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1-25 出立前の休息

 蒸気亭の二階の部屋は朝より少し暖かかった。

 炉に薪が足されたのだろう。床板の冷えが和らぎ、窓の外の霧も薄くなっている。


 アシュレイは荷を整え終えると、椅子に深く腰を下ろした。

 鎖帷子の輪が服の下で小さく擦れた。身体のどこかがまだ戻りきっていない。三秒の代償はこういう形で残る。


 机の上には点検図の写しと道守の手記。

 その横に布包みが二つ置かれている。予備鍵と、昨夜リュカの掌に現れた鍵。


 リュカは窓辺に座り、足を揃えて外を見ていた。

 視線が橋の方角を避けている。意識して避けているのが分かる。


「……アシュレイ」


「ん?」


「寝て」


 命令形に限りなく近い依頼の二文字。

 アシュレイは返事をしようとして、言葉を飲み込んだ。ここで言い訳を始めると、彼女は引かない。引かない相手に言い訳を積み上げても互いに疲れるだけだ。


「……分かった。寝る」


 自分の口から出た言葉に少しだけ驚く。

 理屈で割り切るより先に、身体が“必要だ”と判断していたのかもしれない。


 リュカは「よし」と言いかけて、口をつぐんだ。

 言いたいのに言わない。言うとアシュレイが突っ込むからだ。学習している。


 アシュレイはベッドに横になり、瞼を閉じた。

 眠りは深くない。だが、それでいい。次の行動のために、神経を一段落とすだけでいい。


 ――それでも、落ちていく。


 意識が沈む直前、遠くで水音がした。橋脚の下の流れの音。

 その音が途中で一度だけ途切れる。


 アシュレイは反射で目を開けそうになり、堪えた。

 音の途切れが本物かどうか確かめるために起きるのは、相手の思う壺だ。

 確かめたくなるところに罠がある。


 代わりに、彼は心の中で手順を数えた。


 レヴァル・アーシェへ。

 蒸気管の管理所。

 染料と金粉。

 点検記録の改竄。

 教団の“線”の引き方。


 手順を数えるうちに、意識が浅く落ちた。


   *


 リュカはアシュレイの寝息を確かめるように横顔を覗き込んだ。

 寝息は小さい。けれど止まってはいない。人間の生の音だ。


 ――この人は泣かない。代わりに、いつも耐えている。


 昨夜の声を思い出す。

 ――「寝坊はするなよ」

 あの不器用な言葉が胸の奥に沈んで、まだ温かい。その真意を思うと温かくて、怖くなる。逃げたくなる。


 でもリュカは逃げない。逃げたら、この人が一人になる。

 それだけは嫌だ。


 机の上の布包みへ視線がいった。

 鍵。昨夜、自分の掌に突然あった鍵。


 触りたくない。

 けれど、触れたくないものほど、放っておくともっと嫌な形で牙を見せる。


 リュカは手袋をはめ直し、息を浅くする。

 アシュレイの言いつけ――「条件を増やすな」――を思い出しながら、布包みに触れない距離で、じっと見た。


 その時、鍵の表面の曇りがほんの僅かに揺れた。


 吸って、吐いている。


 リュカは眉を寄せる。

 そして、机の上の点検図へ目を移す。橋の支線。管理棟。点検口。


 鍵の曇りがまた揺れた。


 ――違う。


 橋の図を見ていると、鍵の呼吸が少し弱い。

 代わりに、点検図の端に書かれた“レヴァル・アーシェ”の文字へ視線を置くと、鍵の呼吸が強くなる気がした。


 リュカの背筋が冷えた。


 この鍵は、場所に反応する。

 そして今、都市の名前に反応している。


 彼女はその事実を口にしようとしたが、やめた。

 起こすべきではない。起こしていいだけの緊急性はない。

 今この人が寝ていることの方が大事だ。


 リュカはそっと布の端だけ引いて鍵を覆い直した。

 触れない。近づけない。条件を増やさない。


 そのまま、窓辺へ戻った。


   *


 昼前、アシュレイは目を覚ますと、頭の奥の圧が少しだけ引いていた。

 疲れが消えたわけではない。だが、判断の輪郭が戻っている。


「……眠れた」


「眠ったね」


 リュカが誇らしげに応えた。

 なぜか寝かしつけた側の顔をしている。


「……偉そうだ」


「えへん」


「そこで得意になるな」


「なるもん」


 いつもの調子に少しだけ安心する。

 アシュレイは机へ向かい、道守の手記をもう一度読み返した。


 赤い染料。金色の粉。引きちぎられた頁。

 「余白」「落ちる」という囁き。


 彼は女将に頼んで道守の妻へ無事を伝えた兵の報告も聞いた。

 妻は泣いたが、道守が戻ったことそのものが、宿場に日常を戻した。日常が戻れば人は噂を語る。口が開けば情報が落ちる。


 アシュレイはその落ちる情報を拾う必要があった。


「出る」


 アシュレイが言うと、リュカがすぐに立ち上がる。


「レヴァル・アーシェだね」


「ああ。ここは入口だ。入口でいつまでも足踏みしていられない」


「入口って言い方、なんかこわい」


「もう始まったことだ」


 リュカは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに頷いた。

 そして荷を見て、幌の方角を指さす。


「キャリちゃん、準備万端?」


「荷車だ」


「キャリちゃん!」


「……キャリッジ。準備はしてる」


 少し言い直すと、リュカは満足したように笑った。

 笑いがあるうちはまだ大丈夫だ。まだ意思を奪われてはいない。


 部屋を出る直前、アシュレイは布包みを確認する。

 鍵はそこにある。

 触れないまま、存在だけを確かめる。


 ――鍵は都市を指している気がする。


 ただの勘ではない。

 だがまだ、確証にできるほどの材料もない。


 ならばやることは一つ。

 都市へ行き、物資の流れと管理記録と、人の口を拾い、確証に変える。


 階段を下りる途中、外から小さな風が吹き込み、霧が一瞬だけ割れた。

 橋が見える。

 いつも通りの木橋。今日の陽に照らされて、何事もなかった顔をしている。


 アシュレイは橋を一度だけ見て、すぐ視線を外した。

 入口はもう振り返らない。用があるなら、その時にまた戻ればいい。

 だが戻る時は、今より強くなってからだ。


 蒸気亭の外で荷車――カラクリ・キャリッジが待っている。

 車輪が乾いた音を立てた。


 都市へ。

 そして、線を引いた者の手元へ。


 アシュレイは小さく息を吐き、リュカの頭――正確には、彼女の目線の高さに合わせて視線を落とした。


「……行くぞ、リュカ」


 リュカは真顔になり、短く返した。


「うん。置いてかないでね」


「置いていかない」


 言い切った。

 今度はその必要があった。


 こうして二人は宿場の入口を背に、レヴァル・アーシェへ向けて動き出した。

 鍵が指す都市のどこかへ――そして、次の事件へ。


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