1-1 クローヴ魔道具店
城下町アルケディアの朝は、いつも少しだけ白い。
蒸気を吐き出す搬送車が石畳をゆっくりと走り、家々の屋根に積もった湿り気が光をぼやかす。
その中心から少し外れた裏通りに、煤で黒ずんだ古い看板が掛かっていた。
《クローヴ魔道具店》
扉は開いているのかいないのか分からないほど軋み、窓には薄い布がかけられ、外から中の様子はうかがえない。
町の人間にとってここは、「やっているのかどうか分からないが、たぶん潰れてはいない店」として知られていた。
店の奥にある工房では、ひとりの男が静かに椅子に腰掛けている。
アシュレイ・クローヴ(33)。
かつて王立魔術学院の理術科を首席で卒業した男だとは、誰も思わないだろう。煤をかぶった作業着に、寝癖のついた髪。片手には小さな歯車片。もう片方の手には冷めきった紅茶。
歯車を光に透かしながら、アシュレイはゆっくりとまばたきをした。
彼の視線の先には、細かな魔術式が刻まれた金属部品が並んでいる。修繕しなければならない魔道具は山ほどある。だが、彼はそれらに触れようとせず、ただ静かに時が過ぎるのを待つように座っていた。
工房の奥の方で軽い金属音が鳴った。
「おはよ、アシュレイ。今日も元気ない顔だねぇ」
のんきな声が薄暗い空気を割る。
棚の陰からひょこりと顔を出したのは、小柄な少女だった。
身長はアシュレイの腰ほどしかない。淡い金髪を短く切り揃え、琥珀色の瞳がきらきらと揺れている。
リュカ・アーシェルカ。
いや、正式にはそう呼べる者はほとんどいない。
この城下町ではただの「小さなからかい魔」として知られていた。
リュカは軽やかに跳ねるように歩き、机の上に置かれた歯車を興味深そうに覗き込んだ。
「ねぇ、これ昨日から見てるけど、何が違うの? 動かないなら捨てちゃえば?」
「……捨てるくらいなら、直す」
アシュレイはぼそりと答え、視線を外す。
彼の声は低く眠たげで、どこかくたびれている。不機嫌というより、表情の作り方を忘れてしまったような無関心さだった。
リュカは頬を膨らませ、机の上に乗り上げようとした。
「じゃあさ、早く直してよ。お店、今日もお客さん来ないよ?」
「来ないなら静かでいい」
「えー? わたし退屈なんだけど」
軽口。
明るく、幼い響き。
だが、アシュレイはその声に反応しない。
彼は視線を落とし、机の端に置かれた白い布へと手を伸ばした。
その布の下には小さな寝台がある。
布をめくりかけ、アシュレイの指が止まった。
――昨夜、ここには動かないリュカがいた。
眠っているのではなく、完全に停止していた。
呼吸も、体温も、わずかな揺らぎすらなかった。
機械人形としての『スリープ状態』。
見慣れているはずなのに、慣れてはいけない光景。
アシュレイは布を戻した。
「ん? なに隠してんの?」
「……別に」
「もしかしてわたしの昼寝場所?」
「お前のじゃない」
「えっ、じゃあ誰の?」
「……」
リュカは首をかしげる。
アシュレイは答えない。
彼の沈黙は拒絶でも怒りでもない。ただ言葉にしてしまえば崩れてしまうものを抱えている者の沈黙だった。
リュカは足をぶらぶら揺らしながら、窓の外を眺めた。
「ねぇアシュレイ。なんか最近、変だよ?」
「何が」
「知らないけど。変」
それは、鋭い感覚だった。
本人すら自覚していないはずなのに核心を突く言葉。
アシュレイの指がわずかに震え、紅茶の表面に波紋が広がる。
しかし彼はそれを振り払うように立ち上がり、小さく息をついた。
「……開店する」
「はーい。でも今日はわたし、お客さん来たら対応するね!」
「やめろ」
「えっ、なんで? わたし店番できるよ?」
「前回、お釣りを投げた」
「あれは拾ってもらえたし問題ないってば!」
「問題しかない」
そんなやり取りが続く。
工房の空気は昨日までと変わらないように見える。
けれど確かに、何かが揺らぎ始めていた。
扉の外から蒸気の汽笛が短く鳴る。
アシュレイは視線だけをリュカに向けた。
「店番はするな。……座ってろ」
「えー、じゃあアシュレイの邪魔していい?」
「するな」
リュカはにっと笑った。
その笑顔はあまりにも無邪気で、あまりにも軽い。
まるで悲しみを知らない存在のように。
*
昼前になると、城下町の白さは次第に色を帯びてくる。
搬送車の蒸気は閑散とした路地にも入り込み、遠くの市場からは呼び込みの声が微かに届いていた。
クローヴ魔道具店の扉には、一応「営業中」と書かれた板が下がっている。
が、板は半分以上煤けており、読めるかどうかは通行人の善意次第だった。
からん、と。気の抜けた鈴の音が店内に転がり込む。
「……お客だ」
アシュレイがぼそりと言うより早く、リュカがぴょんと跳ねた。
「はいはーい、いらっしゃいませー!」
「来るな」
「なんで!? わたし店番できるってば!」
リュカはアシュレイの制止をうまくかわしてカウンターに駆け寄る。
ちょうど扉の隙間から入ってきたのは、小さな布包みを抱えた老婦人だった。枯れ枝のような指先で包みを握りしめ、緊張した面持ちでリュカを見下ろす。
「あの、ここ……魔道具を直してくれる店で、間違いなかったかねぇ?」
「まちがってないです! 安心してください!」
即答。
自信に満ちた口調のわりに、リュカの足はカウンターの内を空振りしていた。背伸びをしても高さが足りないので、仕方なく椅子を引きずってきて、その上に乗る。
「ちょっと危ない……」
アシュレイが小声で呟くが、老婦人には届いていない。
「これね、孫がくれた灯りなんだけど……最近、点かなくなっちまってねぇ」
布包みが開かれる。
中から出てきたのは、小さな丸いランプだった。ガラスの内側に細い線が走り、外側には簡易的な魔術式が彫り込まれている。量産品だが安物というほどでもない。
「ふーん。じゃ、叩いてみてもいい?」
「叩くな」
アシュレイがさっと手を伸ばし、ランプをリュカの手から取り上げる。
老婦人がほっとしたように胸を撫で下ろした。
「……見せてください」
アシュレイはランプを手のひらに載せ、光に透かす。
魔術式の刻印に指を滑らせ、内部のエーテル管のつなぎ目に目を細める。
「……ふむ」
短い相槌。
リュカが隣から覗き込む。
「壊れてるの?」
「壊れてはいない。ただ……手入れが悪い」
「えっ、それおばあさんが悪いってこと?」
「違う」
アシュレイは首を振り、ランプの底を指で押さえた。
そこにはごく小さなネジがあり、さらにその下に薄い紙片が挟まれている。
「製造時に挟まれたままの保護紙が残ってる。普通は数年で焦げ落ちるが……運良く持ったらしい」
「運……いいのか悪いのか、よう分からんねぇ」
老婦人が苦笑する。
「焦げかけた紙片がエーテル管を塞いで、点きづらくなっているだけです。取り除いて、魔力を流し直せばまだ使えます」
アシュレイはそう言うと、手際よくランプの底を外し、細いピンセットで焦げた紙を摘み取った。
そして、指先で軽く魔術式をなぞりながら、低く呟く。
「――起動式、重ねる」
淡い光がランプの内側を走る。
しばらく沈黙が続き、やがて、ぽ、と。
温かい金色の灯りがふわりと灯った。
「あ……!」
老婦人の顔に皺だらけの笑みが浮かぶ。
「ちゃんと、光るねぇ……」
リュカが目を輝かせる。
「すごい! アシュレイ、やればできるじゃん!」
「やってる」
「いつもやればいいのに」
「……いつもやってる」
アシュレイはそっけなく答え、ランプを布で包み直して老婦人に差し出した。
「しばらくは問題なく使えます。たまに底の刻印部分を、柔らかい布で拭いてください」
「ありがとねぇ。いくらかかるんだい?」
「――」
アシュレイが口を開きかけた瞬間、リュカが勢いよく割り込んだ。
「はいっ、一回点いたから、ひと灯り二枚でどうでしょう!」
「安い」
「え、じゃあ三枚?」
「そういう問題じゃない」
老婦人は目をぱちくりさせた後、くすりと笑った。
「そうだねぇ、これは……気持ち、置かせておくれ」
そう言って差し出されたのは、小袋ひとつ。
手触りと重さからして、銅貨に混じって銀貨がいくつか入っている。
「これは多い」
アシュレイが眉をひそめる。
老婦人は首を振った。
「うちの孫はね、遠くに出ちまって、もうめったに帰って来やしないんだよ。残ってるのは、この灯りくらいでねぇ。……あんたは、それを直してくれた」
その言葉に、アシュレイのまぶたが一瞬だけ揺れる。
遠くに行って、帰ってこない。
耳慣れたはずの言い回しが、妙に胸に引っかかった。
「だからこれは、お礼と……安心料だよ。受け取っておくれ」
アシュレイはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をつき、小袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
「また壊れたら、持ってくるよ」
老婦人はそう言い残し、灯りを大事そうに胸に抱えて店を後にした。
扉がきぃ、と悲鳴を上げて閉まる。
静けさが戻る。
「ねぇねぇ、今の、お客さん喜んでたね!」
リュカがくるりと向きを変え、アシュレイを見上げた。
「……そうだな」
「ね、もっとこういうことしたらいいのに。そしたらお客さん増えて、お金もいっぱいになって、わたしにおやつ買ってくれるでしょ?」
「お前のためには増やしたくない」
「ひどくない?」
口ではそう言いながらも、アシュレイの表情は先ほどよりほんの少しだけ緩んでいた。
リュカはそれに気づかない。
ただ、自分の言葉で何かが変わったような気がして、なんとなく嬉しくなる。
「でも、あのおばあさん……灯り、ずっと大事にしてたんだね」
「……ああ」
「どうして分かるの?」
「ガラスに付いた傷の位置。落として割ったものなら、もっと派手に欠ける。あれは、持ち歩いているうちに小さくついた擦り傷だ。――よく、撫でられていた痕でもある」
「ふーん……よく分かんないや」
リュカは小首をかしげ、それからふと、自分の胸元を押さえた。
彼女の身体の中央には、魔力炉心とエーテル固定装置が組み込まれている。
外からは見えないが、たまに、そこがきゅう、と締め付けられるように感じる瞬間があった。
今がちょうどそうだった。
――あのおばあさんの顔。
――灯りを抱く手の震え。
それを思い出した途端、胸の奥が痛んだ。
「……わたしも、なんか、ああいう顔されたら嬉しいのかな」
ぽつりと漏れた声は、小さすぎてアシュレイには届かない。
リュカ自身も、何を言ったのかよく分からなかった。
工房の隅で古い時計が一つだけ時を刻んでいた。
だがその針は正確な時刻を指してはいない。
進んだり遅れたりを繰り返しながら、なんとなく一日を一周する。
ここだけ、世界の時間から置いていかれている。
そんな印象をこの工房は与える。
「……アシュレイ」
「なんだ」
「このお店、なくなったりしないよね?」
唐突な問い。
アシュレイはわずかに目を見開き、リュカの方を振り向いた。
「どうして、そう思う」
「なんとなく。さっきのおばあさんみたいな顔、アシュレイもしてたから」
リュカは悪びれずに言う。
観察眼だけは時々驚くほど鋭い。
アシュレイは言葉を失い、視線を窓の外に逸らした。
外では、搬送車が白い蒸気を吐きながら通り過ぎていく。
「すぐには、なくならない」
「ふーん。じゃあ、いつかなくなるの?」
「……」
答えられなかった。
アシュレイ自身、知らないのだ。
この工房がいつまで存在していいのか、自分がいつまでここにいていいのか。
リュカはそんな沈黙の意味をまだ理解できない。
だから、屈託なく笑った。
「じゃあ、なくなりそうになったら教えてね。わたし、看板くらいなら運ぶから」
「お前の腕力では無理だ」
「ひどい!」
笑い声が工房に広がる。
白く濁った朝は、ゆっくりと昼へと変わっていく。
こんばんは!臂りきです!
お陰様で『虚線のエーテルコード』が順調に滑り出しました!
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