1-24 道守の手記
点検口の前は兵が簡易の縄と札で封鎖した。
封鎖といっても木橋の基部の斜面だ。誰もが恐れて近づかない今は、それで十分だった。
道守ヴァルドは兵に肩を借りながら歩いている。足取りは覚束ないが、転ぶほどではない。
ただ、時折ふっと膝が抜ける。足元の床がない感覚がまだ身体に残っているのだろう。
アシュレイはその後ろを歩き、胸の奥を確かめる。
一回使った。残り五回。
《クロノス・レイテンシ》は何も言わないが、使った後の身体が確実に覚えている。視界の端がわずかにズレる。耳の奥で薄い圧が鳴る。鎖帷子の輪がいつもより重い。
――三秒はただの便利な抜け道ではない。
それを思い知らされる程度には十分すぎる負荷だった。
リュカはアシュレイの横を歩いている。
勝手に前へ出ない。約束を守っている。そのぶん、どこか顔が硬い。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「さっきの笑い声」
「聞こえたか」
「やだ」
「俺もだ」
短い会話で済ませた。
慰めの言葉を長くすると、逆にその笑い声に形を与える。今はその時ではない。
蒸気亭へ戻ると、女将がすぐに飛び出してきた。
道守の姿を見た瞬間、顔がぱっと明るくなる――が、次の瞬間に泣きそうになる。安心と恐怖が同時に押し寄せた顔だ。
「……ヴァルド!」
「……戻った。だが、まだ……頭が」
道守は自分の額を押さえ、息を整える。
女将が手際よく椅子を引き、湯を持ってきた。宿場の女将はこういう時こそ心強い。
兵が言った。
「奥さんには俺が伝える。……生きて戻ったって」
女将は頷き、アシュレイとリュカを見る。
「で、どうするんだい。何があった?」
「今はまだ話させない」
アシュレイが言い切ると、女将は驚いた顔をして、すぐに理解した。
「……そうか。今ここでベラベラ喋らせると、また何かに引っかかるんだね」
「そういうことだ」
アシュレイは道守へ紙とペンを差し出した。
差し出すだけだ。無理に握らせない。無理をさせると余計に震える。
「落ち着いたら書け。できるだけ声にはするな。
“何を見たか”じゃなく、“何をしたか”“何が起きたか”を、順番に」
道守は苦笑いを浮かべた。
「……あんた、妙に理屈っぽいな」
「そうでもない」
「いや、ここじゃ……あんたみたいのが、いちばん信用できる」
道守の視線が窓の方へ流れ、すぐ戻った。
戻すのが早い。見ると引きずられると知っている動きだ。
リュカが机の端に腰かけ、道守をじっと見た。
「ねえ、笑った?」
単刀直入すぎて、女将が思わず「こら」と言いかけた。
だが道守は首を横に振った。
「笑ってない。……笑える状況じゃない」
リュカが小さく息を吐いた。
「よかった」
その「よかった」は場の空気を少しだけ軽くした。
女将が咳払いをして、話を現実へ戻す。
「ヴァルド、まずは湯を飲みな。手が震えてんだ」
「……ああ」
道守は湯を飲み、ようやく指先の震えが少し収まった。
アシュレイはそのタイミングで余計な言葉を挟まない。落ち着く時間を奪うのが最もよくない。
代わりに、机の上に今朝の点検図の写しを広げた。
橋、管理棟、点検口、蒸気管。
そして自分の手帳に写した虚線の形。
リュカが覗き込み、顔をしかめる。
「これ、見るだけでイヤな気持ちになる」
「それが正常だ」
「正常なんだ……」
「正常だ。――異常なのはこの線の方だ」
虚線は落書きではない。
何かを繋ぐための記述だ。境界の縫い目でもある。
アシュレイはそこで昨日の「鍵」を思い出した。
鍵はもう一つ目的を持っている。
扉を開けるための鍵ではなく、境界を開閉する“弁”。
彼はリュカへ視線を向ける。
「昨日、手の中に出た鍵――いま、どこにある?」
「アシュレイの鞄。奥」
「触ってないな」
「触ってない。偉い?」
「言われるのは嫌じゃかったか?」
「いまはいいの!」
小さな言い合いがほんの少しだけ空気を和らげる。
女将が困ったように笑い、道守が「元気だな」と呟いた。
やがて道守が紙にペンを走らせ始めた。
筆圧は弱いが、字は整っている。職務で記録をつける人間の字だ。
アシュレイは書かせる間、観察に徹した。
道守の手が止まるタイミング。深呼吸の回数。目線の動き。
話すより書く方が安全だとしても、書く行為自体が“条件”になりうるなら、途中でも無理はさせない。
十分ほどして、道守が紙を差し出した。
アシュレイはそれを受け取り、声に出さずに読む。
要点だけを頭の中で整理し、女将と兵に必要な範囲だけ伝えるつもりだった。
――昨夜、橋の上で「甘い冷気」を感じた。
――橋板を踏む前に、耳元で囁く声があった(内容は「余白」「落ちる」)。
――気づいたら橋の下の点検路に立っていた(移動の記憶が欠ける)。
――点検口の扉は勝手に開いていた。中から自分の名前を呼ぶ声がした。
――入った途端、床が抜ける感覚。足元に線が見える。
――引き返そうとしても出口がはっきり見えない。見えているのに届かない。思うように動けない。
――手元の点検簿が一冊、勝手にめくれ、「橋の支線」の頁だけが引きちぎられた。
――その頁に赤い染料の痕と、金色の粉(細かい金属粉のようなもの)。
――そこから時間の感覚が狂い始めた。
――誰かが笑った。姿は見えない。
――それ以降、外の声(兵の声)は聞こえたが、返事をするとさらに線が増える気がして黙っていた。
――今朝、旅人に引かれ、外へ出た。
アシュレイは紙を机に置き、息をひとつ吐いた。
重要なのは二点。
ひとつ。
「余白」という言葉が出たこと。
それはレドラの口癖のようなものだ。二十年前と同じ。
もうひとつ。
赤い染料と、金色の粉。
深紅のローブに金の幾何学模様。
偶然で片づけるには揃いすぎている。
アシュレイは兵へ言った。
「封鎖は続けろ。点検口は絶対に触るな。札を掛けるのも禁止だ」
「上に通す」
兵の返事は速い。今度は迷いがない。
自分の目で現象を見た者の顔だ。
女将が小さく尋ねた。
「……つまり、教団の仕業ってことかい」
「断定はしない。ただ――関与している可能性は高い」
言い切らない。
だが、逃げない。
リュカがアシュレイの袖を引いた。
「ねえ。余白って言葉、やっぱり……」
「ああ。二十年前と繋がる」
リュカは黙り込み、視線を落とした。
落とした視線の先で手袋の指がぎゅっと握られている。
「……わたし、また“余白”って言われるの、やだ」
「言わせない」
「言わせないって、どうやって」
アシュレイは少しだけ間を置いた。
抽象的な気合いではなく、具体的な言葉を返すために。
「まず、レヴァル・アーシェへ行く」
「え」
「この宿場は“入口”だ。
教団が動くなら、線を敷く物資が要る。染料も金粉も要る。
蒸気管の図面や管理記録も要る。――それが集まるのは都市だ」
女将が眉を寄せる。
「レヴァルは大きい。人も多い。……危険も多いよ」
「人が多いからこそ、情報が落ちる。
それに、俺たちは旅の目的がある。寄り道ではない」
リュカの目が少しだけ揺れる。
「……魂のこと?」
「ああ。お前の魂の欠けを埋める手掛かりがどこかにある。
レドラと教団の動きも、そこへ繋がっている可能性が高い」
リュカは頷いた。
頷き方は小さいが、確かに逃げない者の頷き方だ。
道守が弱々しく笑った。
「……理屈屋ってのは、こういう時、頼もしいな」
「そう見えるだけだ」
「じゃあ、そいつを信じるよ。俺は……もう、消えるのは勘弁だ」
女将が道守の肩を叩く。
「黙って寝な。しゃべると悪いものが寄ってくるんだろ」
「寄ってくるのは客だけにしてほしい」
「そりゃ無理さ。宿だもの」
ツッコミが軽く入って、場が少しだけ笑った。
笑えるうちはまだ大丈夫だ。少なくとも、意思を奪われてはいない。
アシュレイは席を立ち、荷の準備を再確認した。
鎖帷子、計測具、紙束、点検図の写し。
そして《クロノス》――残り五回。
窓の外、橋は朝の光を受けている。
小さな橋だ。そのくせ、人の存在を薄くする。
アシュレイはその橋を見て、心の中で線を一本引いた。
ここは入口。
次は都市だ。
そして、いずれ――教団の中心へ。
リュカが背後から小さく言った。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「今日は、ちゃんと寝てね」
「……努力する」
「それじゃだめ。寝るの」
「命令か」
「命令だよ」
「……了解」
その短い約束だけは、理屈抜きで守ろうと思った。
でないと、次の三秒で手が震える。躊躇いが生まれる。
そして少しでも躊躇えば――今度は、守れないものが増える。




