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1-14 検問

 朝靄は旅立ちの音をやわらかく包む。

 城下町の外れ、石畳が土へ変わる境目で《カラクリ・キャリッジ》は低い唸り声をあげた。蒸気管が小さく鳴り、車輪の内側で歯車が噛み合う。魔導炉の微かな脈動が荷台の床を通して足裏に伝わってくる。


 アシュレイ・クローヴは手綱の代わりに、車台に埋め込まれた制御レバーへ掌を置いた。

 彼は魔術実技が壊滅的に弱い。だからこそ、道具の癖は徹底的に覚える。癖を覚えれば、世界はまだ“扱える”。


 外套の下には《ミスリル・ヴェストメント》。

 鎖帷子の輪が歩くたびに小さく鳴る――はずが、今は音がしない。鳴らないように刻まれた“途切れの記述”が金属の主張を消している。まるで存在だけを太くして、余計な情報を削ぎ落としたみたいに。


 胸の内側には銀の懐中時計クロノス・レイテンシ

 ケース越しにも冷たさが分かる。冷たいのに、そこには確かに熱がある。彼が注ぎ込んだ二十年分の魔力と、リゼットのいびつで完璧な執念の熱だ。


 ――戻る。

 昨日、彼はそう言った。

 言った以上、戻らなければならない。戻るという言葉は彼にとって“言ってしまったら最後”の種類の言葉だった。


 隣でリュカが荷台の縁に腰掛けていた。背丈はアシュレイの腰ほど。旅装の鞄が少し大きく見える。にもかかわらず、彼女は揺れの中でまったく不安定にならない。身体が機械だからではない。二十年分の“鍛え方”がその座り方に出ている。


 城下町の門が霧の向こうで小さくなっていく。

 その方向へリュカは一度だけ振り返った。

 工房のある通りはもう見えない。

 見えないのに、そこに灯りがある気がする。


 リュカは唇を噛み、わざとらしく明るい声を作った。


「ねえ、アシュレイ」

「なんだ」

「やっぱりさ、いまからでも……帰る?」


 茶化すような口調。けれど最後の二文字だけ、ほんの少しだけ本音が混じった。

 アシュレイは答えるまでに一拍置いた。置いた理由は、迷ったからではない。言い方を選んだ。


「帰らない」

 短い答え。

 だが、それだけで終わらせない。

「帰る場所はある。……だから、いつか戻れる」


 リュカが目を瞬く。


「……戻れる」

「ああ」

「じゃあ、私のままでいいの?」

「……いい」


 リュカは一瞬だけ、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

 “いい”というたったそれだけの言葉が、彼女の中で“消えるかもしれない”怖さを一歩押し退ける。


 彼女はからかい口調に戻す。


「ふーん。じゃあ、わたしがいないと帰れないって言ったの、ほんとなんだ」

「余計な部分だけ覚えるな」

「余計じゃない。たいせつ」

「……口が達者だな」

「天元無尽流は口も鍛える」

「鍛えるな」


 リュカがけらけら笑う。


 その笑いが朝靄に溶けていく。


 《カラクリ・キャリッジ》は速度を上げた。

 車輪が地面を噛み、路面の砂利を弾く。蒸気が低く吐かれ、魔導炉が一定のリズムで鼓動する。馬を使わない荷馬車はたしかに便利だった。だが便利さ以上に、アシュレイが感じるのは“守られている”感覚だった。ここにはリゼットの設計思想が詰まっている――壊れても直せる、奪われても取り戻せる。

 そして、持ち主が弱くても運べる。


 弱くても運べる。

 その優しさが、痛い。


 アシュレイは視線を前へ固定した。

 感傷に沈むと判断が鈍る。判断が鈍れば、リュカが消える。そんな単純な因果を彼は何度も自分に叩き込んでいる。


 道は街道へ繋がる。

 蒸気の匂いが濃くなった。遠くに配管が走っている。山を削った採掘路があり、そこから伸びる管が都市へ向けて熱を運んでいるのだろう。


 ここは“魔術”の領域。かと言って魔術が世界を支配しているのではなく、魔術と機械が折り合いをつけて暮らしている場所だ。


 その境目に検問所があった。

 木製の柵、簡素な詰所、そして――妙に新しい掲示板。


 見張りの兵が手を上げる。


「止まれ。行き先と積荷の確認だ」


 アシュレイはレバーを戻し、キャリッジを止めた。蒸気が吐息のように抜け、車体が小さく揺れる。


「行き先はレヴァル・アーシェ」

 都市名を口にすると、兵の眉が上がった。

「レヴァルへ? こんな時に?」

「どういうことだ?」

「……知らないのか。いや、旅人だったか」


 兵は視線を荷台へ移し、リュカを見て一瞬だけ言葉に詰まった。

 小さな機械人形オートマタの少女が旅装で座っている。珍しいというより、奇妙だ。普通なら見世物にされる。だが彼女の目がただの子どもの目ではない。見返されると、軽口が喉に引っかかる種類の目だ。


 兵は咳払いをし、掲示板を指した。


「最近、街道で事件が増えている。特にレヴァル方面。

 ……“虚線”が出る」


 アシュレイの指先がレバーの上で僅かに止まった。


「虚線?」

「誰かがそう呼んでる。エーテルが途切れたように見える線だ。踏むと変なことが起きる」


 変なこと――という言葉の雑さが、逆に恐ろしい。

 雑にしか言えない現象ほど人は対処できない。


 アシュレイは平静を装って訊いた。


「具体的には」

 兵は喉を鳴らし、言いにくそうに言う。

「……時間が飛ぶ」

「時間?」

「ほんの一瞬だ。三秒とか……四秒とか……。

 気づいたら位置がずれてる。持ち物が落ちてる。逆に、拾った覚えのないものが手元にある。

 死者も出た」


 リュカが小さく身を乗り出した。


「ししゃ?」

「……ああ。傷がないのに死んでる。倒れた瞬間を誰も見てない。

 見てたはずなのに、“見てない”って言う。……意味が分からん」


 意味が分からない――それは、この世界で最も危険な報告だ。


 アシュレイは胸の内の《クロノス》を思い出す。三秒。亜空間。時間。

 偶然にしては数字が近すぎる。


 兵は掲示板の紙束を一枚めくり、指で叩いた。

 赤い下地に金の幾何学模様――ではないが、それに似た“複雑すぎる装飾”。そして、虚線に似た記号。


「これが現場に残る印。教団のものじゃないかって噂もある」


 教団。

 深律教団しんりつきょうだん


 アシュレイの喉の奥が冷える。二十年前の夜、真っ赤な下地に金の幾何学模様のローブ。意味深な囁き。振り返ったときには消えていた女。


 そして、引き裂かれたリュカのエーテル体。


 思い出すだけで世界が薄くなる気がした。

 アシュレイは呼吸を一定に戻し、兵へ言う。


「注意して進む」

「……あんた、妙に落ち着いてるな」

「怖いからこそだ」


 それは本音だった。

 怖いときほど彼は理屈に寄りかかるしかない。


 兵は首を振り、通行札を放って寄越した。


「行け。だが、無茶はするな。

 街道の宿場に寄れ。ひとりで進むな。――最近の“飛び”は、宿場の近くでも起きてる。

 周辺には決まって薄い匂いが残っているそうだ」


 宿場の近くでも。

 つまり、誰かが“近づけるように”仕掛けている。


 アシュレイは札を受け取りレバーを押した。

 キャリッジが再び唸り、街道へ滑り出す。


 しばらく走ってから、リュカがぽつりと言った。


「ねえ、アシュレイ」

「なんだ」

「……三秒って、へんな数字だね」


 核心を突くのが早い。

 アシュレイは返答を選んだ。嘘はつきたくない。だが恐れを増やす言葉も今は避けたい。


「偶然かもしれない」

「偶然だったらいいね」


「……ああ」


 リュカは荷台の縁を指でなぞった。

 その指先が小さく震えている。震えは風のせいにできる程度。だが、彼女の目が少しだけ遠い。


 視点が一瞬だけ内側へ落ちる。


(わたし、いまのままでもいいって言われた。

 でも、いまのままじゃ、消えるって言ってた。

 どっちがほんと?

 ……どっちもほんと?)


 答えのない問いが喉に引っかかる。

 リュカはそれを飲み込み、いつもの明るさを引っ張り出す。


「よーし。じゃあわたし、街道の悪い虫、全部やっつける」

「虫の規模じゃない」

「じゃあ、悪い線」

「線は切れるのか」

「切れないなら、折る」

「無茶を言うな」

「無茶は得意!」


 リュカが胸を張った瞬間、キャリッジが段差を踏んで小さく跳ねた。


 彼女は揺れに合わせて軽く体を流し、まるで踊るように衝撃を逃がす。天元無尽流――武術の“無駄のない受け流し”が、こんなところにも出る。


 アシュレイは思う。

 彼女は失われた魂の代わりに、別の輪郭を獲得しつつある。

 選択、行動、言葉。自分が自分であるための、いまの形。


 それが“代替”ではなく“答え”になるなら――


 過去へ戻りたい自分を、どうやって殺す?


 胸の内の《クロノス》が、冷たく沈黙した。


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