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橋の基部へ向かう細道は、踏み固められてはいるものの誰かが日常的に通っている気配が薄かった。
草がところどころ寝ている。昨夜から今朝にかけて人が動いた痕跡はあるが、足跡として残るほどくっきりしていない。湿っているのに、土そのものが“記録”を拒んでいるかのようだ。
若い兵が先に降り、槍で斜面の安定を確かめながら道を作る。
アシュレイは少し後ろ、リュカはさらに半歩後ろ――と言いたいところだが、横に並ぶ位置を譲らない。
「前には出るな」
「出ない。横でしょ」
「よし」
「よしって言わないで」
「噛みしめただけだ」
小声のやり取りが霧の中で消える。
耳を澄ますほどの静けさではない。だが、静けさの“密度”が昨日と違う。霧が薄くなるのと一緒に、空気に現実の重さが戻ってきている。
橋脚の真下へ近づくと、川の音が少し大きくなった。浅い流れが石を撫でる音。
その音が一定の場所でわずかに歪む。
――橋脚の陰。
そこだけ水音が吸われる。
吸われるというより、同じ音が“薄い膜”越しに聞こえる。
アシュレイは足を止め、兵の背中へ声を落とした。
「ここから先、息を吸いすぎるな。甘い匂いがある」
「……匂い?」
兵が鼻をひくつかせ、顔をしかめる。
「ほんとだ。妙な匂いだな……」
リュカが手袋で口元を覆い、すぐに手を離した。
「勝手に来るやつだ」
「そうだ。気をつけろ」
アシュレイは目だけで周囲をなぞった。
匂いの濃い場所は一点に寄っている。橋脚の石積み、その根元。そこに木製の小さな扉が埋め込まれている。
点検口。
木は古く湿気で黒ずんでいる。金属の蝶番と錠前だけが妙に新しい。
錠前の横に小さな札を下げる場所があり、そこに――途切れた線の印が刻まれていた。
兵が唾を飲み込む。
「……ここか」
「ここだ」
アシュレイはまず地面を見た。
土の上に虚線はない。少なくとも肉眼で分かる形ではない。
だが、扉の前の石だけ乾き方が違う。周りが湿っているのに、そこだけ妙に均一に乾いている。まるで、熱でも吸われたみたいに。
リュカが小さく言った。
「アシュレイ……ここ、息がしにくい」
「薄いんだ」
兵が槍を構え直し、扉へ半歩近づいた。
「開けるぞ」
「待て」
アシュレイが止めると、兵が不満げに眉を寄せた。
「また手順か」
「そうだ。
開ける前に観測する。開けたら条件が変わる」
「観測って何を――」
「錠前の形、刻印、札の掛け跡。扉の隙間の風。匂いの強さ。音の変化」
アシュレイは鞄から紙と鉛筆を出し、錠前の形を素早く写した。
鍵穴は管理棟のものと違う。より狭く、縦に深い。精密というより、意図的に“普通の鍵”を拒む形だ。
そして鍵穴の縁に細い傷がある。
何度も差し込まれた傷ではない。刃物でこじ開けようとして失敗した傷でもない。
逆向きに差し込んで回した傷。
偶然の失敗か、あるいは意図的な失敗。
意図的とはつまり――開けたくないが、開けざるを得ない時にやる動きだ。
「……道守は、ここを開けるのを拒んでいた可能性がある」
兵が顔をしかめた。
「なんで分かる」
「錠前がそう言っている」
アシュレイは札を取り出した。道守の私物の木札。
途切れた線の印。点検中を示すための札。
「これを掛ける位置は――」
札掛けの金具に擦れ跡がある。昨日今日の擦れではない。
道守はここへ来ていた。何度も。
兵が言う。
「普通に札を掛けて開ければいいんじゃないか?」
「札を掛けるのは“外向きの合図”だ。現象への合図じゃない。
……ただ、掛けた状態が“正規の手順”なら、現象の反応が変わる可能性はある」
リュカが首を傾げる。
「現象って、手順好きなの?」
「現象を正確に再現させたい者が、手順を用意する」
「なんか嫌だなぁ……」
アシュレイは札を掛けるか迷い、結局、掛けなかった。
いま必要なのは“見せかけの手順”ではなく、現実にある安全だ。
「鍵を出す」
アシュレイは布包みを取り出し、例の鍵――昨夜リュカの掌に現れた鍵――を布の上に置いた。
兵が目を細める。
「それ、合うのか?」
「合うかどうかを確かめるのは君だ」
「また俺か」
「責任の所在の話だ」
兵は舌打ちしかけ、飲み込んで頷いた。
そして鍵を布の上からつまみ上げた――つもりで、指を止める。
鍵が冷たい。
ただの冷たさではない。
冬の金属の冷たさではなく、指先の熱が吸われるような冷たさだ。
「……これ、なんか変だぞ」
「離せ」
アシュレイが言うと、兵は反射的に鍵を布へ戻した。
戻した瞬間、指先が少し赤くなる。凍傷ほどではない。だが確実に熱が奪われた痕がある。
リュカが小さく呟いた。
「鍵が……呼吸してる」
「呼吸?」
「冷たいのが来たり引いたりしてる」
アシュレイは目を細め、鍵の表面をよく見た。
確かに、金属の曇りが僅かに揺れているように見える。湿気のせいにも見えるが、揺れ方に周期がある。
――吸って、吐いている。
「……境界の“弁”だ」
アシュレイが言葉にした瞬間、兵が顔をしかめた。
「べん?」
「蒸気管の弁と同じだ。開閉を制御する。
この鍵は扉を開けるための鍵じゃない。扉の向こうと繋げる鍵だ」
リュカが唾を飲み込む。
「じゃあ、これを差したら……向こうから来る?」
「その可能性がある」
兵が後退した。
「冗談じゃ――」
「だから準備がいる」
アシュレイは鎖帷子の胸元を軽く押さえた。鎖の輪が服越しに鳴る。
彼は《クロノス》に触れず、声だけで決める。
「……ここで三秒を使う可能性が高い」
「いま?」
「いま、ではない。
まず開け方を決める。開ける動作は一度だけ。やり直しはしない」
アシュレイは手帳を開いて短く指示を書き、口でも確認した。
「いいか。
俺が合図するまで誰も錠前に触るな。
鍵は布の上に置いたまま。
扉が開いたら――」
彼は兵を見る。
「君は一歩下がれ。槍は構えたまま、踏み込むな。
中にいる“誰か”に声をかけるな。返事をした時点で条件が増える」
次にリュカを見る。
「お前は俺の背中、斜め後ろ。線が見えたら即座に言え。
怖くなっても前へ出るな。絶対だ」
リュカは一瞬だけ反発しそうな顔をしたが、唇を噛んで頷いた。
「……うん」
最後に、アシュレイは自分へ言い聞かせるように付け足す。
「俺が三秒で戻らなかったら、兵を呼ぶこと。お前は動くな」
リュカの眉がきゅっと寄る。
「戻ってね」
「ああ」
返事は短くした。長い約束は守れなかったときの傷が深い。
アシュレイは布包みの鍵をピンセットでつまみ上げた。
金属の冷たさがピンセット越しに伝わる。
鍵穴へ向けて近づけると匂いが濃くなる。甘く、冷たい。
橋脚の陰で空気が薄くなる。
鍵穴に差し込む瞬間、リュカが低く言った。
「……線、出てる」
アシュレイは動きを止めず、視線だけで扉の縁を見る。
扉の隙間から、細い“途切れ線”が伸びている。木目の亀裂ではない。昨日の橋板の裏と同じ質感。
そしてその線は鍵穴の周囲へ向かって集まっている。
――鍵を差し込む動作そのものがトリガー。
アシュレイは鍵を押し込んだ。
ガチリ。
金属の音はした。
だが音が半分で切れる。残り半分が薄い膜の向こうへ落ちる。
現実の音が途中で消える。
兵が息を呑む。
「……!」
アシュレイは鍵を回した。
回す。
回したはずなのに、手応えが途中で抜ける。
錠が外れる感触はある――が、外れたのはこちら側ではない。
次の瞬間、扉が勝手に内側へ引かれた。
人の手で開けたのではない。
扉の向こうがこちらを吸ったかのようだ。
暗い穴が口を開ける。
湿った石と蒸気の匂いが強く吹き出す。
その中に――人の匂いが混じっている。汗と布と、恐怖。
「……たすけて」
声が今度ははっきり聞こえた。
橋の上ではない。ここからだ。点検口の中から。
兵が反射で踏み込みかける。
「中に――!」
「止まれ!」
アシュレイが抑えた声で叫ぶ。
兵の足が止まる。止まった瞬間、点検口の縁に虚線が走る。
線が扉の縁から地面へ伸び、兵の靴先へ向かう。
リュカが息を呑んだ。
「……来てる、線が来てる!」
アシュレイは即座に兵の腕を引き、半歩後ろへ下げた。
線は兵の靴先で途切れ、消えた。
消える瞬間、どこかで“くすり”と笑う気配がした。
気配だけ。
だが確かに――誰かが見ている。
点検口の中から再び声がする。
「……たのむ……ここは……足が……」
道守だ。
言葉がまともだ。笑っていない。固定されていない。
その事実だけでアシュレイの胸にわずかな光が差した。
――生きている。
「ヴァルドか――!」
兵が叫びそうになり、アシュレイが手で制した。
「呼びかけるな。返事が条件になる」
「でも――!」
「返す言葉は最短でいい。
リュカ、声を低く。耳元対策だ」
リュカは頷き、点検口へ向けて短く言った。
「動かないで!」
返事はすぐ来た。
「……動けない……床が……ない……」
床がない。
まただ。接地の欠落。
アシュレイは点検口の内側を覗いた。
狭い通路。石壁。蒸気管。弁。
そして――奥に人影。座り込むように、壁にもたれている。
だが、足元の一部が暗すぎる。影ではない。暗さが、質からして違う。そこだけ光が薄い。
虚線が点検口の中の床面にも走っている。
途切れ途切れの線が道守の足元へ集まり、彼の身体の下半分を絡め取っているように見えた。
兵が青い顔で囁く。
「……引っ張れば助けられるか」
「引っ張れば、線が反応する」
「じゃあどうする」
アシュレイは胸元の《クロノス》を思い浮かべ、歯を食いしばった。
三秒。六回。
ここで使うのは早いかもしれない。だが、これ以上待てば道守の存在がさらに薄くなる。
彼は判断のための材料を揃えた。
線の位置。匂いの濃度。声の状態。反応の規則。
――線は“踏む”だけでなく、“近づく”ことで伸びる。
――声に反応する可能性がある。
――扉は内側へ吸われた。境界そのものが能動的だ。
つまり、普通に踏み込めば、こちらまで薄くなる。
ならば、薄くなるまでの時間をこちらが管理する必要がある。
アシュレイは息を整え、リュカの方へ振り向いた。
視線だけで伝える。
これから危ないことをする、と。
リュカは小さく頷き、口だけで言った。
「……戻ってね」
アシュレイは返事をしない代わりに、ほんの一瞬だけリュカの肩へ触れた。
その触れ方は「頼む」の代わりだった。
次に兵を見る。
「俺が入る。
君は扉の外で待機。絶対に踏み込むな。
俺が戻ったらすぐ扉を閉める。閉められるなら、だが」
「おい、無茶だ――」
「そのために、三秒を使う」
アシュレイはようやく胸元の《クロノス》へ指を当てた。
触れた瞬間、冷たさが皮膚に刺さる。
表面こそ冷たいが、内側が熱を持っている。心臓が速くなる。
彼は《ミスリル・ヴェストメント》の輪が胸に当たる感触を確かめ、点検口の敷居を跨いだ。
虚線が足元へ伸びる。
伸びる前に――アシュレイは《クロノス・レイテンシ》を起動した。
世界が一段、静かになった。
音が遠ざかるのではない。
周囲の時間が薄れる。
自分だけが、速い。
――三秒。
アシュレイは点検口の中へ滑り込み、道守の足元へ視線を固定した。
虚線の集まる箇所。そこが境界の縫い目だ。
彼は道守の腕を掴んだ。直接掴む。迷う暇はない。
「声を出すな。息を止めろ」
道守の瞳が見開かれ、必死に頷く。
アシュレイは道守の身体を引くのではなく、ずらす。
足元の薄い部分から体重の中心を外へ移す。
引っ張れば線が絡む。だが重心を移せば、線の方がほどける可能性がある。
武術の心得はない。
だが最も信頼できる物理だ。再現性のある理屈だ。
鎖帷子が胸元でかすかに鳴った。
圧が増す。鼓膜が内側から押される。
亜空間の負荷が肌を撫でるように押し寄せる。
――一秒。
道守の足元の暗さがわずかに薄れた。
薄れたというより、“こちらの側の床”に戻ってきた。
――二秒。
アシュレイは道守の肩を抱え、半身で支えながら後退する。
虚線が追ってくる。だが追い方が鈍い。
まるで、こちらの速度についてこれていない。
――三秒。
境界の縁で世界が跳ねた。
音が戻る。匂いが戻る。重さが戻る。
そして、道守の身体が外へ転がるように出た。
「うぐっ……!」
兵が受け止め、道守を地面に寝かせる。
リュカがすぐに駆け寄りそうになり、アシュレイが腕で止めた。
「近づくな。線が残ってる」
確かに、点検口の縁には虚線がまだ走っている。
しかし、さっきまでの伸びてくる感じが弱い。
道守が外へ出たことで、線の目的の一つが失われたのかもしれない。
道守は荒い息で声を絞り出した。
「……すま……助かった……」
兵が顔をしかめる。
「ヴァルド! お前、何が――」
「喋らせるな」
アシュレイが遮る。
「まず水を飲ませろ。呼吸を整えろ。
今ここで説明させると、また条件が増える」
兵は不満そうだったが、従った。
詰所での訓練が効いている。命令系統があると人は恐怖よりも先に動ける。
道守は水を飲み、喉を鳴らした。
まだ震えているが目はしっかりしている。
笑っていない。固定されていない。それだけで十分救える。
だが――点検口の奥から薄い笑い声がした。
くすり。
耳元ではない。
それでも背中の皮膚が粟立つ。
リュカが小さく呟く。
「……見てる」
アシュレイは点検口の暗闇を見つめた。
その奥に何かがある。誰かがいる。
そしてそれは、こちらが“助けた”ことを見て笑った。
アシュレイは《クロノス》を胸の内側で感じた。
冷たさがさっきより増している。
六回のうち一回を使った。残りは五回。
道守を救った。
だが同時に――相手に「こちらが切り札を持っている」ことを教えた可能性がある。
アシュレイは息を整え、短く言った。
「……撤退する。点検口は封鎖。
道守は宿へ戻れ。
そして――今聞いたことは、落ち着いてから紙に起こす」
兵が唾を飲み込む。
「まだ中に……何かいるのか」
「いるかもしれない。
だが今は追うな。追えば、次はこっちが捕らわれる」
リュカが小さく拳を握った。
「……勝った?」
アシュレイは一瞬だけ迷い、結局、現実的に答えた。
「一つ、取り返した。
――勝負はこれからだ」
点検口の闇がほんの少しだけ揺れた気がした。
揺れたのは霧か、蒸気か、それとも境界そのものか。
アシュレイは視線を逸らさずに、最後に一度だけ言い捨てた。
「……もう、好きにはさせない」
それは宣言であり、挑発でもあった。
そして、その言葉の重みを彼は理解していた。
だからこそ――次の一手はより慎重に、より確実に打つ必要がある。




