1-12 アーク・プロトコル ―― 起動
朝の空気は、冷たいくせにやけに澄んでいた。
工房の前の通りを薄い靄がゆっくり流れていく。街が目を覚まし切る前の時間――雑踏も蒸気の音もまだ弱く、遠くの鐘の残響だけが世界に輪郭を与えていた。
アシュレイとリュカを乗せた《カラクリ・キャリッジ》の車輪の音は、もう聞こえない。
角を曲がり、城下町の朝に溶けてしまった。見送る背中が消えた瞬間、リゼット・クロイは笑顔のまま、ほんの少しだけ息を止めた。
笑う。
見送る。
泣かない。
それを、彼女は“選んだ”。
扉の取っ手に触れたまま、リゼットはしばらく動けずにいた。
胸の奥がわずかに痛い。涙は出ない。出そうになる。だから出さない。出さないために、次の仕事の順番を頭の中で並べた。
――ノアを回収。
――前室の位相を再観測。
――虚線の追跡網を逆に引っかける。
――城内の宮廷筋の動きも抑える。
――そして、アークとリュカの安全確保。
仕事の列が長いほど心は散る。散れば泣かずに済む。
それが彼女の、ずるくて賢い生き方だった。
リゼットは扉を閉めた。
からん、と鈴が鳴る。
その音が、さっきの旅立ちの音と同じだったことに気づいてしまい、喉の奥がきゅっと詰まった。
「……やめて」
誰にともなく呟く。
返事はない。鈴はただの鈴だ。けれど今朝に限っては、鈴ひとつが情緒を持ってしまう。
机に戻ろうとした、そのときだった。
外で鈴が乱暴に鳴った。
からん、からん、からん。
叩きつけるような音。
扉板に掌が当たる気配。呼吸が階段を駆け上がってきたみたいに荒い。
リゼットは反射的に扉を開けた。
朝靄の向こうに立っていたのは、ひとりの男だった。
ノア・シルエル。宮廷魔法師。中性的な顔立ちが売り物みたいな男は、今朝に限っては売り物になっていなかった。
髪は乱れ、頬は青白い。
片腕はきつく吊られ、衣服の端に乾いた血。息が上がりすぎて、胸元が細かく震えている。
「……っ、リゼット殿……!」
彼は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
工房の中を覗く目が、すぐに理解してしまう。
いない。
もう、いない。
ノアの眉尻が情けないくらい下がった。
「……間に合い、ましたか」
その声が半分泣いている声だった。
泣き声にしたくなくて、丁寧な言い回しで誤魔化している。
リゼットは笑顔を作ろうとした。
作れなかった。作れたのは、口元だけだった。
「……間に合ってないわ」
言った途端、喉の奥が震えた。
震えは声に出さない。出したら負ける。
ノアは唇を噛み、首を下げた。吊った腕のせいで動きが不格好になる。普段なら絶対に見せない角度で頭を下げる。
「すみません……。追えたはずなのに。
いや、追ったんです。追ったけど――」
「説明は要らない」
リゼットは即答した。
冷たい言い方にしたのは、彼を責めないためだ。責めてしまったら、感情が動く。感情が動けば、涙が出る。
「あなたが生きて戻った。それでいい」
「……生きて、戻っただけです」
ノアが笑おうとして、笑えない。
彼は悔しさを握りつぶすように拳を握った。吊られた腕ではない方の手だけが、子どもみたいにぎゅっと固い。
「クローヴ殿に……顔を見せたかった」
その名前の言い方が少しだけ優しかった。
リゼットの胸の奥が、またちくりと刺さる。
「見せなくていい」
「いや、見せたいんです」
「頑固」
「宮廷魔法師は頑固なんです」
「嘘。あなたはただの寂しがり」
言ってから、リゼットは少しだけ後悔した。
余計なことを言った。
けれど、ノアはそこでふっと息を漏らした。
「……そうかもしれません」
認めるのが早い。早すぎる。
それがこの男の厄介な魅力だ。自分の弱さを、隠さないと決めた瞬間に強くなる。
ノアは工房の中へ一歩踏み込み、空になった空間を見回した。
ついさっきまで人がいた気配だけが残っている。温度が違う。机の端の湯飲みがまだ温かい。
「……朝、だったんですね」
「朝よ」
「旅立ちって、もっと――」
「感動的で、涙のひとつもあって、抱擁の二つくらいあって?」
「いえ、そこまで盛らなくていいんですけど」
ノアが苦笑する。
苦笑が今朝の彼にはまだ似合わない。涙の気配が混じる。
リゼットはわざと鼻で笑った。
「抱擁なんてしたら、クロウが逃げるわ」
「逃げますね、あの人は」
ノアの口元がほんの少しだけ上がった。
同時に、その上がった口元が震えた。
「……ああ、くそ」
ノアが小さく呟く。
口汚い言葉が彼には珍しい。余裕がない証拠だ。
「泣くの?」
リゼットが訊くと、ノアは首を振った。
「泣きません。……泣きたくは、ない」
「じゃあ、泣かない」
リゼットは淡々と言い、工房の奥にあった椅子を引いた。
「座りなさい。倒れたら、あなたの価値が下がる」
「価値って……」
「宮廷魔法師の価値は、“立ってること”よ」
ノアは言い返そうとしたが息が続かず、結局椅子に沈み込んだ。
座った瞬間、肩が落ちる。緊張だけで身体を支えていたのがよく分かる。
リゼットは水を出し、ノアの前に置いた。
その手がほんの少し震えている。震えを見せないように、彼女は水差しを置く時だけ視線を外した。
「……ありがとう」
ノアが言う。
その言葉の丁寧さが、今朝は妙に刺さる。
「礼はいらない」
「いります。言いたいから言います」
「頑固」
「宮廷魔法師は頑固なんです」
「はいはい」
やり取りが少しだけ軽くなる。
軽くなると、心の糸が切れそうになる。だから、リゼットは軽くしすぎない。
ノアは水を一口飲み、視線を落とした。
「……前室の中で、僕は……」
言いかけて、止める。
悔しさが喉に詰まっているのが見える。言えば崩れる。
リゼットはそれを察して、わざと雑に言った。
「言わなくていい。あなたが薄くなりかけたのは見てる」
「……見てたんですか」
「見てない。……分かるだけ」
リゼットは肩をすくめる。
天才の“勘”は、時々真実より早い。
「あなたはしぶとい。だから戻る。私はそう思ってた」
「思ってたって……」
「思ってた、で十分。現実はほら、戻ってきた」
リゼットの言い方は冷たい。
でもその冷たさの底に、ちゃんと安堵がある。ノアはそれを拾ったのか、少しだけ息が楽になった。
それでも、目は潤んだまま。
「……僕、見送りたかった」
ぽつり。
その一言が、今朝はいちばん重かった。
リゼットは一瞬だけ唇を噛んだ。
泣くな。泣くな。泣くな。
泣いたら、彼女は今日を動けなくなる。
「……なら、次は間に合いなさい」
絞り出すみたいに言う。
叱るようで、頼る言葉。
ノアが目を丸くした。
「次って」
「次は、あなたが取り戻される番じゃない」
リゼットは机の上を指先で叩いた。
乾いた音が工房の空気を“仕事”へ引き戻す。
「あなたが捕まって終わり? そんなの、つまらない」
「つまらない……」
「つまらない。私の計画が崩れる」
言い切ってから、リゼットは少しだけ顔を背けた。
本音はそこじゃない。
でも、そこじゃないと言うと泣く。だから言わない。
ノアは小さく笑った。
笑って、今度はちゃんと涙を引っ込めた。
「……相変わらず、ひどい励まし方ですね」
「褒め言葉でしょ」
「今朝に限っては、褒め言葉にしておきます」
リゼットは頷き、短く息を吐いた。
その息が、危うい震えを含んでいる。
ノアはその震えに気づき、声を落とした。
「……リゼット殿」
「なに」
「泣いていいですよ」
リゼットの肩がぴくりと動いた。
その言葉は危険だ。解ける。
「泣かない」
即答。
あまりに即答すぎて、逆に痛い。
ノアはやんわりと畳みかけた。
いつもの軽口で、重さを散らす。
「じゃあ……心拍だけ、泣かせておきます」
「心拍は泣かない」
「泣いてます」
「うるさい」
リゼットは睨んだ。
その睨みが、いつもより弱い。
弱いのに、ノアは笑った。笑って、少し安心した顔をした。
――この人は、崩れてない。
崩れてないから、次に動ける。
ノアは視線を上げ、工房の奥――空になった場所を一度だけ見て、そして現実へ戻るように言った。
「……クローヴ殿は、何か言ってましたか」
リゼットは一瞬だけ目を逸らした。
言った。ありがとう、と。
生きて待ってろ、と。
そんな言葉を彼はめったに言わない。めったに言わないから、彼女の胸に刺さって抜けない。
だから、少しだけ嘘を混ぜる。
「言ってない。あいつは基本、黙ってる」
「……そうですね」
ノアが苦笑する。
苦笑の奥にわずかな寂しさがある。
それを見て、リゼットはほんの少しだけ本当のことを足した。
「でも、戻るって言った」
「戻る……」
「ええ。戻る。必ず戻る。
だから――私たちはそのための道を、影で掃く」
その言い方でノアの目が変わった。
涙の目ではなく、宮廷魔法師の目。
戦う者の目。
「……影で、ですか」
「そう。表の旅はもう始まった。
裏で支えるのが、私たちの仕事」
リゼットは机の引き出しを開け、薄い革表紙の帳面を取り出した。
そこには雑多な走り書きと図形、名前、矢印。
そして、表紙の内側に小さく刻まれた文字。
――《アーク・プロトコル》。
ノアがそれを見て、息を吸った。
「……起動するんですね」
リゼットは頷いた。
頷くことで、自分を固める。
「起動する」
それからほんの一瞬だけ、声が柔らかくなる。
「あなたが来てくれてよかった」
ノアが目を見開く。
その驚きが少し滑稽で、リゼットは小さく笑いそうになった。
「……今、“ありがとう”って言いました?」
「言ってない」
「言いました」
「言ってない」
「言いました」
「……うるさい」
リゼットは帳面を閉じ、机の上に置いた。
ぱん、と乾いた音。
その音で涙が引っ込む。
引っ込んだ分だけ、覚悟が前へ出る。
リゼットは顔を上げた。
目は赤くない。声も震えていない。笑顔は薄いけれど、崩れていない。
「ノア」
「はい」
「立てる?」
ノアは吊った腕を少しだけ持ち上げ、苦笑してみせた。
「……立てます。宮廷魔法師の価値は、“立ってること”ですから」
「よろしい」
リゼットは頷き、扉の方へ視線を向ける。
朝靄の向こうへ消えた背中が、まだ胸の中に残っている。
残っているからこそ、動ける。
「――始めるわ」
その声は泣き声ではなかった。
祈りでもなかった。
仕事にかかる声だった。
けれど、その仕事の奥にだけ、誰にも見せない“いじらしさ”が確かに灯っていた。




