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1-13 リュドラ・カンナ

 朝靄は街の輪郭をやわらかくする。

 やわらかくするくせに、隠さない。

 ――逃げ場のない現実だけは輪郭を失わないまま残す。


 リゼット・クロイは扉を開け放ったまま、しばらく通りを見ていた。

 アシュレイとリュカの背中はもう見えない。キャリッジの車輪の音も消えた。あるのは朝の匂いと、遠くの蒸気管の吐息と、遅れて目を覚ました街のざわめきだけ。


 それでも彼女の目はまだ“見送り”の続きをしている。


 見送る。

 笑う。

 泣かない。

 そのルールを自分に課したのは彼女だ。

 課した以上、守る。守らなければ、次の一歩が踏み出せない。


「……始めましょう」


 リゼットが言った。

 声の調子はいつも通りに戻っている。戻した。

 ノア・シルエルは吊った腕をかばいながらも立ち上がり、軽く頷く。

 青白い顔はまだ回復していない。だが、瞳はもう“現場”の色に変わっている。


「まず、前室の座標を固定しますか」

「固定する。ただし、正面からは触らない」


 リゼットは机の上に帳面――《アーク・プロトコル》を開き、指先で一ページを叩いた。


 そこには虚線の断片から導いた“揺らぎの周期”が走り書きされている。

 アシュレイが残した式の断片も混じっている。彼の字は几帳面で、彼女の字は暴力的だ。二つが混じると妙に正確になる。


「教団はこちらが触れば触るほど喜ぶ。触れた瞬間、線がこちらの観測に噛みつく。だから――逆に触らせる」


 ノアが眉をひそめる。


「触らせる……?」

「餌を撒くの。宮廷魔法師が得意でしょ?」

「……嫌な言い方ですね」

「褒め言葉よ」


 リゼットは淡々と言い、引き出しから小さな銀の筒を取り出した。

 筒の先端には微細な穴がいくつも空いている。中身は観測固定液に似た匂いを持つ粉末。


「それは?」

「擬似断片。断片”っぽい”匂いだけ出す。線が寄ってくる」


 ノアは苦笑した。


「……あなたって人は、本当にひどい」

「ひどいのは向こう」


 リゼットは机上で筒を転がし、すぐに止めた。

 転がった銀がぴたりと止まる。止まるはずのない角度で止まった。


 ――まだ薄い。


 前室の余韻が工房の空気に残っている。

 世界の側がまだどこかで“縫合”を続けている。


「……ノア」

「はい」

「あなた、前室で薄くなりかけた時の感触、覚えてる?」


 ノアの喉が小さく鳴った。


「覚えてます。……できれば、忘れたかった」

「忘れないで。忘れたら、次は死ぬ」


 リゼットは冷たく言い切った。

 冷たいのに、ノアは頷く。彼はこの冷たさが“守るための冷たさ”だと知っている。


 リゼットは続けた。


「薄い場所は”甘い”。救いの顔をする。

 『ここに来れば楽になる』って顔をする。

 でも、あれは楽なんかじゃない。――溶ける」


 ノアは目を伏せ、短く答えた。


「……分かっています」

「分かってるふりをする人が一番危ない。……だから、あなたは分かってる側でいて」


 その言い方は珍しく”頼る”含みがあった。

 ノアは少しだけ目を丸くしてから、口元を上げた。


「……はい。分かってる側でいます」


 そこで、工房の外――屋根の上から低い笑い声が落ちてきた。


「ほう、朝から賢い会話をしてるじゃねぇか」


 声が先に来た。

 次に影が降りてくる。


 木の梁に足をかけ、すとんと軽やかに着地した男は、見た目だけなら“古老”というより、悪い癖の抜けない旅人だった。

 長い髪を無造作に結び、目は獣みたいに鋭い。背は高く、肩幅もある。なのに動きは妙に静かで、音がない。


 リュドラ・カンナ。

 龍人族の追放者。”天元無尽流てんげんむじんりゅう”の創始者。

 そして――この工房の裏側の番人。


「遅い」


 リゼットが言うと、リュドラは肩をすくめた。


「遅れても来る。来ねぇよりゃ百倍マシだろ」

「言い訳が上手い……!」

「放蕩者の必須技能だぜ」


 ノアが目を細める。


「……あなたが、リュドラ・カンナ」

「おう。宮廷の綺麗な顔の坊や、噂のノアか」

「坊やは余計です」

「余計じゃねぇ。年齢的に坊やだ」


 リュドラは笑い、工房の中を一巡するように視線を走らせた。

 机の上の図面、虚線の痕、工具の配置、血の匂い、疲労の気配――全部を嗅ぎ取る。


「……アシュレイと小さいの、行ったか」


 名前を言わないのに、誰のことか分かる言い方。

 リゼットが頷く。


「行った。今頃城門を抜けてる」

「なるほど。じゃあこっちは――影の始末だな」


 リュドラの言い方は軽い。

 軽いのに、そこにある責任が重いと分かる。


 リゼットは帳面を閉じ、机の中央に置いた。

 表紙の内側に刻まれた名が朝の光を受けて鈍く光る。


 ――《アーク・プロトコル》。


「起動する」


 リゼットは言った。

 宣言というより、覚悟の確定。

 ノアが頷き、リュドラがにやりと笑う。


「命令系統はどうすんだ」

「命令は私。実行はあなたたち。異論は?」


「ありません」

 ノアが即答した。


 リュドラは肩を鳴らし、わざとらしくため息をつく。


「若い女が隊長ってのは気に入らねぇが……まあいい。お前は頭が切れる」

「気に入らないなら抜けて」

「抜けねぇよ。面白そうだからな」

「面白くしないで。本気で守るの」


 リゼットが言うと、リュドラは少しだけ目を細めた。

 ふざけた顔が一瞬だけ消えて、古い獣の顔になる。


「……守る、ねぇ。守るために斬るなら、俺は得意だ」


 その言葉の温度が少しだけ落ちた。

 リゼットはそれを受け取り、淡々と役割を割り振る。


「ノア。宮廷側の情報線。

 “教団が今どこまで動けるか”を掴んで。あなたは顔が利く」

「顔の話なら任せてください。……利くのは顔だけじゃありませんがね」

「はいはい。調子に乗らない」


 ノアは微笑む。

 その微笑みにはもう涙が混じっていない。


「リュドラ。外回り。採掘場跡の監視と、必要なら――」

「必要なら、潰す」


 リュドラが先回りして言う。

 軽く言うのに、言葉が刃のように鋭い。


「潰すのはいいけど、痕は残さないで。アシュレイには気づかせない」

「おう。気づかせねぇのが一番難しいんだろ? あの男、理屈だけは鋭ぇからな」


 リゼットが一瞬だけ笑う。

 笑って、すぐ真顔に戻る。


「……そして私」


 彼女は指先で帳面を叩いた。


「虚線の解析。擬似断片の散布。前室の“引き寄せ”を逆利用。

 向こうが私たちを見てるなら、私たちも向こうを見返す」


 ノアが静かに言う。


「危険ですよ。あなたがまた攫われたら――」

「攫われない」

「根拠は」


「私が天才だから」


 即答。

 ノアが苦笑し、リュドラが声を立てて笑った。


「言いやがった。いいねぇ、その傲慢さ。嫌いじゃねぇ」

「嫌われても困らない」


 リゼットは冷たく言い切った。

 その冷たさは、泣かないための鎧だ。

 それでも――ほんの一瞬、視線が窓の外へ向いた。


 朝靄の向こう。もう見えない背中の方向。

 リゼットの胸の中で個人的な声が囁く。


 ――帰って。

 ――ちゃんと生きて。


 口には出さない。

 出したら、プロトコルが乱れる。


 ノアがその視線の揺れを拾ってしまったらしく、小さく言った。


「……リゼット殿」

「なに」

「私情はオフ、ですよね」


 リゼットは一拍置いてから答えた。


「……オフ」


 ノアが優しく追撃する。


「オフにできてません」

「オフよ」

「心拍が――」

「うるさい」


 リゼットが睨む。

 その睨みはさっきより少しだけ強い。つまり、持ち直している証拠だ。


 リュドラが肩を鳴らしながら言う。


「じゃあ隊長。最初の一手は?」


 リゼットは擬似断片の銀筒を取り上げ、掌で転がした。

 朝の光が筒の表面を滑る。


「最初の一手は、向こうに“こちらが怯えている”と思わせること」


「……逆じゃないんですか」


 ノアが眉をひそめる。


「逆。怯えてる顔をするほど、向こうは寄ってくる。寄ってきたら、足を掴む」


 リゼットは淡々と言い、銀筒の蓋を開けた。

 粉末が微かに黒く光る。


「採掘場跡の周囲に撒く。

 向こうが反応した瞬間、ノアの情報線で宮廷の動きを止める。

 リュドラは“寄ってきた影”だけを削る。――静かに」


 リュドラが歯を見せる。


「静かに、な。得意だ」


 ノアが静かに息を吐き、吊った腕をもう一度きつく締め直した。


「……了解です。

 それと、ひとつ。僕はクローヴ殿に――」


「会えない」


 リゼットが即答する。

 即答すぎて、ノアが少しだけ驚いた。


「……なぜ」

「今会ったら、あなたは追いかける。

 追いかけたら、あなたは死ぬか、捕まる。

 捕まったら、私はあなたを救うために全てを崩す。

 崩したら、リュカが消える。――以上」


 理屈が並ぶ。

 正しい理屈。正しい順番。


 リゼットは“正しい”理屈で自分を縛ることで泣かない。

 ノアは少しだけ唇を噛み、やがて頷いた。


「……了解です」


 理解したからではない。

 理解するしかないと分かったからだ。


 リュドラが軽い声で言った。


「坊やも大変だな」

「坊や呼びはやめてください」

「やめねぇ」

「……やめてください」

「やめねぇ」


 子どもみたいな応酬にリゼットの口元が僅かに緩む。

 その緩みが今日を動かすための燃料になる。


 リゼットは帳面を胸に抱え、最後に短く言った。


「――《アーク・プロトコル》、起動」


 言葉は儀式ではない。

 ただの宣言だ。

 けれどその宣言は、工房の空気を“裏側の戦場”に変えた。


 扉を開け、三人は朝の靄へ出る。


 城下町は日常の顔をしている。市場が開き、蒸気が上がり、子どもが走る。


 誰も知らない。今日から“影の戦争”が始まることを。


 リゼットは振り返らなかった。

 振り返れば、見送った背中が幻のように見えそうだったから。

 代わりに、胸の内でひとつだけ言う。


 ――行って。

 ――そして、戻って。


 その願いを、彼女は言葉にしないまま、仕事へ変えた。

 仕事へ変えた願いは強い。


 影は動く。

 表の旅が始まった同じ朝に、誰にも知られずに。


 そしてその影は、やがて“虚線の正体”へ噛みつくことになる。

 アシュレイが知らないところで。

 リュカが眠っている間に。


 世界が薄くなる音を、こちらが先に聞くために。



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