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1-16 蒸気亭の噂

 部屋の扉が閉まると、宿の喧騒が一枚の壁越しに遠のいた。

 蒸気亭の二階。窓からは宿の裏手に架かる木橋が見える。橋は小さく、ただ街道脇の浅い川を跨いでいるだけなのに、そこだけ空気が薄い――そう錯覚するほど視線が吸い寄せられた。


 アシュレイは鞄を床に置き、いつもの手順で荷物を検めた。

 紙束、筆記具、簡易の計測具。魔術師というより現場に出る研究者のそれだ。彼は「戦える」人間ではない。ならば「整える」しかない。整えて見落としを減らし、理屈の足場を作る。


 胸の内側で《クロノス・レイテンシ》が冷えた重みを主張する。

 さっきの女将の話――“三秒”、橋、落ちていた懐中時計。偶然にしては整いすぎている。整いすぎた偶然は誰かの意図だ。


 一方で、荷物の検めを終えたリュカは椅子に座って脚をぶらぶらさせていた。

 その動きは子どもらしいのに、揺れが少ない。重心がぶれない。武術の癖が日常の仕草にも染みついている。


「アシュレイ」

「なんだ」

「さっきさ、女将さんが『変な時計が落ちてた』って言ってたよね」

「言っていたな」

「それ、アシュレイのやつじゃないよね?」


「俺のはここにある」


 アシュレイが胸元を指で叩くと、リュカは少しだけ肩の力を抜いた。

 それでも目は窓の橋を離れない。彼女は怖がっている。だが怖がり方が普通の子どもと違う。逃げたいのではなく、把握したいのだ。

 何事も把握して対処したい。その癖が彼女を強くしてきた。


「ねえ。行くの?」


「今夜は行かない」


 アシュレイは即答した。

 ただ単純に慎重だからではない。判断材料が乏しいという一種の恐怖があるからだ。

 怖いものを前にして条件を揃えずに踏み込むのは、ただの自殺行為だと知っている。


「じゃあ、明日?」

「明日の朝、陽が上ってから――人が多い時間帯だ。現場を“見ていた”証言が拾える」


「証言?」


「事件は現象じゃない。人の記憶の中にある」


 リュカは「またむずかしいこと言う」と呟き、頬を膨らませた。

 それからわざとらしく話題を変えるように窓の外を指差した。


「……あの橋、ちっちゃいのに、なんか怖い」


「怖いのは橋じゃない。橋の上にある“何か”だ」


「“何か”って、あの虚線?」

「虚線という呼び名は、たぶん現場の人間の便宜だ。現象の本質ではない」


「ほんしつは?」


「今は分からない。――だから聞く」


 アシュレイは部屋の机に紙を広げ、簡単な図を描き始めた。

 宿、橋、川、街道。いくつかの印。時間のメモ。そして“三秒”。


「質問を整理する。まず――“飛ぶ”とは何か」


 彼はひとつずつ指を折って言う。


「一、認識だけが飛ぶのか、身体ごと移動しているのか。

 二、飛ぶ距離は一定か、ランダムか。

 三、飛ぶ条件は何か。踏む、触れる、匂い、視線、言葉。

 四、現場に残る“印”は誰が残すのか。現象の副産物か、施術者の署名か。

 五、死者の“笑み”は、恐怖による痙攣か、それとも――別の理由か」


 最後の言葉が部屋の空気を少し冷やした。

 リュカが膝を抱え、小さく言う。


「……怖いまま死ぬの、やだ」


「俺もだ」


 アシュレイは声の調子を崩さないまま、少しだけ柔らかくした。


「だから、“笑って”死んだ理由を先に考える。

 ――笑いは感情が溢れた時にも出るが、感情が壊れた時にも出る」


「壊れたとき?」


「脳が誤作動した時、筋肉が勝手に動くことがある。

 ……だが、魔術が絡むなら話は違う。意図的に“表情”だけを固定することだって、理屈の上では可能だ」


 理屈の上。

 その言葉にリュカは目を伏せた。彼女にとって“理屈の上で可能”は、いつも現実になってきた。

 二十年前の夜がまさにそうだった。


 沈黙が落ちた。

 それを破ったのは、廊下からの足音と、控えめなノックだった。


「……お客さん。女将だけど、ちょいといいかい」


 アシュレイが扉を開けると、女将が盆を抱えて立っていた。湯気の立つスープと黒パン。あと、薄い紙束。


「これは口止め料じゃないよ。助けてくれそうな顔してたから、こっそり回覧の写し」


「回覧?」


「街道の宿場同士で回してる注意書きさ。門兵の文も混じってる」


 女将は視線を部屋の中へ滑らせ、リュカを見て言葉を選んだ。


「……小さい子連れなら、なおさらね。怖いだろう」


「小さくないよ」


 リュカが即座に言う。

 女将が「ごめんごめん」と笑って誤魔化すと、リュカはむっとした顔でアシュレイを見る。


「ねえ、いまのツッコミ合ってた?」


「合ってる。今のはいい返しだ」

 ――()()()であることは敢えて伏せるが。


「よし……!」


 場がほんの少しだけ軽くなる。

 アシュレイは女将から紙束を受け取り、ざっと目を通した。


 ――街道にて異常現象発生。

 ――「虚線」出現箇所、宿場近辺に集中。

 ――目撃者、三秒前後の認識欠落を報告。

 ――物資の消失・出現、複数件。

 ――死者、二名。傷なし。表情筋の固定を疑う。

 ――現場に紋様。幾何学的。赤い染料の痕跡あり。


 最後の一文にアシュレイの目が止まった。

 赤い染料。深紅。金の幾何学模様。


 女将が声を落とす。


「……このあたりじゃ“赤い人”って呼ぶ者もいるよ。教団かどうかは分からない。分からないけど、嫌な感じがするって」


「そいつを見た者は?」


「はっきり見たって言う人は少ない。

 見たはずなのに、顔が思い出せないって。声だけ覚えてるって」


 アシュレイの背中が冷えた。

 顔が思い出せない。声だけ。――二十年前の夜と同じだ。


「声の特徴は」


「……耳元で囁くみたいだった、って」


「……そうか」


 アシュレイは回覧を机に置き、女将へ頭を下げた。


「助かる。礼は払う」


「いいよ。夜の暇つぶし。どうせみんな、怖くて眠れないんだ。

 ……それに」


 女将は少しだけ目を細めた。


「あんた、怖い顔してるね。怖い顔の人は、たいてい誰かを守ろうとしてるもんさ」


 アシュレイは返せる言葉を探し、見つからなかった。

 代わりに短く頷いた。


 女将が去ると部屋には再び静けさが戻った。

 スープの湯気が漂い、外の橋が窓枠に切り取られる。


 リュカが紙束を覗き込み、赤い染料の文字を指でなぞった。


「……赤」


「レドラのローブと同じだ」


「レドラって、話してくれた女の人の名前だよね」


「ああ。深紅の幾何学模様のローブの女。……俺たちの始まりの女だ」


 リュカが「はじまり」と呟いて、息を吸った。

 息を吸って、吐く。吐くときに、ほんの少しだけ肩が震えた。


「……ねえ、アシュレイ。わたし、その夜のこと、ちゃんと覚えてない。

 でも、怖いのは何となく覚えてる。怖くて、アシュレイが手を引いてくれたのも覚えてる」


「手を引けたかどうかは怪しい」


「引いた。引いたってことにする」


「勝手に決めるな」


「わたし、勝手に決めるの、得意だから」


 リュカが少しだけ笑った。

 その笑みは機械人形としての“薄い笑み”ではなく、確かに“体温のある笑み”に近かった。

 ――しかし近いだけだ。完全ではない。


 アシュレイはスープを一口飲み、頭を切り替えた。


「……橋へ行く前に、情報を取りに行く」


「どこに?」


「食堂。宿の一階。噂は人の口から落ちる。回覧より生の声が欲しい」


「わたしも行く」


「目立つ」


「目立つの、慣れてる」


「慣れるな」


「慣れたもんはしょうがない」


「……はぁ」


 アシュレイはため息を吐き、外套の襟を整えた。

 リュカは嬉しそうに椅子から降り、足音をほとんど立てずに立った。


「キャリちゃんは?」


「荷車は外だ。繋いである」


「ほら、また“荷車”って言う。かわいくない」


「可愛くする必要がない」


「ある」


「ない」


 言い合いのテンポが部屋の空気をちゃんと“今”へ戻す。

 アシュレイは今もそれに救われていると気づき、気づいたことを隠すために顔をしかめた。


 ――下へ降りる。


 蒸気亭の一階は暖かかった。炉が赤く燃え、煮込みの匂いが満ちている。旅人たちの声は低く、笑いは控えめ。皆が皆、どこかで橋を気にしている。視線がふと外へ流れ、すぐに戻る。


 アシュレイは空いた席を見つけ、リュカと並んで座った。

 リュカが足を揃え、背筋を伸ばす。子どもらしさを消す所作。だが、消しきれない小ささが逆に目を引く。


 隣の卓で二人の男が小声で話していた。衣服は旅装、指先が油で黒い。工房の職人だろう。


「……だから言ったじゃねえか、あの橋は“踏むな”って」


「踏んでねえよ。踏んでねえのに、飛んだんだよ」


「飛んだって、どこへ」


「三歩先だ。……たった三歩。なのに、さっきまで手に持ってた袋がなくなってた」


「盗まれたんだろ」


「違う。

 盗まれたなら盗む奴の動きが見えるはずだ。見えねえんだ。

 見えねえのに、“笑い声”だけ聞こえた」


 笑い声。

 アシュレイの耳が自然に言葉を拾う。


「女の声か?」


「……いや、分からねえ。耳元だ。耳元で――」


 男は自分の耳を指で擦り、顔を歪めた。


「『余白がある』って」


 アシュレイの手がテーブルの縁で止まった。

 余白。――二十年前、レドラがルカへ囁いた言葉。


 リュカも息を止めていた。

 彼女の瞳がほんの少しだけ揺れる。


 アシュレイは立ち上がり、男たちへ声をかけた。

 声は丁寧に。圧は出さずに。相手が逃げない温度で。


「すまない。今の話、詳しく聞かせてもらえるか」


 男たちが振り向き、アシュレイとリュカを見て目を丸くする。

 警戒。好奇心。怖れ。色々な感情が混ざる。


「……あんた、旅人か」


「旅人だ。レヴァル・アーシェへ向かっている」


 都市名を口にすると、男の顔が曇った。


「レヴァルへ? やめとけ。いまは――」


「いまは危ない、だろう」


「……知ってるのか」


「知りたい。危ないなら、危ない理由を知っておきたい」


 アシュレイの言葉に男は観念したように息を吐いた。

 もう一人の男がグラスを握ったまま言う。


「……橋だよ。橋の上だけ、空気が薄い。

 踏んだ瞬間じゃない。踏む前に、なんか甘い匂いがする。

 その匂い嗅ぐと、頭がふわって――」


「ふわって?」


「……眠いっていうより、思い出したくない夢みたいな」


 アシュレイは頷き、机に紙を広げ、簡易の図を描いて見せた。


「飛んだのは三歩先。

 その間、何か見えたか。光、線、影、音――」


「線。途切れた線だ。木目の上に変な線が見えた。

 それを避けようとしたんだが……避けたつもりで、気づいたら踏んでた」


「踏んだ感覚は?」


「……ない。踏んだ感触がないんだ。

 足が、板を踏んだはずなのに、板がそこにないみたいな」


 板がない。

 つまり、接地の情報が欠落している。感覚の欠落は認識の欠落へ繋がる。


 リュカが口を挟んだ。


「耳元の声、どんな声だった? 高い? 低い?」


「……分からねえ。でも、息が冷たかった」


 息が冷たい。甘い匂い。耳元。余白。

 点が線になりかけている。嫌な線だ。虚線より嫌な線。


 アシュレイは礼を言い、男たちの席を離れた。

 リュカがすぐ後ろについてくる。彼女は無言だが、背中が固い。


 席に戻ると、リュカが小さく言った。


「……余白って、言った」


「ああ」


「それ、わたしに言ったやつ」


「ああ」


 リュカはスープを一口飲み、怪訝な顔をした。


「ねえ、アシュレイ。

 わたし、余白があるって言われるの、なんか嫌い」


「当然だ」


「余白って、なに」


 アシュレイは答えを急がなかった。

 答えを急ぐと恐怖を形にしてしまう。


「……余白は、入り込む場所だ」


「入り込む?」


「魂を奪うなら、“奪える隙間”が必要になる。

 隙間がないなら、こじ開けるか、壊すしかない。

 ……あいつはたぶん、隙間のある者を選んだ」


 リュカは手袋越しに自分の胸を押さえた。


「わたし、隙間だらけだったのかな」


「違う」


 アシュレイの声が少しだけ強くなった。

 強くなってから、彼は自分の声を整え直す。


「隙間があるのは弱さじゃない。人間は皆、隙間がある。

 ……問題は、そこに勝手に手を突っ込む奴がいることだ」


 リュカはその言葉をゆっくり咀嚼し、頷いた。


「じゃあ、勝手に手を突っ込むやつが悪い」


「そうだ」


「よし」


 リュカの「よし」は、震えを押し潰すための「よし」だ。

 アシュレイは気づいたが、気づかないふりをした。それが今の最善だ。


 食堂の端で別の旅人が声を落として話しているのが聞こえた。


「……橋の下で見つかった死体、笑ってたってよ」


「笑ってたって、どういう――」


「口がな、こう……上がってた。

 しかも目が開いてた。開いたまま、何かを見てるみたいに」


 アシュレイの脳裏に嫌な想像が浮かぶ。

 笑っているのに、目が開いている。――それは、“喜び”ではない。意図した“固定”だ。


 彼は立ち上がった。


「……見に行く」


「今夜は行かないって言った」


 リュカの言葉は正しい。

 正しいが、条件が変わった。


「橋の上じゃない。橋の下だ。

 見張りがいるなら、遺体はもう回収されているだろう。

 だが、現場の“残滓”は残ってる可能性がある。匂い、痕、板の状態、足跡」


「それでも夜だよ」


「夜だからこそ、匂いが分かる」


 アシュレイは女将の方を見た。

 女将は彼の目を見て、短く首を振った。止めたいが、止められない顔だ。


「……橋の下なら、裏口から行きな。

 見張りには言っとく。面倒を起こさないなら、目をつぶる」


「恩に着る」


 アシュレイは外套を羽織り、リュカに振り返った。


「行くなら、俺の後ろ」


「わたしが前」


「却下」


「なんで!」


「却下」


 リュカがむっとして頬を膨らませる。

 その不満がほんの少しだけ空気を軽くする。


「……じゃあ半歩前」

「せめて横だ」

「じゃあ横」


 ふたりは裏口から宿を出た。

 外気は冷たく、霧が低い。ランタンの光が湿った空気に溶け、視界の端を曖昧にする。


 橋はすぐそこだ。

 木板の上を昼より少ない人影が通る。足音が響き、消える。


 そして、時折足音が途切れる。

 ――ただの錯覚かもしれない。だがその錯覚が、いまは恐怖の対象となる。


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