1-20 鍵の刻印
部屋の灯りを一段明るくすると、真鍮の鍵は淡い光を返した。
金属の表面には細かな擦り傷があり、長く使われてきた道具の匂いがする。だが妙なのは――擦れ方が“手の癖”ではなく、“機械の癖”に近いことだった。布に包んで携帯した鍵の傷ではない。
何か硬い箱のようなものの中で、一定の方向に揺すられ続けたような摩耗。
アシュレイは鍵に指を触れないまま、細いピンセットでそっと持ち上げた。
手袋越しなら触れていい、という前例もある。だが今のリュカの状態を参考にしても、触れていい条件が“肌”、“意思”、“所持”、いずれによるものかはまだ断定できない。
ならば、余計な条件は増やさない。
「……柄の刻印、見えるか」
リュカが椅子に膝を立て身を乗り出した。
顔が近い。子どもっぽい仕草なのに、目だけが妙に真剣だ。
「虚線みたいなやつ。途切れて……繋がって……途切れてる」
「規則がある」
「規則?」
「間隔が一定だ。目印ではなく、記述に近い」
アシュレイは手帳に刻印を写した。線の長短、途切れ方、角度。
写していると、自然と“読む”感覚が立ち上がる。魔法文字ではない。だが、魔法文字と同じく意味を持つ配置だ。
――エーテルコード。
彼がさっき呟いた言葉が、今度は単なる雰囲気ではなく、手元の具体として形になっていく。
「鍵穴の形は……特殊だな」
鍵先の山は荒い。宿の部屋鍵のように繊細ではない。むしろ工房の倉庫扉に使う頑丈さ。
しかも、鍵先の片側だけが僅かに削れている。どちらかに偏って回しすぎた削れ方だ。
「……アシュレイ、これ、どこの鍵?」
「まだ断定できない」
「でも、なんか……“お店の鍵”っぽい」
リュカの言葉は直感だったが、的を射ている。
アシュレイは頷いた。
「工房か、倉庫か、管理棟。街道の宿場には必ずある」
彼は机の上に宿の回覧の写しを広げた。
“虚線の出現箇所、宿場近辺に集中”
つまり、現象は宿場のインフラ――水、蒸気、灯り、橋、道――そのどれかに寄り添っている可能性が高い。
そして鍵。
鍵はインフラに付きものだ。
「女将に聞く」
アシュレイが立ち上がると、リュカも反射で立った。
「行く」
「お前は部屋に――」
「行く」
即答。譲らない目。
アシュレイは一度だけ天井を見上げ、息を吐いた。
「……目立つなよ」
「無理」
「言い切るな」
「だって小さいもん」
「小さいことを武器にするな」
「武器にしてない。事実」
「……はぁ」
リュカが少しだけ口を尖らせる。
そのやり取りで彼女の声の震えが薄くなった。アシュレイは内心で救われる。
階段を下りると、蒸気亭の食堂は昼より静かだった。
客は減り、代わりに炉の音と鍋の煮える音が目立つ。
窓の外には霧がまだ残り、橋の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
女将はカウンターで帳簿をつけていた。
アシュレイとリュカを見ると手を止め、眉をひそめる。
「……無事で良かったよ」
「聞きたいことがある」
「あるだろうね」
女将は周囲を見回し、客のいない隅の席へ二人を招いた。
声を落とすための距離だ。
アシュレイは鍵を布の上に置き、直接触れずに見せた。
「これに心当たりは」
女将の目が鍵へ落ち、すぐに顔色が変わった。
「……それ」
「知ってるのか?」
「鍵そのものは知らない。けど――刻印は知ってる」
女将は指で空中に似たような途切れ線を描いた。
「道の管理所の印だよ。
この宿場の外れに小さな管理棟がある。橋と蒸気管の点検をする場所。
そこに、こんな印が付いてる札がぶら下がってる」
アシュレイの背筋が固くなる。
管理棟。橋。蒸気管。宿場の近辺。符合が一気に繋がる。
「管理棟の鍵か」
「かもしれない。……でも、管理棟の鍵は誰でも持ち出せる物じゃない。
道守って役の男がいる。昼は点検、夜は巡回。
その男が持ってるはず」
「その道守は」
女将は一瞬言いよどんだ。
そして、正直に言った。
「……昨夜から帰ってない」
リュカが息を呑む。
「帰ってないって……?」
「橋の見回りに出たまま。
見張りの兵が今朝探したけど、見つからなかった」
アシュレイは頷いた。
さっき橋の上から落ちてきた“助けて”。あれが道守の声だった可能性が高い。
「……帳簿を見せてくれ」
「帳簿?」
「昨夜誰が宿を出たか。誰が宿に戻ったか。
宿の帳簿は人間の動きが残る。現象より確実だ」
女将は迷いそして紙束を持ってきた。
宿の出入りは全員が記録されるわけではない。だが長旅の者、荷を預ける者、部屋を取る者――そういう者は残る。
アシュレイは帳簿を追いながら要点だけ拾う。
「……昨夜、荷が消えた馬車の御者、名前は」
「ここ。『マルド』。荷は雑貨、到着は亥の刻前」
「橋の下の死体は?」
「宿の客じゃない。街道を歩いてた行商人だって聞いた」
「道守の名は」
「……『ヴァルド』」
マルドとヴァルド。似た名だが別人。紛らわしい。
だが今は些細な混乱よりも確認が優先だ。
「ヴァルドが巡回に出た時間は」
「亥の刻。
その少し前に、橋で“匂いがした”って客が騒いでね。『見に行く』って」
アシュレイは手帳に書き込む。
亥の刻――夜の境目。霧が濃くなる時間。事件でもなければ人の警戒が緩む時間。
女将が震える息で言った。
「……あなた、行くのかい。管理棟に」
「行く」
リュカが口を開きかける。
しかしアシュレイが先に彼女の言い分を封じるように言った。
「――明日の朝だ」
女将が目を細める。
「朝なら……少しはマシかね」
「マシなだけだ。安全ではない」
アシュレイは鍵を布で包み、胸元ではなく鞄の奥へ戻した。
胸元には《クロノス・レイテンシ》がある。鍵まで胸に入れたら”誘い”が二重になる。そう感じた。
席を立つ前に女将がそっと言った。
「……道守の奥さんがいる。宿場の裏の小屋。
朝まで黙ってようと思ったけど、あなたが行くなら……伝えておくれ。
『まだ見つかってない』って」
アシュレイは頷いた。
「分かった」
それだけ言ってすぐに席を離れた。
「分かった」と言うのは簡単だ。だがその言葉は誰かの夜を重くする。重くするのが分かっているから、アシュレイは余計な慰めを口にしない。
部屋へ戻る階段の途中、リュカが小さく言った。
「……助けられるのかな」
アシュレイは足を止めず声だけを落として返した。
「助ける方法を作る」
「作れる?」
「作る」
言い切った。
言い切らなければ彼自身が折れる。
部屋に戻ると、アシュレイは窓を少しだけ開けた。
冷たい霧が入り込む。甘さは薄いが、消えてはいない。
彼は机に紙を置き、簡易の図を描き直す。
宿、橋、管理棟、蒸気管(点検路)、
虚線(橋下で確認)、物品消失(裏蓋)
物品出現(鍵)
声(助けて)
やがて点が線になる。
そして、その線が嫌な形を作り始める。
「……アシュレイ」
リュカがベッドの縁に座り、足を揃えた。
その座り方が妙に行儀がよくて、アシュレイは少しだけ身を傾けた。
「どうした」
「わたし、さっき……橋の上にいた気がしたって言ったよね」
「ああ」
「それ、気のせいじゃない。
だって、上から見たアシュレイ、変な顔してた」
「変な顔?」
「すっごく――悔しそうな顔」
アシュレイは言葉を失った。
彼は自分の表情を鏡で見る習慣がない。だが確かに、さっき橋の下で声を聞いて引いた自分に腹が立っていた。
その悔しさが顔に出ていたのだろう。
リュカが続ける。
「だから気のせいじゃない。
わたし、ほんとに上にいた。
……ほんとに、飛ばされた」
アシュレイは視線を落とし手帳の線を指でなぞった。
指先が止まる。
「飛ばされたなら、飛ばした者が必ずいる」
「……レドラ?」
「可能性が高い。だが、断定はしない。断定した瞬間、俺の判断がやつに引っ張られる」
「じゃあ、どうするの」
「まず、管理棟を調べる。鍵が導く先だ。
次に、虚線の条件を増やさずに検証する。
最後に――」
アシュレイは胸元に指を当て《クロノス》の位置を確かめた。
「最後に、三秒をこちらの武器にする」
リュカの瞳が少しだけ大きくなる。
「……使うの?」
「使うべき時が来たら使う」
「こわい」
「俺も怖い」
リュカは膝の上で手袋の指を握りしめ、ふっと息を吐いた。
「でも、アシュレイが怖いって言うと……ちょっと安心する」
「安心するな」
「する。だって、怖いままで逃げないから」
それは褒め言葉だった。
アシュレイは反論しかけて、やめた。反論しても意味がない。
「……休め。朝が早い」
「アシュレイは?」
「俺は――少しだけ整理する」
「また徹夜する?」
「しない。……たぶん」
「たぶんはだめ」
「分かった。……するな、って言うならしない」
リュカは少し笑い、布団に潜った。
潜ってから、彼女はふと思い出したように顔だけ出す。
「ねえ」
「なんだ」
「キャリちゃん、明日もがんばれる?」
「荷車だ」
「キャリちゃん!」
「……がんばれる。頑張れなければ困る」
言い直すと、リュカは満足そうに目を閉じた。
そして、彼女は“眠り”に落ちる。人形のように、静かに。呼吸の音さえ薄くなる。
アシュレイはその横顔を見つめ、ほんの数秒だけ動けなかった。
彼女が眠るたび、二十年前の夜が脳裏をかすめる。
――消えた肉体、引き裂かれた虚線。固定された魂。
彼は視線を窓へ向けた。
橋の向こうは霧に沈み、管理棟の影は見えない。
だが鍵はここに来た。
「開けろ」と言わんばかりに。
アシュレイは紙に短い予定を書いた。
『夜明け直後、管理棟へ
兵の立ち会いを得る(楔とする)
中を調べる(蒸気管図、点検記録、欠けた道具、血痕、紋様)
虚線の位置と匂いの発生源を特定
“飛び”の条件を一つずつ削る』
予定は現実を薄くしないための杭だ。
杭を打てば、恐怖は少しだけ形を失う。
不意に窓の外で木が鳴った。
橋板が軋む音――ではなく、風が柱に当たる音。
それだけでアシュレイの背中は硬くなる。
彼は《クロノス》に触れず、ただ胸の位置を確かめるだけで手を引いた。
六回。三秒。
それは切り札であり、首輪でもある。
眠るリュカの横でアシュレイは小さく呟いた。
「……寝坊はするなよ」
祈りに似た言葉だった。過去に基づく小さな祈り。
だが、祈りだけでは何も変わらない。変えるのは自身の行動だ。
霧の向こうで虚線が途切れる気配がした。
気配だけ――そうであってほしい。
アシュレイは灯りを落とし、椅子にもたれて目を閉じた。
眠りは浅い。だが、朝のために、今はそれでいい。




