1-28 染め布市
レヴァル・アーシェの表通りは昼へ向かうほど賑わった。
屋台の湯気が立ち、香料の甘さと金属油の匂いが混ざり合い、歩く人の肩がかすかに触れ合う。人々の動きには、互いが互いの通り道を把握しているような都市の慣れがある。
アシュレイはその流れに逆らわず、自然に歩幅を合わせて進んだ。
目は時折忙しく、顔は地味なまま、声は短く。余計な印象を残さないための歩き方だ。
リュカは横にいる。
それだけで目立つはずなのに、なぜか人の目を引かない。二十年分の鍛錬がそうさせているのか、あるいは魂が欠けているせいで視線の引きが弱いのか。どちらにせよ、今は助かる。
染め布の市は表通りから一本入った広めの横丁にあった。
屋根と屋根の間に布が渡され、鮮やかな染め布が風に揺れている。青、黄、緑――その色の海の中で、赤だけが少し控えめに見えた。売られてはいても、飾らない赤。明らかに目立つのを避けている。
「赤が少ないね。みんな好きなのに」
リュカが小さく言った。
「締めているって話だったな」
アシュレイは店先の札を見た。
『紅染め品は本日分完売』
『紅の注文は証文必須』
『赤系統の染料は入荷未定』
似た札が似た書体で並ぶ。噂が立つと札が増える。やがて、噂が現実になる。
市場の真ん中に簡易の検査台が置かれていた。
役人が二人、商人が一人。帳面を広げ、印章を確認し、樽の封を改める。
表向きには健全な管理だ。旅人に見せる顔としては申し分ない。
アシュレイはその健全さを眺めながら、逆に警戒を強めた。
その裏には必ず例外が生まれる。例外はおよそ裏路地へ落ちる。
彼は最初の一手を素朴に打った。
まず店を選ぶ。派手すぎず、貧しすぎず、客の回転が早い店。情報が集まりやすい店だ。
「すまない。染料を少し見せてくれ。赤は――」
店主は言い切る前に首を振った。
「赤? 今は無理だよ。あんた旅人だろ。証文は?」
「ないが」
「じゃあ無理だ。青ならある。黒もある。赤は、ねぇ」
店主は声を落とすでもなく、むしろ普通に断る。
そこに違和感がある。赤が危険物扱いされているというより、赤の流通そのものが”制度”で縛られている。
「証文はどこで出る?」
「染料組合か、市政庁舎の印務所。……でも旅人にゃ出ない。
赤は今揉めてるんだ。特に、昨日あたりからずっと」
昨日。
宿場で起きたことと都市の“赤い樽”の締め付けが同じタイミングで動いている。
アシュレイは追加の銅貨を一枚、布の端に置いた。
賄賂ではない。情報代として相手が受け取りやすい形にする。
「揉めてる理由は?」
店主は銅貨を見て肩をすくめた。
「赤い樽が消える。帳面は合ってるのに樽が足りない。
声を上げると検査が入る。検査が入れば当然その間は売れなくなる。
売れなきゃ飯が食えない。……で、みんな赤を避けるってわけだ」
「帳面に間違いはないのか?」
「役人の帳面はね。こっちの帳面だけが合わない」
店主の言い方は愚痴に見せかけた確信だった。
表向きは秩序がある。だが秩序に隠れた数値が現物と合わない。
そこに裏が生まれる。
リュカが横から覗き込み、布を一枚指さした。
「これ、かわいいね」
「青系ならいくらでもあるよ。買うかい?」
店主が商売の顔に戻る。
アシュレイは一枚だけ買った。薄い青。旅の服の補修にも使えるし、何より“普通の買い物”をしたという痕が残る。
店を離れ、横丁の端へ歩く。
そこでリュカがアシュレイの袖を引いた。
「……アシュレイ、あそこ」
視線の先。検査台の少し外、壁際に寄った男が二人いる。
どちらも荷運びの格好だが、肩の力が抜けすぎている。仕事をしている者の立ち方ではない。何かを見張るための立ち方だ。
アシュレイは視線を合わせないまま歩調を落とした。
「見張りだな」
「悪い人?」
「悪人面じゃない。都市は普通じゃない顔ほど目立つ」
「じゃあ、普通のふりして悪いことする人?」
「そういうことだ」
リュカが「やだなぁ」と呟く。
その「やだ」の中に、宿場で聞いた笑い声への嫌悪が混ざっている。都市の悪意は生活に溶け込んでいる分、余計に質が悪い。
アシュレイは横丁の出口へ向かわず、あえて奥へ進んだ。
染め布の市のさらに裏――布を干す路地、染め桶を洗う水路、樽の積まれる荷捌きの区画がある。
表通りの整った匂いが薄れ、湿った染料と汚れた水の匂いが強くなる。
人の声は減り、代わりに物の音が増える。桶が当たる音、樽が転がる音、誰かが短く咳をする音。
路地の角でリュカが足を止めた。
「……ここ、ちょっと薄いね」
アシュレイの背筋が硬くなる。
薄い――その言葉は、この旅の最優先警報だ。
彼は声を出さず頷きだけで返し、壁の陰へリュカを寄せた。
そして鞄の口に指を入れる。
布包み。
鍵。
触れはしない。だが――冷気が指先を撫でる。
鍵が呼吸を速めている。
都市に入ってからの反応は一度だけだった。
だが今は違う。呼吸が速いというより、どこか焦っているようにも感じる。
鍵はここを通れと言っているのか、それともここを避けろと言っているのか。
アシュレイは結論を急がない。
急ぐ時ほど熟慮した手順を踏む。
「リュカ。地面と壁に線は見えるか」
リュカは目を細め、路地の奥の暗がりを見る。
しばらくして首を横に振った。
「線は……見えない。でも、なんか息が変」
息苦しさ。身体を指標とした確かな異変。
空気の圧。匂いの密度。
線が見えないなら、まだ“入口”ではない。だが近いことには違いない。
路地の奥から男の声がした。
低い商談の声。周囲に聞かれまいと抑えつつ、逆に怪しまれない程度に発する声。
「今週分の赤はここで止める。上が締めた。……だが、抜け道はある」
「抜け道?」
「印だ。印が正しけりゃ、帳面は通る。現物がどこへ消えようがな」
印。
帳面。
消えた現物。
アシュレイの頭の中で、宿場の点検簿が落ちた瞬間の光景が重なる。
現物の存在が薄くなるのなら、帳面だけに残るのは当然だ。
帳面は合っているのに現物の数が合わない――いま都市で起きていることと同じ構造だ。
リュカが小さく囁く。
「……ねえ、あれ」
路地の奥、樽の積まれた影に深紅の蝋封が見えた。
赤い蝋に、金の粉を混ぜたような光。
その上に押された幾何学模様。線の途切れ方がどこか虚線に似ている。
アシュレイは喉が乾くのを感じた。
レドラのローブ。深紅の地に金の幾何学。
――偶然じゃない。
だがここで踏み込めば、こちらが消される可能性がある。
相手が誰かも分からない。教団かもしれないし、教団に利用されているだけの都市の人間かもしれない。
アシュレイは一歩引いた。
今は引いて、情報だけを持ち帰る。
「戻る」
リュカが目を見開く。
「行かないの?」
「行かない。今は見るだけで十分だ。
樽の蝋封――印章の形は覚えた。場所も分かった。
次は表から、正規の窓口を叩く」
「正規の窓口……印務所?」
「あとは染料組合だ。
ここで裏を掴んだ以上、表の制度がどこで歪むかを特定できる」
リュカは納得しきれない顔をしたが、すぐに頷いた。
アシュレイが戻ることを選ぶ時は、たいてい本当に危ない時だと知っている。
二人が引き返そうとした、その瞬間。
「おい」
背後から声がした。
振り向く前に、アシュレイはリュカの肩を軽く押し、壁際へ寄せる。
視線を向けるのは最後。まず距離と角度を取る。
路地の入口――さっき横丁で見た、荷運び風の男の一人が立っていた。
笑っている。だが目元は笑っていない。
「迷ったかい、旅人さん」
「迷ってはない」
アシュレイは平坦に答える。
相手に感情の糸を渡さないためだ。
「あまりウロウロしないでほしいんだけどな。
この辺は荷捌きで忙しい。子ども連れでうろつかれると――」
男の目がリュカへ滑る。
値踏みの目だ。人を人として見ない目。
リュカの指がわずかに握られる。
だが前には出ない。約束を守っている。だからこそ、余計に怒りが表情の奥に溜まっていく。
アシュレイは男の視線を遮るように半歩前へ出た。
「用があるなら表で言え。ここは荷捌きで忙しいんだろう?」
「おっと、怖い怖い。理屈屋さんか?」
男がわざとらしく肩をすくめる。
その言い回しが微妙に引っかかった。理屈屋――都市でそう呼ばれるほど、アシュレイの噂が回っているとは思えない。
なら、別の筋が彼を知っている。あるいは宿場の件がすでにここへ届いている。
アシュレイは男の足元を見る。
靴の縁に赤い蝋の欠片。金の粉。
微量だが同じ匂いがする。
「……その靴、荷運びにしては綺麗だな」
男の笑みがほんの一瞬だけ止まった。
その瞬間に答えが出る。
「都市の荷は汚いものだけじゃないんだよ、旅人さん。
――それより。赤に興味があるなら、買い方を教えてやる」
「頼んでないが」
「顔がそう言ってんだよ。
赤は表じゃ高い。裏なら――」
「裏の話に興味はない」
アシュレイが切り捨てると、男の目が細くなる。
「興味ない、ね。
……じゃあ何を探してる? 鍵か?」
その一言で空気が変わった。
男が踏み込んだのは“赤”ではない。“鍵”の方だ。
リュカが息を止める。
アシュレイは胸の奥が冷え、鎖帷子の輪が微かに鳴った気がした。
――どこかに耳がある。鍵があることを、誰かが知っている。
アシュレイは表情を変えない。無表情のまま、言葉だけを慎重に選ぶ。
「鍵?」
「とぼけるなよ。
この街は管理が行き届いてる。だから、例外はすぐ目立つ。
例外はな――誰かの懐に落ちるもんだ」
男が一歩近づく。
リュカの肩がわずかに動く。踏み出しはせず、重心を整える。武術の構えだ。
アシュレイは低く言った。
「近づくな」
「怖いねぇ。……でもまあ、今日は顔合わせだ。
宿の中庭に停めた“キャリッジ”――夜は鍵をかけとけよ」
キャリッジ。
言い当てた。都市に入ってからの動線まで掴まれている。
男は笑って踵を返した。
去り際にわざとらしく指で虚線のような動きを作ってみせる。途切れ途切れに、空をなぞる。
その仕草は吐き気を催すほどの嫌悪感を抱かせた。
男が角を曲がって消えると、リュカが小さく吐き出した。
「……今の、やだ。すっごくやだ」
「ああ」
「キャリちゃん、狙われてるの?」
「……狙われる可能性が上がった」
アシュレイはそこで初めて歩きながら結論を固めた。
都市の表は管理が行き届いている。だが裏は管理の隙間を縫って生きている。
そしてその裏が今、鍵と赤、両方に触れている。
宿へ戻る道は表通りを選んだ。
人の目が多い場所の方が今は安全だ。裏の手は多くの視線を嫌う。
中庭に入ると、キャリッジは所定の柵に繋がれ番号札も鎖も無事だった。
だが束の間の無事が安心にはならない。
今のうちに手を打つ必要がある。
アシュレイは係を呼び、短く頼んだ。
「今夜、中庭の見回りを増やせるか」
「増やせますが……何か?」
「念のためだ。追加で払う」
係は金額を聞かずに頷いた。
この都市は常に金と手順で回る。だからこそ守れることもある。
部屋に戻るとアシュレイは扉を閉め、窓の鍵を確かめ、ようやく鞄の奥から布包みを取り出した。
机の上に置く。触れずに包みの上から見る。
冷気が薄く漏れている。
鍵の呼吸は速いままだ。
リュカが椅子の端に座って言った。
「……この鍵、あの人と関係あるの?」
「あるかもしれない。
少なくとも、あいつは鍵のことを知っている」
「じゃあ、危ないね」
「そうだな」
「……時計、使う?」
リュカの声はどこか怯えている。だが逃げていない。
アシュレイはその勇気を軽く扱わないように、答えを急がずに言った。
「今夜は使わない。
使うなら、目的と出口を決めてからだ。闇雲に三秒は切らない」
「……うん」
リュカは頷き、少しだけ肩の力を抜いた。
動きが幼い。それが彼女の“今”だ。
アシュレイは紙を広げ、今日拾った事実を並べた。
・赤い樽が消える(現物行方不明、帳面は合う)
・印章と蝋封(深紅・金粉、途切れ線に似た幾何)
・裏の荷捌きに赤い蝋封の樽
・「鍵」を知る男(動線とキャリッジも把握)
・鍵の反応が路地で強まった(教団の気配)
並べれば並べるほど一本の線に見えてくる。
都市の制度の隙間に虚線が通る。
そしてその虚線は教団の色――深紅と金――を纏っている。
アシュレイはペンを置き、息を吐いた。
「……明日、印務所へ行く」
「表から?」
「ああ。表の制度のどこが壊れているかを掴む。
それが分かれば、裏の“抜け道”の入口も分かる」
リュカが机の端を指で叩く。
「じゃあ、あの男は?」
「泳がせる。近づきすぎれば、こっちが消される。
――ただし、キャリッジには手を出させない」
「キャリちゃん、守ろうね」
「それは俺の仕事だ。お前は俺の横」
「――横だよ! あ……」
「そうだ。横にいてくれ」
言い直すとリュカが少しだけ笑った。
笑った後、ふっと真顔に戻る。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「わたし、また取られるの、やだ」
その言葉は宿場での「やだ」とは違う。
記憶が戻らなくても、身体が覚えている恐怖の底が見える。
アシュレイは短く、しかし確かな言葉で返した。
「させない。
今度は入口の前で止める。――いや、入口ごと潰す」
言った瞬間、布包みの鍵がかすかに跳ねた。
机の上の布がほんの一度だけ波打つ。
まるで、“その方向で合っている”と言うように。
レヴァル・アーシェの夜が窓の外でゆっくり降りてくる。
表通りの灯りは整然と灯り、裏路地の暗さは濃く湿り気を帯びている。
都市は秩序の顔を保ったまま裏の息を深くする。
その二重の呼吸のどこかに、虚線が混じっている。
アシュレイは《クロノス》に触れず、鎖帷子の重さだけを胸に感じながら、明日の手順を決めた。
次は表から行く。
表の扉から裏の入口へ――そして、虚線の先へ。
約束の投稿時間より遅れてしまい申し訳ありません。
これに懲りずに、どうか今後ともよろしくお願いいたします。




