1-17 橋下の残滓
アシュレイは橋の上には足を踏み入れず、横の斜面を下りて川辺へ向かった。
川は浅い。水音は小さく、霧に吸われる。橋の下は暗い。暗いのにどこか白い。
白いのは色覚とは別の何かが薄く感じるからだ。
空気が薄い。音が薄い。匂いが薄い。薄いのに、例の甘さだけが残る。
リュカが鼻をひくつかせた。
「……この匂い」
「似ているな」
「うん」
アシュレイは地面に膝をつき、指先で土を触った。
湿っている。だが湿り方が変だ。水の湿りではなく、そこにいた何かが去った跡の湿り。温度が下がった後の湿り。
彼は視線を上げ橋板の裏側を見た。
木材の継ぎ目。そこに――細い線が走っている。
途切れ途切れの線。
虚線。
アシュレイは息を止めた。
線は木目の自然な亀裂にも見える。だが、自然ならこうはならない。途切れ方が整いすぎている。規則がある途切れ方だ。
彼は手帳を取り出し、線を写すように描いた。
そして描きながら気づく。金の幾何学模様と同じ癖だ。直線と角の繰り返し。規格化されたコード。
「……エーテルコード」
言葉が自然に口をついた。
リュカがそれを聞いて、背筋を伸ばす。
「コードって、つなぐやつ?」
「つなぐ。切る。縫う。――そして、呼び出すものだ」
アシュレイは線から視線を逸らし、周囲を探った。
川辺の石の陰。草の倒れ方。足跡。――そして、見つけた。
濡れた土の上に小さな金属片が落ちている。
丸い。古い硬貨のようにも見えるが、縁が滑らかすぎる。
アシュレイがそれを拾い上げると、リュカが息を呑んだ。
「それ……」
小さな懐中時計の裏蓋だった。
裏蓋だけ。中身はない。針もない。刻印も薄い。
だが、裏蓋の内側に赤い染料のような薄い痕があった。
赤。深紅。
アシュレイの指先が冷える。
《クロノス・レイテンシ》が胸の中で静かに沈黙する。
リュカが小さく言った。
「……アシュレイ。これ、似てる。あの女の人……」
「ああ」
アシュレイは裏蓋を布で包み、鞄にしまった。
証拠だ。
そして、罠かもしれない。
ふたりが立ち上がった、その時だった。
橋の上で誰かの足音が止まった。
声は聞ない。
代わりに――くすり、と笑う気配だけが落ちてきた。
耳元で聞こえたのではない。だから距離感が狂う。
遠いのに近い。近いのに遠い。
アシュレイは反射的にリュカを庇うように引き寄せた。
リュカは抵抗せず、ただ上を見た。
橋板の隙間から霧が糸のように垂れる。
その糸が途中で――途切れる。
虚線が橋の上だけではなく、空気の中にも走った。
アシュレイは歯を食いしばった。
「……来るな」
誰に向けた言葉か自分でも分からない。
来るな、と言った瞬間に世界が薄くなった。
次の三秒で何が起こるか。
それを知ってしまう予感だけがあった。
リュカが手袋越しにアシュレイの袖を握る。
「……ねえ、アシュレイ」
「何だ」
「いま、笑った?」
「笑ってない」
「だよね」
リュカが言った。
言って、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「じゃあ、大丈夫だね」
霧の中で虚線がもう一度途切れた。
――橋の上の足音が消えた。




