1-2 魔道具店の昼下がり
昼下がりの光は裏通りにもようやく届き始めていた。
クローヴ魔道具店の窓から差し込む光は細く、埃の粒をゆっくり浮かび上がらせる。
午前中の客はあの老婦人ひとりきりだった。
それ以降、扉の鈴は沈黙を守っている。
「ひまー」
リュカがカウンターの上にうつ伏せになり、頬を両手で押しつぶした。
顔が半分ほど横に流れているが、本人は気にしていない。
「ひまだねー」
「……仕事はいくらでもある」
奥の作業台ではアシュレイが細い針金を一本ずつ伸ばしていた。
魔道具の内部で断線した配線を交換するための、調整用の素材だ。
「それ、やったら楽しい?」
「楽しくはない」
「じゃあ、やらなくてもいいんじゃない?」
「やらないと、もっと面倒になる」
「ふーん。じゃあ、やらなくてもいいじゃん」
「なぜそうなる」
調子を崩されながらも、手だけは止めない。
針金は一定の太さと長さに整えられ、小さな箱にきちんと並べられていく。
リュカは立ち上がると、背伸びをして窓の外を覗いた。
裏通りには洗濯物が揺れ、隣家の子どもが縄跳びをしている。遠くから、鐘の音がかすかに聞こえた。
「ねぇ、アシュレイ」
「なんだ」
「わたしって、外に出ちゃだめなんだっけ?」
唐突な問い。
針金を摘んでいたアシュレイの指が、わずかに止まる。
「……だめではない」
「じゃあ、なんであんまり連れてってくれないの?」
「お前が目立つからだ」
「えー、かわいいから?」
「うるさいから」
「ひどい」
リュカは傷ついたふりをしながら、窓枠に顎を乗せた。
外に出ることが嫌いなわけではない。ただ、彼女はあまり遠くまで連れて行ってもらったことがない。
彼女の身体はあくまで仮の器だ。
激しい気温差や魔力濃度の乱れに弱く、遠出には注意が必要だと、昔から言われている。
――と、本人は何度か聞きかじっている。
しかし、その理屈を本当の意味で理解しているわけではない。
「じゃあさ、今度、市場にも連れてってよ。あそこの揚げパン、好きなんでしょ?」
「お前の方が好きそうだ」
「好きだけど?」
「……」
アシュレイは針金を箱に収め終えると、小さく息を吐いた。
「そのうち、な」
「そのうちって、いつ?」
「そのうちだ」
「絶対、忘れるやつだ」
不満げに唇を尖らせるリュカ。
だが、その表情はすぐに別のものに変わる。
扉の隙間から、郵便配達の赤い帽子がちらりと見えたのだ。
からん、と鈴が鳴る。
「配達でーす。クローヴ魔道具店さん?」
若い配達員が封筒の束を手に立っていた。
「はーい!」
「出るな」
アシュレイより早く返事をしてしまったリュカは、慌てて椅子を引きずってカウンターに突撃する。一方、アシュレイはすでに封筒の束を無言で受け取っていた。
「サイン、ここに」
「ああ」
短い応酬のあと、配達員は足早に去っていく。
リュカは封筒の上からじっと覗き込んだ。
「なになに? お金の請求? 借金? 差し押さえ?」
「例えがひどい」
アシュレイはその場で封筒をざっと仕分けする。
商業組合からの通知、部品商からの請求書、税の案内。その中に一枚だけ、他の封筒と違う色のものが混じっていた。
厚手の紙。封蝋。
送り主の欄には、厳めしい紋章付きの印刷がある。
「……王立魔術学院、財務局」
「あ」
リュカの目がきょとんと丸くなる。
「学院って、アシュレイが行ってた学校?」
「そうだ」
「まだ、あるの?」
「ある。別の場所にな」
学院は移転している。
ここから見えるのは封鎖された旧校舎だけだ。
アシュレイは封を切るかどうか、しばし迷ったようだった。
だが、結局は無造作に破り、中の文面を目で追う。
第三者から見れば、ただ文字を読んでいるだけにしか見えない。
しかし、封筒を持つ指に籠もる力だけが、その内側を教えていた。
「なんて書いてあるの?」
「……定期報告と、研究協力の要請だ」
「研究って、なにの?」
「エーテル体の安定化に関する共同調査。……今さらだ」
口調は冷たかった。
だが、それは学院に向けられたものというより、自分自身に向けられたもののようだった。
「返事、書くの?」
「書かない」
「なんで?」
リュカはまた問う。
子どもじみた執拗さ。それがときに、核心を抉る。
「……俺にはもう、あそこに渡せるものはない」
「でも、アシュレイ、なんでも知ってるよ?」
「知っていることと、救えることは、違う」
淡々とした答えだった。
リュカにはその差が分からない。
「ふーん……」
彼女はそれ以上追及せず、封筒を一枚摘まんでひらひらさせた。
「じゃあこれは、燃やしちゃう?」
「燃やすな。税関係は取っておく」
「つまんない」
リュカは窓辺に戻り、外を眺める。
アシュレイは残りの郵便物を机の端に積み上げ、学院からの手紙だけを別にしてしまい込んだ。
封を切られたそれは二度と見返されることなく、引き出しの奥へ押し込まれる。
――過去からの誘い。
――同時に、過去への未練。
それを認めるには、まだ息が苦しすぎた。
沈黙がしばし工房を満たす。
やがて、リュカの小さな声がその沈黙をぴしりと割った。
「ねぇ、アシュレイ」
「なんだ」
「わたしが、前にどんなだったかって……聞いたら、嫌?」
アシュレイの指が止まった。
彼女は窓の外を見たまま、背中だけをこちらに向けている。
表情は見えない。だが、その肩はわずかに硬かった。
「学院にいたときのわたし。……覚えてる? わたしは、覚えてないけど」
静かな問いだった。
いつもの軽さはない。
アシュレイは引き出しの取っ手から手を離し、机の角に腰を預けた。
「覚えている」
「どんな感じだった?」
「うるさかった」
「今といっしょじゃん!」
「今よりは、大人びていた」
リュカが振り向く。
琥珀色の瞳が、揺れる光を映していた。
「……今より?」
「ああ」
「そっか」
それだけ言って、リュカはまた窓の外に目を向けた。
短いやり取り。しかし、それだけで十分だった。
今の自分が過去とは違う。
ぼんやりと、それだけは伝わってくる。
けれど――だからといって、どうすればいいのかは分からなかった。
少しして、鐘が二度鳴った。午後二時。
裏通りはゆっくりと影を伸ばし始める。
「ねぇ、アシュレイ」
「まだ何かあるのか」
「わたしがさ、もし――」
そこまで言いかけて、リュカは口をつぐんだ。
言葉になりかけたものが胸の奥で丸まってしまう。
彼女自身、その先の言葉を探していた。
もし、なに?
もし、いなくなったら?
もし、違うわたしになれたら?
どの言葉も、まだ自分のものではない気がして、舌の上で転がるだけだった。
「……やっぱ、なんでもない」
「そうか」
アシュレイはそれ以上何も聞かなかった。
彼もまた、聞けば崩れてしまうものを知っている。
午後の工房は音だけがあった。
針金の擦れる音、工具の当たる音、外から届く人の声。
それらがまるで、ひびの入った器の中で、どうにか均衡を保っているようだった。
――この均衡がずっと続くとは誰も思っていなかった。
けれど、今日崩れるとは誰も信じていなかった。
その日の夕方、工房の扉に「本日閉店」の札が掛けられるのは、いつもより少しだけ早い時刻のことだった。
*
いつもより早く閉められた扉は、外から見ればただ古びた店が休みに入っただけのようにしか見えなかった。
だが、工房の内側ではいつもとは違う空気が静かに流れていた。
リュカは椅子の上に小さく座り、足をぶらぶらと揺らしている。
アシュレイは棚の上の工具を一通り片付け終え、油の染みた布で手を拭いた。
「ねぇ、今日なんで早く閉めたの?」
「……疲れた」
「うそだ」
「なぜ断定する」
「アシュレイ、疲れたときは逆に閉めないもん。だって、ずっと座ってられるでしょ?」
「俺の怠惰を理解するな」
「毎日見てるからね」
軽口を叩きながらも、リュカの視線はアシュレイの背中を追っていた。
普段より少しだけ重く見えるその背中を、彼女は言葉にできない違和感として感じ取っている。
アシュレイは壁際の棚に近づき、木箱を一つ取り出した。
それは祖父の代から使われている工具箱であり、彼が決して手放そうとしない数少ない遺品だった。
箱の蓋を開けると、古い金属の匂いがわずかに漂う。
その中には工具とは別に、小さなノートが一冊だけしまわれていた。
黒い表紙。角は擦り切れ、何度も指で触れられた跡が残っている。
アシュレイはそれを手に取り、しばらく黙ったまま見つめた。
「それ、なに?」
リュカが背伸びをしながら覗き込む。
「……ただの記録だ」
「記録って、アシュレイの?」
「祖父のだ」
ノートはゆっくりと開かれる。
ページにはぎっしりと細かい文字と術式図が描かれていた。
古い魔道具の分解図、修繕過程、失敗と成功の記録。
どれも丁寧で、几帳面な文字で書かれている。
「おじいさん、すごいね」
「ああ」
淡々とした返答。
しかし、その声の奥にはわずかな温度が宿っている。
「アシュレイのおじいさんって、どんな人だったの?」
「……面倒な人だ」
「面倒?」
「人の話は聞かず、興味のあるもの以外は見向きもしない。すぐに工房に籠もり、三日帰ってこないこともあった」
「え、アシュレイと同じじゃん」
「違う」
「どこが?」
「……全部だ」
言葉とは裏腹に、表情はわずかに緩む。
それは、懐かしさにも似た寂しさのにじむ笑みだった。
アシュレイはページをめくり続ける。
リュカはその横で静かに座り、彼の動きを眺めている。
普段なら何かしら口を挟むはずなのに、今はただ見ていた。
ノートの最後の方のページで、アシュレイの指が止まる。
「……あった」
「なにが?」
そのページには一枚だけ紙片が貼られていた。
手書きではなく、切り抜かれた印刷文字。
《魂の固定は器の完全性を前提としない。不完全な器でも魂は定着しうる。
ただし――》
文章は途中で切れている。
本来続きがあったはずの部分が破り取られていた。
「これ、前も見てたやつ?」
「ああ」
「なんで破れてるの?」
「祖父が破いた」
「どうして?」
「分からない」
アシュレイの声は低くなり、ページの端を指で押さえる。
破れた部分は丁寧に切り取られており、乱暴に引きちぎられた形跡はない。
意図的に持ち去られた。
そのことだけが確かな痕跡として残っていた。
「ねぇ、アシュレイ」
「なんだ」
「アシュレイはさ……わたしのこと、直そうとしてるんでしょ?」
アシュレイの手が止まる。
その問いは真正面からだった。
曖昧さも遠回しもない。
「直したいとか、戻したいとか……そういうの、してるんだよね?」
リュカは目を伏せない。
幼さのまま、まっすぐに見上げている。
アシュレイはノートを閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……していない」
「え?」
「お前を、元に戻すことはできない」
静かに、確信をもって言った。
リュカは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次に困ったように首を傾げた。
「でも前に――」
「俺はお前を直すために研究しているわけじゃない」
言葉は淡々としている。
しかし、その声には押しつぶされるような重さがあった。
「俺は……お前を、失わないために研究している」
リュカの瞳が大きく揺れた。
「……わたしを?」
「ああ」
「失わないために?」
「そうだ」
リュカは胸の中央を押さえた。
また、きゅう、と締めつけられるような感覚が走る。
これは機械としての異常ではなかった。
彼女自身にも理由が分からない。
ただ――苦しい。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「わたし、いなくなっちゃうの?」
その声は震えていなかった。
それが逆に痛かった。
「今すぐではない」
「じゃあ、いつ?」
「分からない」
「でも、いなくなるんだよね」
「――」
アシュレイは言葉を失う。
否定できない。
肯定すれば、崩れてしまう。
沈黙が、工房の空気をぴんと張り詰めさせる。
リュカは視線を落とし、机の上に置かれた古いランプを見つめた。
「わたし、あのおばあさんみたいに……誰かに大事にされてるのかな」
アシュレイは息を呑んだ。
「お前は、大事にされている」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、なんでそんな顔するの?」
「……そう見えるか」
「うん」
リュカは笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「アシュレイは、わたしよりも、怖がってる」
その瞬間、工房の空気が変わった。
幼い言葉なのに、逃げ場がなかった。
アシュレイは目を閉じ、額に手を当てる。
「お前は、何も気にしなくていい」
「気になるよ」
「気にする必要はない」
「必要とかじゃなくて、気になるの」
やわらかく、しかしはっきりとした声だった。
リュカは椅子から降りると、ゆっくり歩き、アシュレイの作業台の横に立った。
手を伸ばす。
小さな指先が、アシュレイの袖をそっとつまむ。
その仕草は、とても弱々しく、それでいて精一杯だった。
「わたし、いなくなりたくない」
アシュレイの喉がひくりと震える。
言葉にしなければ伝わらない。
けれど、言葉にすれば壊れてしまう。
その狭間で、しばらく沈黙だけが続いた。
やがて、アシュレイは途切れるような声で言った。
「……いなくならないようにする」
「できるの?」
「できないかもしれない」
リュカは瞬きをする。
それは希望の言葉ではなかった。
それでも――逃げない言葉だった。
「でも、できるようにする」
リュカの瞳がわずかに潤む。
涙ではなかったが、光がにじむ。
「……そっか」
その一言で会話は終わった。
リュカは袖から手を離し、また椅子に戻った。
深呼吸をして、いつもの調子に戻ろうとする。
「ねぇ、アシュレイ」
「なんだ」
「わたし、晩ごはんは揚げパンがいい」
「夕食にならない」
「なるもん」
「ならない」
「じゃあ二個食べればいい」
「そういう問題じゃない」
工房に、ようやく柔らかい空気が戻っていく。
それは修復ではなく、ただ上からそっと布をかけただけのような脆い平穏だった。
外では日が完全に落ち始めていた。
裏通りに影が長く伸び、蒸気の白さが夜気に溶けていく。
工房の灯りはひとつだけ灯された。
淡く、小さいが、確かにそこにある光。
こんばんは!
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以降も読みやすい文章を心がけて進めて参りたいと思います!
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