1-29 印務所の静脈
夜は都市の表情を整える。
レヴァル・アーシェの表通りは灯りが均等に配され、巡回の足音が一定の間隔で石畳を叩く。酔客の笑い声すら、どこか枠の中に収まって聞こえた。
アシュレイは眠る前にもう一度だけ中庭へ降り、キャリッジの鎖と番号札を確認した。
鍵穴は無傷。幌も乱れていない。車輪止めも噛んだまま。
「よし」と言いかけて、口を閉じる。
代わりに、背後にいたリュカへ小さく頷いた。
「キャリちゃん、無事?」
「無事だ。……今のところはな」
「今のところ、って言い方やだ」
「現実は大抵そうだ」
リュカは頬を膨らませたが、キャリッジの幌を撫でてから真面目な声になった。
「アシュレイ、明日も行くんだよね」
「ああ。表の制度の“壊れ方”を見れば、裏がどこに繋がってるかが分かる」
「むずかしいね」
「頭を使うのは俺の仕事だ。お前は――」
「横!」
「そうだな」
部屋へ戻ると、アシュレイは布包みを鞄の奥へ戻し、机の上から紙を片づけた。
都市の宿は壁が薄い。紙の走り書きですら誰かの糸口になる。まして鍵の存在など絶対に残すわけにはいかない。
眠りは浅かった。
だが、身体の芯に残っていた《クロノス》の負荷が、ほんの少し落ち着いた気がした。
――翌朝。
窓の外は明るく、空気は清潔だった。
夜の湿気を掃き出すように、蒸気の白が一定の周期で吹き上がっている。都市が自分の呼吸を整える時間帯だ。
アシュレイは朝餉を最低限で済ませ、リュカの服の留め具を確認した。
金具が外れやすい箇所、袖の擦れ、靴紐。旅の最中にほどけると、それだけで事故の元になる。
「……過保護」
リュカがぼそりと言う。
「事故防止だ」
「理屈っぽい」
「理屈だが」
口では軽く返しながらも、リュカは嫌がっていない。
むしろ、確認が終わると背筋が少し伸びた。安心がこうして形になる。
印務所は市政庁舎の付属施設として表通りの中央寄りにあった。
石造りの建物で、正面に市章――歯車と月桂樹――が掲げられている。入り口には衛兵が一人、目線だけで人の流れを整えていた。
内部は意外に静かだった。
人は多いのに、声の層が低い。ここで声を荒げることが損だと誰もが知っている。
窓口は三つ。
左が通行証、中央が印章の申請、右が染料・危険物の証文受付。アシュレイの目は迷わず右へ向かった。
順番札を受け取り、待つ。
待っている間に周囲の会話を拾う。
「今週もだめだってさ」
「役所の印が変わったって噂だぞ」
「変わったのは印じゃなくて、帳面の書き方だろ」
「どっちでもいいよ。赤が入らないなら困るのは同じさ」
会話は生活の愚痴に見える。
だが愚痴の中に決定的な情報が落ちている。印が変わった。帳面が変わった。どちらにせよ、“制度が動いた”のは確かだ。
順番が来て、窓口にいる中年の役人が顔を上げた。
「用件は」
声は硬い。だが冷たくはない。職務の声だ。
「染料の証文について。赤の締め付けが強いと聞いた。理由を知りたい」
役人の眉がわずかに動いた。
旅人が制度の理由を聞くのは珍しいのだろう。
「……用途は」
「補修用に少量だ。旅の衣類の染め直し程度」
「旅人に赤は出ない」
即答。想定どおりだ。
アシュレイは食い下がらない。代わりに、質問の角度を変える。
「出ない理由は“危険だから”か。“不足しているから”か。あるいは“不正があるから”か」
役人の視線がアシュレイの顔を一瞬測る。
面倒な相手か、理解できる相手か。判断している目だ。
「……不足だ。正規の赤が帳面どおりに入らない」
「帳面は合っているのに、数が足りないのか?」
役人の口が一度だけ止まった。
その瞬間に、アシュレイは確信を深める。
「それは内部の話だ。旅人には関係ない」
「関係はある。染料が欲しいんじゃない。赤を締める理由が欲しい。理由が分かれば、俺は余計な場所に近づかずに済む」
“余計な場所”。
それは裏路地のことでもあり、鍵が反応した場所のことでもある。
役人はその言葉を表向きの意味で受け取ったらしい。
「……事故が増えている。赤い樽が消える」
「盗難か?」
「それなら良い。盗難なら、盗人を捕まえれば終わる」
役人は声を落とさない。だが言葉の端が固くなる。
「あれは盗難の消え方じゃない。
封を切っていない樽が、倉庫から突然無くなる。
扉を破った痕もない。見張りもいる。帳面はすでに通っている。……なのに無い」
アシュレイは指先で机の縁を軽く叩き、思考を揃えた。
宿場の点検簿。現物が消える。帳面は残る。しかし音は残らない。
「封の形状は」
「深紅の蝋封だ。金粉を混ぜた新式でな。偽造防止のために導入した」
深紅と金粉。
胸の奥が冷えた。嫌な一致だ。
「新式の導入はいつからだ」
「数日前。……いや、正式には二週間前だが、運用が本格化したのが数日前だった」
宿場の異変と都市の動きが噛み合う。
運用の隙に何かが入り込んだ可能性が高い。
アシュレイはあえて素朴に言った。
「その蝋封、見せてもらえるか」
「部外者に見せるわけには――」
役人の言葉が止まり、代わりに奥の棚をちらりと見た。
見せたいのに、見せられない。あまりにも異質な旅人に感化されたのだろう。
だが、見せないことには何も進まない。その葛藤が見て取れる。
そこへ、背後から別の役人がやって来た。若いが身なりは整っている。紙束を抱え、窓口の中年役人へ耳打ちした。
「……また一件。北倉庫です」
中年役人の顔が一瞬歪む。疲労と苛立ちが混ざる顔だ。
「……分かった」
若い役人は去り際にアシュレイを一瞥した。
その目は好奇心ではなく、警戒の色を含んでいる。――こちらを覚えるための目つき。
中年役人が小さく息を吐き、机の引き出しを開けた。
そして、封印用の蝋見本の小片を一つだけ出す。深紅の蝋。確かに金の粉が混ざっている。だが、光り方が均一すぎる。金属粉というより、魔術的な反射が仕込まれている。
「これ以上は何も出せん。見たら返してくれ」
アシュレイは小片に指を触れないまま、視線だけで観察した。
表面の幾何学模様――市章に似ている。だが、線の一部が途切れている。
途切れ方に宿場で見た虚線と同じ癖がある。
リュカが小さく息を呑んだ。
彼女も同じことに気づいたのだろう。
「……線、途切れてる」
アシュレイは頷くだけで返し、役人へ静かに言った。
「この印、正規の市章と違うな。途切れがある」
「……違わない。新式は偽造防止のためにわざと複雑にしてある」
「複雑化は確かに偽造防止になる。だが、半端な途切れを入れる理由は?」
中年役人の視線が揺れた。
つまり、そこが説明できない核心の箇所だ。
「……深追いはやめろ、旅人」
「職務を邪魔する気はない。
ただ、これを導入した“提案者”だけは教えてくれ」
中年役人は口を結び、次の客へ目を向けかけた。
だがその瞬間、リュカが横からぼそりと一言落とした。
「……余白」
提案者から連想された人物が浮かび、口をついて出たのだろう。
アシュレイの背筋が冷えた。
中年役人の顔が明らかに変わった。
その単語に反応した。知らなければ当然反応しないはずだ。
「誰から聞いた」
声が低くなる。
職務の声ではない。身を守るための声だ。
アシュレイは即座にリュカの言葉を回収するように、淡々と告げた。
「噂だ。宿場で耳にした。
都市のどこかに“余白の抜け道”がある、と」
嘘ではない。だが本当の核心についても言っていない。
中年役人は数拍だけ黙ってから、小さく言った。
「……北倉庫。今朝の件もそこだ。
だが行くな。旅人が首を突っ込む場所じゃない」
「倉庫の所在地を教えてくれ」
「どいてくれ」
即答。
しかし拒否するなら別の入口がある。
アシュレイは蝋見本を机へ戻し、短く礼を言った。
「十分だ。ありがとう」
窓口を離れ、建物の外へ出る。
日差しが目に刺さる。都市の光は明るく、その分だけ影が濃く出る。
石段を降りたところで、アシュレイは振り返らずに言った。
「……つけられてる」
リュカが小さく頷く。
「うん。後ろ、さっきの若い人。あと、もう一人」
「表側の追跡だ。あの男とは違う」
「どっちもやだ」
「同感だ」
アシュレイは表通りの人混みに紛れ、角を二つ曲がり、店先の行列の裏へ回り込んだ。
追跡が上手い者ほど、人混みで視線を切られた瞬間に焦る。その焦りで足が速くなる。すると必然的に目立つ。
案の定、背後の気配が一瞬だけ濃くなった。
アシュレイはその瞬間を逃さず、路地へは入らず、あえて広い通りへ抜ける。
逃げるのではなく、誘導する。追う側が嫌がる場所へ。
そして、宿へ戻る動線を一度だけ外した。
――鍵が跳ねる場所を見せないために。
リュカが息を整えながら囁く。
「……北倉庫、行くの?」
「行く。ただし、今すぐじゃない」
「なんで?」
「表の追跡が付いた。今行けば、あいつらを北倉庫へ連れていくことになる」
「じゃあ、どうするの」
アシュレイは歩きながら、結論を短く落とした。
「先ず、尾行を切る。
次に、北倉庫へ通じる正規ルートを探す。
そして最後に――鍵が反応した時だけ、三秒を使う」
リュカがぎゅっと拳を握る。
「……それは最後ね」
「ああ。最後だ」
その言葉にリュカの肩がほんの少し下がった。
安心からではない。進む覚悟が整ったのだ。
レヴァル・アーシェの表通りは今日も秩序の顔を見せている。
だが印務所の窓口の奥で秩序は確かに揺れていた。
深紅と金。
途切れた線。
そして“余白”。
アシュレイは胸の内側の《クロノス》に触れず、冷えたままの鍵の気配を思い出しながら、次の手順を組み立てた。
北倉庫――そこに都市の“消える赤”の入口がある。
入口の先にあるのは教団の影か。
それとも、もっと厄介な線そのものか。
どちらにせよ、もう引き返せない地点まで来ていた。




