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1-18 三秒の欠落

 橋の上の足音が消えた。


 遠ざかったのではなく、途中で切れた。

 ふつうの足音は距離と伴に薄くなる。減衰し溶けていく。

 だが今のは違う。鳴っていたものが、突然”存在しなくなる”切れ方だった。


 アシュレイは喉の奥で息を止め、次に吐く息の量を計算するように静かに吐いた。

 怖い。怖いが、怖さを膨らませる暇はない。


 橋板の隙間から垂れていた霧が糸のように揺れる。

 糸は途中で途切れ、また繋がる。

 その途切れが妙に規則正しい。


 虚線が空気に描かれる。


 ――来るな。


 彼は確かに言った。

 言葉は相手に届けるために発するものだが、ときに自分を縛るために発するものでもある。

 アシュレイが放った「来るな」は、恐怖を抑え込むための呪文だった。


 リュカが袖を握っている。

 手袋越しの力は強くない。だが“離さない”という意志だけは揺るがない。


「……ねえ、アシュレイ」


「今は喋るな」


「先に喋ったのはアシュレイ」


「……」


 リュカの余計な一言にアシュレイの頭の端で小さな火花が散った。

 その微かな明かりが今はありがたい。現実との繋がりを認識できる。確かな認識をすることで、自身の存在が薄くなるのを防ぐことができる。


 アシュレイは低く言った。


「数える」


「なにを?」


「三秒」


 言った瞬間、空気がふっと軽くなった。

 軽くなったのに、足元は認識下で重くなる。重くなるのに、接地の感覚だけが薄くなる。


 矛盾。


 ――薄い。


 世界が薄い。

 音が薄い。匂いが薄い。自分の体の重さ、その認識が希薄だ。

 薄いのに、虚線だけが次第に濃くなる。


 アシュレイは自分の鼓動を数える。


 一。

 二。


 そこまで数えて、鼓動がズレた。


 鼓動の間隔がほんの僅かに飛んだ。

 “飛んだ”と認識した時点で彼の脳はすでに欠落を受け入れている。


 三。


 ――三、と数え終えた瞬間。


 霧が元に戻った。


 音が戻る。匂いが戻る。湿った土の冷たさが戻る。

 川の水音が遅れて耳に流れ込んでくる。


 戻ったはずなのに何かが違う。


 アシュレイは反射で周囲を見回した。

 橋の上。橋の下。斜面。宿の裏口。

 そして自分の腕の中。


 リュカがいる。

 いる。いる――はずだ。


 だが、彼女の重さが違った。


「……?」


 アシュレイは抱き寄せていた腕をほどき、リュカの肩を掴んで正面を見た。

 リュカも同じようにアシュレイを見上げている。目を見開いている。


 彼女は震えていた。

 だが震えの種類が恐怖ではなく、驚愕のそれだった。


「……アシュレイ」


「何だ」


「わたし、いま……いま、橋の上にいた気がする」


 アシュレイの背中を冷たいものが走った。


「……橋の上?」


「うん。上から、下を見た。

 下にアシュレイがいた。

 それで、アシュレイがわたしを見上げて――」


「……」


 それは錯覚かもしれない。

 しかし、錯覚だと切り捨てるには情報が具体的すぎる。

 視点移動。位置の入れ替わり。三秒の欠落。


「……虚線に触れたか」


「触れてない。

 踏んでもない。

 でも、匂いがした。甘いのに冷たい匂い」


「俺もだ」


 アシュレイは息を整えた。

 理屈はまだ組み立てられない。だが、観測結果は出た。


 ――三秒で位置が入れ替わる可能性がある。


 つまり、“飛ぶ”のは認識だけではない。

 少なくとも一部は身体の位置情報が移動している。


 アシュレイは手帳を取り出し、さっき拾った懐中時計の裏蓋を確認しようとして鞄に手を入れた。


 ――ない。


 布で包んだはずの裏蓋が鞄の中にない。


「……」


 鼓動が沈む。

 アシュレイは鞄を逆さにして荷物を地面へ広げた。紙束が泥に触れそうになり、彼は舌打ちしそうになるのを噛み殺した。

 そんな余裕はない。今は証拠の位置が重要だ。


 布はあった。

 だが、布の中身が空だ。


「……消えた」


 リュカが呟いた。


「いま、消えたの?」


「三秒の間にだ」


 アシュレイは声を落とした。

 怒鳴ったところで戻らない。現象に感情をぶつけても何も変わらない。


 代わりに自ら提示した手順に戻る。

 確認、記録、推定。


 ――三秒の間に物品が消失する。


 彼は深く息を吸い、吐いた。

 吐いた息は白くならない。だが、胸の内側は白く凍る。


 そのとき、リュカが小さく手を伸ばした。


「……あれ?」


 彼女の手袋の掌に何かが当たっている。

 特段何かをしたわけでもない。

 にもかかわらず、彼女の指先には“何か”がある。


 リュカは掌を開いた。


 そこにあったのは――鍵だった。


 小さな鍵。

 真鍮色で古い。

 ただ古いだけなら単なる落とし物に見える。だが、鍵の柄の部分に既視感のある小さな刻印がある。


 虚線に似た刻印。

 途切れ、繋がり、また途切れる。


 アシュレイの喉が乾いた。


「……どこから出した」


「……分からない。いま、手の中にあった」


「拾った覚えは」


「ない」


 リュカは自分の掌を見つめ、息を呑んだ。


「……こわい」


 その「こわい」は、先までの「こわい」とは違う。

 敵そのものが怖いのではなく、自分が知らぬ間に“道具”にされていることへの恐怖。

 ――勝手に入れられる。勝手に持たされる。勝手に運ばされる。


 アシュレイは鍵を受け取ろうとし、手を止めた。

 不用意に触ると条件が変わる。

 条件が変わると、次の三秒で何が起きるか分からない。


「……持っていろ」


「えっ」


「手袋越しに触っている状態を維持する。

 今はその鍵が誰の条件に紐づいているかが分からない」


「条件?」


「触れた者、持った者、見た者、匂いを嗅いだ者――

 現象は“トリガー”を必要とする。

 それが何かまだ特定できていない」


 リュカは頷き、鍵を握りしめた。

 握りしめた手が僅かに震える。


 橋の上を見上げると、霧がさっきより濃い。

 その霧の向こうに人影はない。

 足音が消えた人物がどうなったのかは分からない。


 アシュレイは歯を食いしばり、視線を左右に走らせた。


「……橋の上へは行くな」


「行かないよ」


「俺が許可するまで、絶対に近づくな」


「わかった」


 素直な返事。

 その素直さが今は痛い。彼女が“いい子”になっているのは怖いからだ。

 これまでは怖いときほど明るくふざけていたはずなのに――今はふざける余裕がない。


 アシュレイは彼女の肩に触れ、軽く叩いた。


「……宿へ戻る」


「え、でも――」


「今夜のうちにできることは二つ。

 一、鍵を調べる。

 二、橋の上で消えた者の情報を探る。

 現場に居続けても、選択肢が増えるだけで情報は増えない」


 ――不確かなものを着実になくしていく。


 リュカは唇を噛み、頷いた。


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