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1-26 レヴァル・アーシェ

 宿場を離れると、道は少しだけ広くなった。

 馬車がすれ違える程度の幅。両脇には低い石垣が続き、ところどころに蒸気管の点検柱が突き出している。柱の根元からは薄い湯気が漏れ、朝の冷気に白い筋を引いた。


 幌付き機械仕掛けの荷馬車――カラクリ・キャリッジは、歯車の軋みを小さく鳴らしながら進む。

 アシュレイにとっては実用性重視の「荷車」だが、リュカが満足そうに「キャリちゃん、えらい」と撫でているのを見ていると、訂正する気も起きない。


「速度が落ちたか……?」


 アシュレイが言うと、リュカが即答した。


「落ちてないよ! キャリちゃんはがんばってる!」


「所感は分かった。機構的に“落ちた”かどうかを知りたい」


「……きこうてきに、がんばってる!」


「……ああ。頑張りは認める」


 軽口を交わしながらも、アシュレイの視線は道路の癖を追っていた。

 轍の深さ、砂利の偏り、蒸気の漏れの位置。宿場で起きた現象がインフラに寄り添う以上、都市へ向かう道そのものも無関係ではない。


 だが、宿場ほどの差異は感じない。

 匂いも、音の途切れもない。

 つまり――入口は、入口として切り分けられている。


「……ここはまだ安全だ」


 アシュレイが小さく呟くと、リュカが横目で見た。


「アシュレイが『安全』って言うの、珍しいね」


「相対的に、だ」


「そーたいてきに、でもいい」


 リュカは少しだけ口元を緩める。

 笑う力が残っていることが、アシュレイの胸を軽くした。


 昼前、地平線に城壁が見え始めた。

 灰色の石壁に、銅管が絡み、ところどころで蒸気が噴き上がっている。

 壁の内側からは定期的な金属音――工房の槌の音や、車輪の軋み――が風に乗って流れてきた。


 レヴァル・アーシェ。

 蒸気と魔術が折り重なる都市。遠目にも生活の“機構”が見える。


 城門へ近づくにつれ、匂いが変わった。

 石と油。煤。焼いた金属。

 そして――甘い香り。花の甘さではない。染料の甘さ。薬品と香油が混ざったような匂い。


 アシュレイは無意識に眉をひそめ、すぐに自分を戒める。


「……匂いに過敏になるな。都市は匂いの塊だ」


「でも、さっきより甘いよ」


 リュカの声が少し硬い。

 嫌な記憶が刺激されている。宿場の「甘い冷気」を思い出しているのだろう。


「甘いのが全部同じとは限らない」


「……分かってる。でも、なんかやだ」


「それが正常だ」


 アシュレイはそう言い、鞄の奥――布包み――を意識した。

 鍵はそこにある。

 都市へ入る前に反応が出るかもしれない。


 城門前には検問があった。

 蒸気兵装の軽鎧を着た衛兵が二人、荷車の前で止まれと手を上げる。

 もう一人は机に書類を広げ、通行証と税の確認をしていた。


「目的は?」


 衛兵の声は淡々としている。

 旅人の言い訳に慣れた声だ。


「交易と、調達」


 アシュレイは余計なことを言わなかった。

 「調査」と言えば厄介が増える。いまは都市に入るのが先だ。


「荷は?」


「工具と帳面。売り物は少ない」


 衛兵が荷車の幌へ視線を向ける。

 リュカが反射で幌の影に寄り、手袋を握りしめた。


「……ちょっと、ちいさいかしら」


 ぼそりと呟く。

 衛兵が一瞬だけ「子ども?」という顔をし、すぐ目を逸らす。見ないふりをするのが都市の礼儀でもある。


 机の役人が書類をめくり、硬い声で言った。


「滞在は?」


「数日」


「宿は決めてるか」


「今から探す」


「……では、城門税を」


 硬貨が木皿に落ちる乾いた音がして、通行が許された。


 城門をくぐった瞬間、都市の音が押し寄せた。

 人の話し声。荷車の車輪。蒸気弁の吐息。遠くの鐘。

 空気が揺れるのは、風ではなく立ち上る熱と蒸気のせいだ。


 道は石畳に轍が刻まれ、軒先には歯車や小さな魔導ランタンがぶら下がっている。

 高い建物の間を銅管が蜘蛛の巣みたいに走り、ところどころで蒸気が吹き上がって白い柱になった。


 リュカがきょろきょろと周囲を見回し、少しだけ元気を取り戻す。


「すごい……ぜんぶ動いてる」


「都市は動いてるものだ」


「でも、宿場のと違う。こっちは……なんか生きてる」


 アシュレイはその言い方を訂正しなかった。

 たしかに都市は生き物のように機構が噛み合っている。

 だからこそ、そこへ“線”を引けば、広がり方が違う。


「まず宿を取る。そのあと――」


 アシュレイが言いかけたところで、リュカが袖を引いた。


「……鍵」


「?」


 リュカの指がアシュレイの鞄を指している。

 布包みの位置。鍵の位置だ。


「いま、動いた気がする」


 アシュレイの背筋が硬くなる。

 彼は道にできた僅かな間隙を見極め、キャリッジを人の流れの端に寄せた。

 壁際の影に入る。都市では立ち止まるのにも技術が要る。邪魔にならない場所を瞬時に選ぶ技術だ。


「……触らずに確認する」


 アシュレイは鞄の口を少しだけ開け、布包みの上から視線を落とした。

 布の表面がほんの僅かに波打っている――ように見える。

 風ではない。鞄の中から微かな冷気が出ている。


 鍵が“呼吸”している。


 そして、その呼吸は宿場で感じたときより速い。

 つまり、ここは呼吸の正体が近い。確実に近づいている。


「……反応してるな」


 リュカが唾を飲み込む。


「都市の、どこに?」


「まだ分からない。だが――」

 アシュレイは周囲を見回し、甘い匂いの濃い方角へ視線を向けた。

 路地の奥に色とりどりの布が干されている通りがある。染め布の市だ。


「染料市か……」


 リュカが嫌そうに眉を寄せる。


「やな予感」


「予感は大事だが、断定はするな。まず確認してから逃げる」


「逃げるの前提なんだ……」


「危ないなら逃げる。そのために来た。――生きるために」


 リュカは一瞬だけ黙り込み、やがて小さく頷いた。


「……うん」


 ちょうどその時、通りの向こうで小さな騒ぎが起きた。

 荷を積んだ若い行商が役人に腕を掴まれている。

 周囲の人が遠巻きに眺め、誰も口を挟まない。


「証文が違う。昨日と今日で印が変わっている」


「違わない! 昨日のままだ!」


「……そんな言葉は、証拠にならん」


 役人の机の上に赤い蝋の印章が見えた。

 深紅。

 その上に押された幾何学模様の線がほんの少しだけ金色に光っている。


 アシュレイの目が細くなる。

 模様は都市の正式印にも見える。だが、線の途切れ方がどこか虚線に似ている。


 リュカがほとんど聞こえない声で呟いた。


「……あれ、似てる」


「見ないでいい」


 アシュレイはリュカの視界を身体で遮るように立ち位置を変えた。

 そして、行商と役人の会話を必要な分だけ聞き取る。


「昨日、染料樽が一つ消えたと言っていたな」


「消えてない! 届いてないだけだ!」


「届いていない、消えた、盗まれた――言葉遊びはどうでもいい。

 “赤い樽”は今、厳しくめている」


 赤い樽。

 染料。

 締めている。つまり供給が絞られている。

 混乱が起きる時、たいてい取引は裏へ回る。


 アシュレイは鞄の口を閉め、再びキャリッジの操縦桿に手を置いた。


「宿を取り、荷を置く。――それから染め布の市へ行く」


「先に行かないの?」


「鍵が急かしている。

 急かされる時ほど、まず段取りを踏む。宿を取らずに動くのは悪手だ」


 リュカは「わかった」と言い、少しだけ視線を上げる。


「……アシュレイ」


「なんだ」


「今日、三秒は使わないでね」


 アシュレイは短く息を吐いた。

 使わない、と言い切るのは嘘になる。軽く約束するのも違う。


「……使わないで済むように動く」


「うん。そうして」


 都市の通りをキャリッジが小さく軋みながら進む。

 蒸気の白が視界を横切るたび、鍵の呼吸がわずかに速くなる。


 レヴァル・アーシェのどこかに、扉がある。

 鍵が導く扉。

 虚線が通じる“余白”への入口。


 アシュレイはその扉を、今度こそ「こちら側の手順」で開けるつもりだった。


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