩調は一定。振り返らない。立ち止まらない。
そのまま表通りの交差点へ向かった。
交差点の中央には巡回の衛兵がいる。
都市の交通整理の役目も兼ねているのだろう。荷車の列、歩行者、屋台の客。混ざり合う流れを手旗で整えている。
アシュレイはそこへわざと近づいた。
追跡がいる状態で衛兵に近づくのは一見危険に見える。だが危険なのは“裏の手”であり、“表の手”は衛兵の目を嫌う。衛兵の目がある場所で、顔の知れた者の追跡は余計な動きをしづらい。
案の定、背後の影が少し距離を取った。
リュカが小さく言う。
「……離れた」
「表の目が増えたからだ」
「ありがたいね」
「使い方次第だ」
アシュレイは交差点を渡り、向かいの建物――市政庁舎とは別系統の管理局――の前へ立った。
看板には歯車と鎖の紋。蒸気管路の管理を担う部署だろう。
彼がここへ向かう理由は二つ。
一つは北倉庫の所在地と管理者の名を正規の手順で知るため。
もう一つは――追跡を“表の手続き”へ巻き込むためだ。
受付の前には列ができていた。
工房の親方らしき男、配管工の若者、帳面を抱えた商人。皆が番号札を手にして、黙って待っている。
都市は混雑を列という形で制御する。一度列に入った者は勝手に抜けられない。
アシュレイは何事もない顔で列へ並び、リュカを横に立たせた。
「ここで様子を見る」
「待つの苦手」
「都市の制度に則れば、待てる者が勝つ」
「いやだなぁ……」
だがリュカは我慢して待った。
アシュレイが隣にいる限り彼女は待てる。アシュレイも焦らずに済む。
数分後、背後の気配が列の外側で揺れた。
追跡は列に入れない。入れば番号札が必要になる。番号札を取るには受付へ行かなければならない。受付へ行けばこちらに正面を晒す。晒せば衛兵や職員の目が増える。
追う側はここで選択を迫られる。
列に入って追跡を続けるか、列の外で待つか、諦めるか。
アシュレイは視線を前に固定したまま確信した。
「……諦めずに外で待つ、か」
リュカがぼそりと言った。
「しつこいね」
「後ろめたいことでもあるんだろう」
やがて順番が来た。
窓口の職員は怠惰でも横柄でもない。淡々としている。こういう職員が一番信用できる。感情では動かないからだ。
「用件は」
「倉庫区画の配置図が欲しい。北倉庫の所在地と管理責任者の名。
用途は――交易の手続きと、紛失荷の照会」
嘘ではない。赤い樽の行方は間違いなく紛失荷だ。
照会には配置図が要る。当然責任者の名も要る。
職員は書類を一枚差し出した。
「申請書。手数料は銀貨一枚。理由欄は具体的に」
アシュレイはすぐに書いた。
字が整っている。元理術科首席の書類仕事は伊達ではない。
職員はそれを読み、頷いた。
「北倉庫は蒸気管路区画の外縁、旧荷捌き場の隣接区画。
管理責任者は倉庫監督官代理――レム・クオード。
配置図はこの控えを持って、奥の写図室で受け取りを」
名が出た。所在地も出た。
表の手順で取れる情報はすべて取れた。
アシュレイは礼を言い控えを受け取る。
その瞬間、リュカが袖を引いた。
「……あの人、見てる」
視線の先。列の外側。
追跡の影がまだそこにいる。だが決してこちらには近づけない。至る所に職員の目がある。
「勝手に見せておけ。見せる情報は選ぶがな」
アシュレイは控えを鞄へ入れず、あえて手に持ったまま歩き出した。
追跡に見せる。北倉庫へ行くことは隠さない。
隠すべきは、“いつ”、”どうやって”入るかだ。
写図室で受け取った配置図は薄い紙の束だった。
都市の外縁区画は表の街より複雑だ。蒸気管路、排水路、旧坑道、荷捌き場。複数の時代の都市が重なっている。
アシュレイは部屋の隅の机を借り、配置図を広げた。
北倉庫は外縁。旧荷捌き場の隣。
――つまり、裏路地の匂いが濃い場所だ。
だが、管理局が責任者の名を出せるということは、表側の正規ルートが存在するということでもある。
表の門、鍵、受付、帳面。
それを通せば、少なくとも“表向きの安全”は確保できる。
リュカが地図を覗き込み、眉を寄せる。
「この辺、線が引きやすそう」
「蒸気管と排水路が絡む場所は境界を仕込むのに向いている。
音も匂いも誤魔化せる」
「やっぱりやだ」
「分かっている」
写図室を出ると、追跡の気配がまた近づいた。
列の拘束が解けたからだ。こちらが自由になると追う側も自由になる。
アシュレイは宿へ直行しなかった。
このまま帰れば、宿の中庭――キャリッジ――を見られる。
見られるだけならともかく、夜の動向を読まれたくはない。
代わりに、表通りの商店街を一周した。
買い物をし、露店の前で足を止め、道を選び直す。
追跡を飽きさせるのではない。疲れさせる。追跡はいずれ意志より体力が先に折れる。
そして最後に、巡回衛兵の多い通りへ抜けた。
追跡の影が少し距離を取る。表の目が増えると余計な手出しができない。
アシュレイはその隙に宿へ戻った。
中庭に入る前、彼は係へ短く頼む。
「今夜、見回りを二人体制にできるか」
「……可能です。何かありましたか」
「噂だ。赤い樽の」
係は顔色を変えた。
噂は早い。都市は噂で動く。
「承知しました」
部屋に戻ると、アシュレイは扉を閉め、そこでようやく配置図を机に広げた。
そして鞄の奥の布包み――鍵――の位置を確認する。
冷気が薄く漏れる。
鍵は北倉庫へ向くと反応が速くなる気がした。
リュカが椅子の端に座り、真顔で言った。
「北倉庫に行くの?」
「ああ」
「今日?」
「まだ行かない」
リュカの肩が少し下がる。
「じゃあ、いつ?」
「明日の昼。表の受付を通る。
そこで“正規の封”と“印”を確認する。
その上で夜にもう一度――裏の入口を探る」
「なんかむずかしい」
「二段構えだ。三秒を使うのはその後になる」
リュカは頷き、言った。
「わかった。それまでがんばろうね」
アシュレイはその言葉を軽く流さなかった。
「ああ。やってみせる」
短い返事。
だが、今の彼にそれ以上の言葉はなかった。
表の手順で得た地図と名前は都市の静脈を示している。
静脈は隠れているようで、確かにそこにある。
そこを辿れば必ず裏の入口に近づける。
そして入口の向こうには――“余白”がある。
アシュレイは紙の上の北倉庫に指を置き、次の行動を決めた。
この都市は管理が行き届いている。だからこそ、歪みは必ずどこかに出る。
その場所を、彼は理屈で掴む。
――掴み切れなかったものを三秒で掴む。
その順番だけは遵守するつもりだ。




