1-22 ミスリル・ヴェストメント
蒸気亭へ戻る道すがら、霧は少しずつ薄れていた。
朝の光が強くなるほど湿った空気は輪郭を持ち始める。見えないものが見えるようになるのではなく――見えないものを「見えないまま」にできる時間が増える。
今のアシュレイにはその程度の“普通”さえありがたかった。
管理棟から離れた後、若い兵は詰所へ駆けていった。封鎖と増員を上へ通すためだ。
兵としての仕事は勇敢さではなく手順にある。アシュレイはそれを知っているから余計な叱責もしない。彼に必要なのは感情の共有ではなく、事実の積み上げだった。
蒸気亭の裏口から入ると、女将がすぐに顔を出した。
朝餉の支度で袖をまくっている。だが目は鍋ではなく、すでに二人の顔を見ていた。
「……行ったんだね。どうだった」
「管理棟の床に虚線があった」
アシュレイが端的に言うと、女将は息をのんだ。
「やっぱり……」
「それと、点検簿が落ちたのに音がしなかった。中で“消えた”可能性が高い」
「消えた、って……」
「橋の下で、拾った物が三秒で消えた。代わりに鍵が出た。
同じことが管理棟でも起きている」
女将は言葉を探し、結局、現実的な質問を選んだ。
「……じゃあ、次はどうする。橋に行くのかい」
「行く。だが無理はしない。
まず準備をする。情報と装備と、人の配置を整える」
女将は眉を寄せた。
「装備って、あんた……兵士でもあるまいに」
「《ミスリル・ヴェストメント》を使う」
アシュレイは背負い袋の奥に入れた薄い鎖帷子を思い浮かべる。
金属の輪が連なるそれは、武器の前では心許ない。だが、この件で守るべきは刃ではない。三秒の中で生じる“負荷”だ。
リュカが小声で言った。
「アシュレイ、あれ着るとさ、ちょっと強そうに見えるよ」
「見えるだけだ」
「見た目もすごく大事」
アシュレイは反論を飲み込んだ。
確かに、今は“見える”ことが大事だ。自分の覚悟がぶれないように。相手に舐められないように。何よりリュカが安心するように。
部屋へ戻ると、アシュレイは机を空け手帳と紙を広げた。
昨日の橋下の写し、今朝の管理棟の床線の写し、点検図のスケッチ。そこへ、女将から聞いた情報と、道守の妻から受け取った予備鍵の形状を重ねる。
鍵は二本ある。
予備鍵は「管理棟の扉」を開けるためのもの。
一方、昨日リュカの手に現れた鍵は刻印が“管理所の印”に似ていた。だが管理棟扉の鍵穴に合うかどうかは確認していない。確認していないのは当然だ。むやみに鍵穴へ差し込むだけで条件が増える。
アシュレイは紙に、やるべきことを箇条書きにした。
・鍵の用途を特定(どの扉の鍵か/合う鍵穴の形)
・管理棟内の異常箇所を再確認(赤い痕・欠けた道具・点検簿の消失)
・橋周辺の“線”の位置取り(踏まずに観察できる地点)
・三秒の使用条件を統制(誰が、どこで、どう使うか)
使うなら“必ず回収動線”を作る(戻る場所・合図・保護)
書き終えたところでリュカが椅子の上で足を揃え、覗き込んだ。
「ねえ、四つめのやつ。三秒の使用条件って……なにを決めるの?」
「主に誰が使うか、だ」
「アシュレイでしょ」
「そうだ」
「じゃあ終わりじゃん」
「終わりじゃない。三秒の間、俺が“いなくなる”可能性がある。
その時、お前がどう動くかも決める」
リュカの眉がぴくりと動く。
反発したい顔だが、口に出す前に自分で飲み込んだ。
「……わたし、勝手に飛ばされたりするから?」
「そうだ」
「やだ」
短い拒否。子どもみたいで、でも切実だ。
「だから“消えること”を前提に動線を組む。
俺が三秒で戻れない可能性もゼロじゃない。
その時にお前が橋へ飛び込んだら、二人とも消える」
「……じゃあ、どうするの」
アシュレイは紙の端にさらに短く書き足した。
・アシュレイが使う
・リュカは線から二歩以上離れる
・声をかけられても返事をしない(耳元対策)
・異変があれば“兵を呼ぶ”ことを最優先
「俺が戻らなかったら、お前は兵を呼べ。
――俺を助けるのはお前の役目じゃない。あいつらの役目だ」
リュカは口を尖らせた。
「なんかずるい」
「ずるくていい。生き残った方が勝ちだ」
「……勝ち負けじゃないもん」
「勝ち負けだ。少なくとも今は」
アシュレイがそう言うと、リュカはしぶしぶ頷いた。
頷きながら手袋の指をぎゅっと握る。自分の“役目”を飲み込んだ時の癖だ。
そこへ、廊下を駆ける足音が来た。
ドアが叩かれる。
「旅の人! 詰所の者だ!」
アシュレイが開けると、さっきの若い兵が息を切らして立っていた。
手には紙筒――点検図の写しらしい――と、小さな木札がある。
「上に話した。管理棟は封鎖する。橋の上は踏むなと一応伝える。
……それと、これ。管理棟の点検図の写しだ。道守が詰所に置いていた」
アシュレイは紙筒を受け取った。
「助かる」
「もうひとつ」
兵は木札を差し出した。札には、途切れた線に似た印が彫られている。
「道守の私物だ。奥さんが渡していいと言っていた。
――管理棟じゃなく、橋の基部の点検口に行く時に使う札らしい。
“これを下げておけば点検中だと分かる”と」
点検口。
橋の基部。
鍵、管理棟、橋――点が一気に繋がる。
アシュレイは点検図を広げ、兵と女将を呼んで、机の上で図面を押さえた。
図面には蒸気管の支線と点検路、そして橋の下へ続く小さな四角が描かれている。四角の横に小さく記号。
途切れ線の印。
「この四角が点検口か」
「たぶんな。中は狭い。蒸気管の弁を締める場所だって聞いたことがある」
「道守はそこへ行っていた可能性が高い」
リュカが図面の四角を指で叩く。
「ここ、橋の下だね」
「ああ。橋板を踏まずに近づける」
アシュレイは鍵の用途の仮説を立てる。
・管理棟扉:予備鍵で開く(確定)
・点検口:刻印の鍵か札の印で識別される“別の錠”
「……鍵が本当に開けたいのは、点検口だ」
声に出した瞬間、リュカが小さく息を呑んだ。
「そこに……道守が?」
「可能性が高い。
点検簿が消えたのも、点検口に関する記録を消したいからかもしれない」
兵が青ざめた。
「消したい、って……誰が」
「教団か、その関係者か。
ただし、今は名前で決めつけない。決めつけると判断が雑になる」
アシュレイは机の上の《ミスリル・ヴェストメント》を取り出し、鎖の冷たさを確かめるように掌の上に置いた。
鎖帷子は薄い。だが輪は均一で、リゼットの癖――必要な場所にだけ異常な精度を叩き込む癖――が出ている。
「……《クロノス》を使うなら、これが必要だ」
兵が首を傾げる。
「鎖帷子か?」
「これは刃を防ぐためじゃない。
三秒の中で“身体にかかる負担”を逃がすための補助具だ。
亜空間の圧力、温度差、感覚のズレ――そういうものに対して、特殊な輪が分散してくれる」
説明は簡潔にした。
理解してもらう必要があるのは仕組みの詳細ではなく「使うと危険」「対策はある」という事実だ。
女将が静かに言った。
「……あんた、本当に行くんだね」
「行く」
迷いのない返事をした。
迷っているのは本当だが、迷いは行動の前に終わらせる。行動中に迷うと死ぬ。
リュカがいつもの調子を取り戻そうとするみたいに言った。
「キャリちゃん、ついに出番?」
「荷車だ」
「キャリちゃんだよ!」
女将が口元を押さえて笑い、兵が「なんなんだそれ」と困惑する。
その小さな笑いが部屋の空気を一段だけ軽くした。軽くして、現実を戻した。
アシュレイは荷をまとめ、鎖帷子を服の下に通した。
輪が肌に当たる感触は冷たい。重くはないが存在を忘れさせない程度の重みがある。
《クロノス》は胸の内側で冷えたままだ。
出発前、アシュレイはリュカの前にしゃがみ、視線を揃えた。
「約束だ。線には近づくな。俺が言うまで動くな」
「……分かった」
「怖くなったら?」
「兵を呼ぶ」
「よし」
リュカは少しだけ頬を膨らませた。
「“よし”って言うなって言ったのに」
「今のは“よし”でいい」
「ずるい」
「ずるくて結構だ」
同じ言葉を返すと、リュカは小さく笑った。
笑って、すぐ真顔に戻る。真顔に返る方が早い。魂が欠けているせいだろう――だがその早さを、アシュレイは責めない。代わりに支える。
蒸気亭の裏へ回ると、幌付きの荷馬車が待っていた。《カラクリ・キャリッジ》。
リュカにとっては親しみのあるキャリちゃん。アシュレイにとっては実用性のある荷車。
呼び方が正しいかはどうでもいい。今は動く足があることが正しい。
兵が先導する。
彼の足取りは固い。怖さを無理に隠そうとして固くなっている。若さはそういうところに出る。
橋へ向かう道の途中でアシュレイは胸の位置を一度だけ押さえ、触れずに《クロノス》の所在を確認した。
六回。
三秒。
点検口の扉が本当に“この鍵”で開くのか。
開いた先に道守がいるのか。
そして――そこで三秒を使う必要があるのか。
答えはまだ分からない。
だが、ここまで来た以上、確かめなければ次へ進めない。
霧が切れ、橋の輪郭がはっきり見えた。
木橋は小さい。
だが、人の命を簡単に奪える場所になっている。
それが腹立たしくて、同時に怖かった。
兵が立ち止まり、指で橋の基部――橋脚の脇の斜面――を示した。
「あそこだ。点検口へ降りる道がある。
……橋板は踏むな。ここから下へ降りる」
アシュレイは頷き、リュカへ短く言った。
「――ここからが本番だ」
リュカは手袋の指をぎゅっと握り、静かに返した。
「……うん。分かってる」
荷車の幌の陰で鎖帷子の輪がかすかに鳴った。
その小さな金属音が、なぜか今のアシュレイには“頼り”に聞こえた。




