1-21 管理棟の扉
夜明け前、蒸気亭の窓ガラスは薄く白んでいた。
霧はまだ地面に貼りついているが、暗闇の底が少しずつ持ち上がっていく。炉の残り火の匂いに混じって、外から湿った土と鉄の匂いが入り込む――街道の朝の匂いだ。
アシュレイは椅子の背からゆっくり身を起こした。
眠りは浅かった。夢を見た感触だけが残り、内容は残らない。そういう眠りは疲れを回復させるというより、心を折らない程度に保つためのものだ。
ベッドの横ではリュカが眠っている。
眠っていると言っても、人間の眠りとは違う。呼吸音は極端に小さく寝返りもしない。胸の上下もよく見なければ分からない。
アシュレイはその静けさに今朝は少しだけ救われた。
少しだけ。救われていることを自覚すると、二十年前の夜が近づいてくる気がするから、深追いはしない。
彼は準備を始めた。
道具袋、紙束、筆、簡易計測具。食料は少量。余計な荷を持たない。
そして最後に、胸元の《クロノス・レイテンシ》の位置を確認する。触れない。触れた時点で使う側へ心が傾くのが分かっている。
扉を開ける音でリュカが目を開いた。
起床というより、電源が入るみたいな目覚めだ。
「……おはよう」
「起きたか」
「アシュレイ、顔が眠そう」
「寝てないからな」
「寝なさいよ」
「……」
リュカは布団から起き上がり、靴下を直し、手袋をはめた。
その手際が妙に早い。二十年の所作が身体に染みついている。
「行くんだよね、管理棟」
「ああ」
「鍵は?」
アシュレイは鞄の奥を指さした。
「ある。――ただし、まだ触らない」
「分かった。触らない。見ない。嗅がない」
「嗅ぐな」
「いま嗅がないって言った!」
リュカがむっとする。そのむっとした顔に今朝の現実感が増した。
昨日の夜の緊張がほんの少し薄れる。
階段を下りると、蒸気亭の一階はまだ眠っていた。
客はまばらで、机の上には拭き残しの水滴が光っている。
女将はすでに起きていて、火の番をしながら二人を待っていたように見えた。
「行くんだね」
「行く。兵の立ち会いは?」
「呼んであるよ。裏手の詰所に一人、若いのが来る」
女将は言いながら、温かいパンと薄いスープを出した。
「食べていきな」という命令に近い気遣い。断れば失礼になる。だが、断るほどの余裕もない。
リュカがパンをちぎり、口に運ぶ。
「……おいしい」
「本当かい?」
「うん。ほめてる」
「なら良かった」
女将が小さく笑う。が、その笑いはすぐに消える。
「――それから。道守の奥さんに、伝えておくれって言ったね」
「うん」
リュカが短く答えた。アシュレイが言うより今はリュカが答える方が柔らかい。
女将はその柔らかさに少し救われたように頷いた。
「小屋は裏の二本目の路地。扉に青い縄が下がってる」
朝の冷えた霧の中、二人は女将に言われた路地へ入った。
宿場の裏手は静かで、木戸の隙間から煙が細く上がっている。起きている家もあるが、音を立てる気配はない。皆が皆、橋と“虚線”を避けるように息を潜めている。
青い縄の扉はすぐに見つかった。
アシュレイが軽くノックすると、しばらくして扉が少しだけ開いた。
中から覗いたのは、眠れていない目をした女だった。髪は乱れ、指先に白い粉――小麦粉か、灰か――が付いている。夜通し何かを握っていた手だ。
「……誰」
声が掠れている。
「旅人だ。道守のヴァルドのことで――」
言いかけたところで女の目がアシュレイの口を見て、すぐに逸れた。
聞く準備ができていないのが分かる。
代わりにリュカが一歩前へ出て、背筋を伸ばした。
「まだ見つかってない、って……女将さんが。
だから、朝になったら管理棟を見に行くって」
女は息を止め、そして吐いた。
吐いた息が震え、口元が僅かに歪む。泣くのを堪える顔だ。
「……見に行くの?」
「ああ」
アシュレイが短く答える。長い慰めはできない。できることを言うしかない。
「見つかる可能性があるなら、見に行く。
ただし、勝手なことはしない。兵の立ち会いもつける」
女は視線を床へ落とし、しばらく黙った。
沈黙の中で、扉の隙間から薪の匂いが流れてくる。
「……これ」
女が小さな布包みを差し出した。
中身は道守が持っていたはずの“予備鍵”だった。鍵の形は昨日リュカの手に現れたものとよく似ている。だが刻印は違う。途切れが少なく、普通の管理用の印だ。
「夫が……もしもの時に、ここに置くって。でも”使うな”とも言ってた。
“管理棟には余計なものがある。俺が戻らなくても、見に行くな”って」
余計なもの。
アシュレイの眉が僅かに動いた。
「余計なものとは」
「分からない。詳しく聞くと怒るの、理解してたから」
女は苦く笑った。
笑ったのに、すぐ泣きそうになる。笑いが日常の最後の名残みたいに見えた。
リュカが布包みに触れそうになり、アシュレイが小さく首を振る。
リュカは手を引っ込め、代わりに言った。
「……見に行って戻ってきたら、ちゃんと伝える。
“どうなってたか”も、“何があったか”も」
女はリュカを見て微かに驚いた顔をした。
小さな子どもの口から出た言葉が思ったよりまっすぐだったからだろう。
「……ありがとう」
女はそう言って静かに扉を閉めた。
裏路地を出ると、詰所の前に兵が立っていた。
若い男で、鎧は軽く、槍を持っている。顔つきは真面目だが目の下に疲れがある。宿場全体が寝不足なのだ。
「旅の方だな。女将から聞いた。管理棟へ行くんだろ」
「立ち会いを頼む」
「……分かった。だが、橋には近づくな。命令だ」
「そのつもりだ」
兵はリュカを見て一瞬だけ眉をひそめた。
子どもを連れて危険地帯へ行くな、という顔。だが、口には出さない。出したところで止まらないと悟ったのだろう。
「管理棟は宿場の外れだ。蒸気管の点検路に沿って行く。
――道守が消えたのもその辺りだ」
点検路は低い柵で区切られた細い道だった。
地面の所々から蒸気が漏れ、白い吐息が路面を撫でている。近づくと暖かいのに、全体の空気は冷たい。温度差が霧を増やす。
リュカは歩きながら視線を左右に走らせた。
人の気配、足跡、匂い。武術の達人がする“道の読み”だ。
アシュレイは彼女の読みを邪魔しない。必要なときにだけ質問を落とす。
「……足跡は?」
「消えてる。消してるんじゃなくて、最初から薄い感じ。
湿ってるのに、踏み跡が残らない」
「――“薄い世界”が近い」
アシュレイが呟くと、兵が不安そうに振り向いた。
「何だ、それは」
「説明する時間はない。今は“現象が起きやすい場所”だと思ってくれればいい」
管理棟は小さな石造りの建物だった。
窓は小さく、扉は厚い木。鍵穴の周りには金属板が打たれている。壊されにくい作りだ。
そして扉の横にぶら下がる札。
途切れた線の印。
女将が言った通りの、あの“虚線に似た刻印”がそこにあった。
兵が喉を鳴らす。
「……こんな札、昨日までは気にしたことがなかった」
「気にしないようにできている」
――そういうものは、たいてい気にされると術者が困る類のものだ。
アシュレイは札を見て扉から一歩距離を取った。
距離を取るのは臆病だからではない。条件を増やさないためだ。
「鍵を出す」
アシュレイが鞄を開け布包みを取り出す。
中にあるのは二つ。
――昨日リュカの手に現れた刻印の鍵。
――道守の妻が渡した予備鍵。
彼はまず予備鍵を布の上に置いた。
兵に視線を投げる。
「君が扉を開けてくれ。俺たちは後ろに下がる」
「俺が?」
「俺が開けたら、“旅人が勝手に管理棟を荒らした”という結果になる。
責任の所在を明確にしろ。あと、触れた者の条件が増えるなら、最初に触れた者が誰かは重要だ」
兵は納得しきれない顔をしたが、頷いた。
職務の言葉は時に恐怖より強いことがある。
鍵が鍵穴に入る。
回る。重い音。金属が擦れる音。
――ガチリ。
扉が開いた。
その瞬間、例の甘く冷たい匂いが外へ漏れた。
薄い、しかし確実な匂い。昨日の橋の下と同じだ。
リュカが反射で鼻を押さえ、すぐに手を引っ込めた。
「……これ」
「嗅ぐな」
「嗅いでない! 匂いが勝手に来た!」
「それは問題だな」
アシュレイは兵の肩越しに管理棟の中を見た。
中は暗い。だが荒らされてはいない。道具棚、点検簿の置き場、蒸気管の図面が吊られた板。
普通の管理棟だ。
――普通に見える。
普通を装うものほど怖い。
“異常”がそこに混じっているときも、それは平気で普通の顔をしている。
「中へ入る前に確認する」
アシュレイは床を指さした。
扉の敷居のすぐ内側、木床に――細い線が走っている。
虚線。
橋板の裏で見たものと同じ途切れ方。
兵が顔色を変える。
「……床に、線?」
「踏むな」
「踏まない……って、それじゃ入れないだろ」
「入れる。線の外側を通ればいい。
リュカ、床の線のどこが“薄い”?」
リュカは一歩も入らず扉口から視線だけで床面をなぞる。
彼女の目は、光の差ではなく、空気の揺れを見る。
「……ここ。線が途切れてるとこ。そこだけ床が“ない”みたい」
「そこがトリガーの可能性が高い」
アシュレイは手帳に床の線を素早く写した。
線の位置。途切れの間隔。扉との距離。
兵が焦れて言った。
「で、どうするんだ。道守を探すんだろ」
「探す。だが手順を飛ばすな」
アシュレイは壁の点検図へ目を向けた。
蒸気管の配置。点検路の分岐。管理棟から橋への支線。
その図の片隅に黒い指跡が残っている。誰かが何度も触った跡だ。
触った場所は――橋の支線の接続点。
「……ここを頻繁に触っている」
「橋へ?」
「橋へ繋がる支線。
道守は橋が原因だと疑っていたのかもしれない」
リュカが唾を飲み込む。
「じゃあ、橋に近いところほど危ない?」
「そう考えるのが妥当だ」
アシュレイは兵へ視線を戻した。
「まず中を見て異常を探す。そいつを踏むのは最後。
――それと、君が入るなら一歩ずつ。極力物に触れず、床の線も避けてくれ」
兵は頷き、慎重に管理棟へ足を入れた。
その瞬間、空気が一段だけ薄くなった――気がした。
しかし音は消えない。匂いも増えない。今はまだ“境界”に触れていない。
兵が棚を見回す。
「道具は……ある。欠けは――」
言いかけて兵が手を止めた。
棚の奥、点検用の小箱が一つ、開いている。
中身は空。だが箱の底に赤い染料のような薄い痕がある。
アシュレイの脳裏に深紅のローブがよぎる。
レドラの、あの冷たい囁き。
彼は声を落とした。
「……赤い痕。見せてくれ」
「触るなって言っただろ」
「触らなくていい。見るだけだ」
兵は気を利かせて箱を持ち上げようとし、床の虚線に気づいて足を引っ込めた。
危うい。油断が出始めている。慣れかけた瞬間が一番危ない。
そのとき、管理棟の奥――壁際の点検簿置き場から紙の擦れる音がした。
誰も触っていない。
風もない。
なのに、紙がめくれる。
リュカが息を止め、兵が槍を構える。
「……誰だ」
返事はない。
代わりに、点検簿の一冊が――すっと、机の端から滑り落ちた。
落ちたのに、床に当たる音がしない。
音がしない。
落ちたはずのものが、その先で存在を薄くした。
アシュレイは即座に言った。
「出ろ」
「まだ――」
「出ろ。いま起きたのは“現象”だ。
ここはもう、ただの建物じゃない」
兵が反射で後退しようとした、その一歩が床の虚線へ近づいた。
「止まれ!」
アシュレイの声が鋭くなる。
兵は足を止めたが、重心が後ろに残っている。
その重心のまま床の“ない”部分へ踏み出したら――三秒が来る。
リュカが動いた。
音もなく兵の背中を横から押す。
まっすぐに押すのではなく、重心をずらす。武術の基本だ。
兵の足が虚線を踏む寸前で軌道が変わる。
「うわっ……!」
兵がよろけ、敷居の外へ転がるように出た。
槍が床を叩き、ようやく音が戻る。現実の音だ。
アシュレイとリュカも外へ出て、扉を半分だけ閉めた。
閉めても甘い冷気は漏れてくる。
兵が息を荒げて言った。
「……いまのは何だ。中に誰かいるのか」
「分からない。だが“誰かがいるように見せる仕掛け”の可能性はある」
「仕掛け?」
「誘導だ。
鍵を寄越し、扉を開けさせ、踏ませる。
踏んだら三秒。三秒でその者の何かを入れ替える」
アシュレイは鞄の奥の布包みを思い浮かべた。
消えた裏蓋。増えた鍵。
今度は点検簿が消えるかもしれない。あるいは――人が消える。
リュカが唇を噛む。
「……さっきの紙、音がしなかった。落ちたのに」
「薄くなっていたんだ」
「薄いって……」
「ここじゃない場所へ落ちた。
落ちた先は、こちらの世界じゃない可能性がある」
兵が青ざめる。
「そんなの、どうやって――」
「今は結果だけでいい。
現象はこちらが踏んで検証する前に、答えを出してくれた。
――管理棟は橋と同じ“境界”に接続している」
アシュレイは扉の隙間を見つめた。
中は暗い。だが暗さの種類が普通じゃない。光が届かない暗さではなく、光が“薄れた”暗さだ。
「……道守がここで消えたなら、境界の向こうに落ちた可能性が高い」
リュカが小さく言う。
「……助けられる?」
アシュレイは即答できなかった。
できないからこそ、言葉を選ぶ。
「助ける道筋はできた。
鍵が導く先は管理棟だった。
管理棟が繋がる先は……橋の“下”じゃない。橋の“向こう”だ」
兵が震える声で言った。
「向こうって……どこだよ」
アシュレイは胸元に視線を落とし、触れずに《クロノス》の位置を確かめた。
三秒。
六回。
「……三秒の中に、向こうへ触れる方法があるかもしれない」
言った瞬間、空気がわずかに引き締まった。
リュカはアシュレイの横顔を見て、短く息を吐く。
「……使うんだね、いよいよ」
「まだだ。まず、条件を揃える」
アシュレイは兵へ向き直った。
「君に頼みがある。
この管理棟は封鎖してくれ。誰も近づけるな。
それから、橋の見張りを増やせ。――ただし、橋板は踏ませるな」
「そんな命令、通るか分からない」
「通せ。死人が増えるよりマシだ」
兵は逡巡し、それでも頷いた。
目の前で実際に“薄くなる”光景を見た者は言い訳ができない。
アシュレイはリュカを見た。
「宿へ戻る。準備をする」
「準備って?」
「三秒を使う準備。
そして――」
アシュレイは扉の隙間を最後に一度見た。
中から、紙のめくれる音がまたした気がした。
今度は確かめない。確かめたくもない。
「鍵が“本当に開けさせたい扉”を、特定する準備だ」
リュカは頷き、拳を小さく握った。
「……よし」
「よし、じゃない。落ち着け」
「落ち着いてる。
……でも、怖い」
「……俺もだ」
「じゃあ、一緒」
短い会話が現実の輪郭を太くした。
霧の中でも二人の足元だけは薄くならない――そんな錯覚が生まれる程度には。
彼らは蒸気亭へ引き返した。
管理棟の扉の向こうに何があるのかはまだ見えない。
だが、見えないものに手を伸ばすための“道筋”だけは、確かにでき始めていた。




