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1-19 残された鍵

 ふたりは斜面を上り宿の裏手へ戻った。

 霧の中で足元が滑るが、リュカの足取りは安定している。

 それでも、アシュレイには彼女の背中がいつもより小さく見えた。


 裏口に近づいたときだった。


 橋の上から誰かの声が落ちてきた。


「……たすけて」


 男の声。若くない。

 かすれている。

 霧に混じっていて、更に距離があるはずなのに、耳元に聞こえてきた。


 アシュレイは足を止めた。

 リュカも止まる。


 声は続いた。


「……見えるのに、届かない……」


 アシュレイの喉が鳴る。

 声の主は橋の上にいるのか、それとも“別の場所”にいるのか。

 見えるのに届かない――それは空間の問題ではない。境界の問題だ。亜空間、前室、薄い世界。


 リュカが小さく言った。


「……いまの、さっきの人?」


「分からない」


「助けないの?」


 助ける。

 助けたい。

 だが、助けるための手段がない。


 アシュレイは拳を握り、指の関節が白くなるのを感じた。

 魔術実技が壊滅的に弱い。戦闘もできない。

 だからこそ道具を持ってきた。

 だからこそ《クロノス》がある。

 ――だが、あれは六回しか使えない。


 今ここで使うべきか。

 使えば助けられるのか。

 使った結果、何が失われるのか。


 理屈が揃っていない。


 アシュレイは視線を橋へ向けたまま、低く言った。


「……今は、行かない」


 リュカが反射的に言い返す。


「でも――!」


「今行ったら、お前が消える」


「わたしは」


「消える可能性があるなら、俺は行かない」


 言い切った瞬間、リュカの瞳が揺れた。

 怒りではない。諦めでもない。

 痛みだ。


 アシュレイはそれに気づいて言葉を足した。


「……助ける方法を作ってから行く。

 助けるために、まず生きる手立てを探る」


 リュカは鍵を握りしめたまま息を吐いた。


「……わかった。いまは引く」


「偉いな」


「偉いって言わないで。子どもっぽい」


「子どもだろ」


「ちがうもん!」


 わずかにいつもの口調が戻った。

 それが救いだった。


 宿の裏口を開けると、暖かい空気が流れ込む。

 食堂のざわめき。鍋の音。木の床の軋み。

 現実の音がふたりを包む。


 女将がすぐに顔を出した。


「……行ったんだね」


「行った。――橋の下に虚線がある」


 女将の顔色が変わる。


「やっぱり……」


「それと物が消えた」


「消えた?」


「懐中時計の裏蓋。拾った証拠が三秒で消えた。

 代わりに――」


 アシュレイが言いかけると、リュカが掌を見せた。

 女将は目を見開き息を呑む。


「……鍵」


「鍵があった」


 女将は恐る恐る言った。


「それ、どこの鍵か分かるのかい」


「これから調べる」


 アシュレイは階段へ向かった。

 部屋へ戻り、鍵を調べ、記録し、推定する。

 その間にも橋の上の“助けて”と言う言葉が耳に残る。


 しかし今は進めない。

 進めない自分が嫌になる。


 部屋へ戻る途中、リュカが小さく呟いた。


「……アシュレイ」


「なんだ」


「さっきの人、笑ってないよね」


「……笑ってない」


「よかった」


 それはリュカの願いだった。

 笑って死ぬ人が増えないように。

 笑い声が耳元に落ちてこないように。


 部屋に入ると、アシュレイは机を片付け灯りを近づけた。

 そして、リュカの掌の上の鍵を触れずに観察する。


 真鍮色。古い。柄に刻印。虚線のような刻印。

 鍵穴の形状は独特で一般的な宿の鍵ではない。

 ――工房の鍵。あるいは研究室の鍵。


 アシュレイの頭にひとつの仮説が浮かぶ。

 嫌な仮説だ。だが、仮説は仮説として置くしかない。


「……誰かが、俺たちに“開けさせたい扉”がある」


 リュカが唾を飲み込む。


「危ない扉だったら?」


「開けない」


「……でも、鍵は来ちゃった」


「来たなら、それなりの理由がある。

 理由を調べて、理由ごと潰す」


 理屈の男による理屈の宣言。

 その宣言は強がりであり、盾でもある。


 窓の外。

 橋の向こうからかすかな笑い声がした気がした。


 気がしただけだ。

 ――そう思いたかった。


 アシュレイは《クロノス》へ指先を当てる。

 冷たい。

 六回。

 三秒。


 使うべき瞬間は近いのかもしれない。


 そして、鍵はその瞬間へ向けて、静かにこちらを誘っていた。


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