1-15 宿場
昼に近づくころ、宿場が見えた。
街道沿いに建つ煉瓦造りの宿。屋根の上に小さな煙突。入口に「蒸気亭」と書かれた看板が揺れている。横には馬留めではなく、簡易の蒸気管接続口があり、キャリッジの熱を逃がせるようになっていた。蒸気と魔術が同居する街道の作法だ。
アシュレイはキャリッジを停め、接続口へ管を繋いだ。
リュカが荷台から飛び降り、着地の音を殺して辺りを見回す。
「……におい、へん」
「どう違う」
「甘い。こわい感じ」
兵が言っていた“薄い匂い”。
それが宿場の周囲にも漂っている。つまりここは現象の“縁”に近い。
宿の扉を開けると暖かい空気と雑多な匂いが押し寄せた。煮込みの匂い、蒸気油の匂い、旅人の汗の匂い。
その中に――薄い甘さが混じる。
受付の女将が顔を上げ、二人を見て目を丸くした。
「……あら。お客さん、子連れ……? いや、その……」
言葉が迷子になっている。
リュカが即座に笑顔を作って言った。
「連れじゃないよ。相棒」
「相棒……?」
「うん。アシュレイ、わたしの相棒」
アシュレイが咳払いをする。
「少し無理がある」
「えー? わたし相棒でしょ?」
「……どちらでもいい」
女将は困ったように笑い、帳簿を開く。
「一部屋でいいかい? ……夜は外に出ない方がいいよ」
「何が起きてる」
アシュレイが訊くと、女将は視線を逸らし声を落とした。
「……昨夜ね。宿の裏の橋で、馬車が止まった。
御者が言うには、たった“三秒”目を離しただけ。
その間に――荷がひとつ消えて、代わりに“変な時計”が落ちてたって」
アシュレイの胸の内が冷たく鳴った。
「時計?」
「銀色の……懐中時計。動かない。
それと、橋の板に……線が。途切れた線。踏むと嫌な感じがする線――」
リュカがアシュレイを見上げる。
「……三秒だ」
「ああ」
女将はさらに声を落とす。
「それだけじゃない。今朝、橋の下で人が倒れてた。傷はない。
でも顔がね……笑ってるみたいで……怖くて」
宿の空気がほんの少しだけ重くなる。
旅人たちが話をやめ、耳だけこちらに向けている気配がある。皆、恐れている。恐れているのに、好奇心で覗き込む。
「部屋をくれ。――橋の場所も教えてくれ」
アシュレイは銀貨を取り出し、鍵を受け取った。
「行くのかい? やめときな。兵にも止められて――」
「やめられない」
アシュレイの声は低い。
その語気の強さに、女将はそれ以上言わず、指で方角を示した。
階段を上がりながらリュカが小さく言った。
「ねえ、アシュレイ」
「なんだ」
「……こわい?」
アシュレイは一拍置いて答えた。
「怖い」
正直に言う。
そして、正直に続ける。
「だが、怖いからこそ行く。
放っておけば、次はお前がその不確かな“三秒”で消える」
リュカは唇を噛み、頷いた。
「じゃあ、いっしょにいく」
「まずは部屋で装備を確認する。夜には動かない。情報を集める」
「うん。……でも、ちょっとだけ言わせて」
「何を」
リュカが顔を上げ、いつもの明るさを少しだけ削った、まっすぐな声で言う。
「わたし、いまのわたしのままでいく。
“三秒”に負けない」
アシュレイは返せる言葉をすぐに見つけられなかった。
代わりに、彼は短く頷いた。
「負けさせない」
部屋の扉が軋み、鍵が回る。
小さな部屋。粗末な机。薄い布団。窓の外には橋が見える。橋板の上を旅人の影が行き来している。
その橋のどこかに虚線がある。
三秒が落ちている。
アシュレイは胸の内の《クロノス》へ指先を当てた。
まだ使わない。まだ使えない。使うべき瞬間を間違えれば、彼は“答え”に辿り着く前に溶ける。
だから――まずは見て、聞いて、考える。
理詰めでしか届かない戦いが、ここから始まる。




