1-11 旅立ちの朝
夜明け前の白みは容赦がない。
窓の外が薄く色づくだけで工房の中の影は形を変え、ランプの炎は自分の弱さを誤魔化せなくなる。
リゼット・クロイは眠らなかった。
眠れなかった――ではなく、眠らなかった。そう選んだ顔をしていた。選ぶことで自分を支える癖は、彼女の天才性の裏にずっと張り付いている。
机の上はいつも以上に“戦場”だった。
歯車、針、銀のケース、薄い金属板、編まれかけた鎖帷子の輪、細い導線、刻印具、刻字針。
それらが乱雑に散らばっているようで、リゼットの指が触れた瞬間に必要な位置へ滑り込む。彼女の手は散らかしているのではなく、世界を最短で配置しているだけだった。
虚線の断片は机の中央に置かれている。
薄い黒い膜。光を吸い込むだけでなく、光の“意味”さえ吸い込むような不気味さを持つ。見つめ続けると、目の奥が痛む。耳の奥がむず痒くなる。言葉が勝手に生まれそうになる。
――返せ。
――持ち出すな。
アシュレイはそれを反芻しない。反芻しない代わりに式に落とした。
彼の紙の上には虚線の特性を示す仮定が並び、そこから導かれる“安全域”と“危険域”が分けられている。
《亜空懐中時計》は、三秒。
現実時間で三秒だけ、加速亜空間に滞在できる。
ただし、その三秒は“移動”のためではない。
それはこの夜の結論だった。
移動をしようとすれば虚線の領域で距離が歪み、戻る位置が保証されない。
ならば三秒は“検証”に使う。
視認、計測、確認、確定――そして戻って、理屈で殺す。
彼はそう定義し直した。
「……よし」
リゼットが短く呟いた。
刻字針で銀の内側へ虚線の断片を挟んだ“固定具”を押し込む。押し込むというより、ねじ込む。
金属が悲鳴のような音を立てた。
リュカは寝台の端に座って、その作業をじっと見ている。
眠ってもいい時間なのに眠らない。眠ったら何かが抜け落ちそうで怖いのだろう。彼女はその怖さを、見つめることで抑え込んでいた。
アシュレイはリゼットの横顔を盗み見た。
頬の血色は薄い。唇が乾いている。だが目は鋼のように光っている。
「……大丈夫か」
「大丈夫」
即答。
いつもの、嘘にならない嘘だ。
アシュレイはそれ以上言わない。言えば彼女は余計に無理をする。
代わりに机の隅に置いてあった湯飲みを滑らせ、彼女の手元に寄せる。
リゼットは湯飲みに触れ、少しだけ眉を動かした。
「……ありがとう」
珍しい言葉。
それだけで工房の空気が一度、柔らかくなる。
リュカが小さく咳払いをするみたいに、わざとらしく言った。
「くろいのおねーさん、いま、ありがとうって言った」
「言ったわよ」
「やさしい」
「元から優しい」
「うそ」
「もっと褒めなさい」
「……へんたい?」
リュカの返答に、アシュレイの口元がわずかに歪んだ。笑いそうになったのを抑える顔。
それを見てリゼットが目だけで笑う。
「あら、クロウ。あなた、笑えるじゃない」
「笑ってない」
「笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
同じやり取りが工房に小さなリズムを作る。
緊張を完全に解くほど軽くはない。だが、折れないための余白になる。
虚線の断片を挟んだ固定具がようやく収まった。
リゼットは銀のケースを閉じ、蓋を押さえ、指先で外縁をなぞる。
その動きが妙に祈りのように見えた。
――かちり。
小さな音が鳴った。
止まっていたはずの針が、ほんの一瞬だけ、確かに動いた。
アシュレイの呼吸が止まる。
「……動いた」
「ええ。動いた。――やっと、世界に噛みついた」
リゼットは疲労の滲む声で言い、次に喉の奥を鳴らすように笑った。
「世界に噛みつくって言い方、嫌い?」
「嫌いだ」
「でしょうね。でも、事実よ」
リゼットは《クロノス・レイテンシ》を掌に乗せ、軽く振る。
針は止まらない。一定のリズムで静かに進んでいる。
それだけで工房の空気が変わった。
“止まっていた時間”が、再び動き出したように感じる。
アシュレイは言葉を探し、結局、理屈に逃げた。
「……断片が固定された。これで、三秒の出入りが安定する」
「うん。安定する。……でも、代償もある」
リゼットの目が鋭くなる。
「亜空間に入るとき、あなたは“存在の輪郭”を太くする。
だから、体に負荷がかかる。鎖帷子が必須」
机の端に置かれた鎖帷子――《ミスリル・ヴェストメント》は、見た目もただの鎖の服ではない。
輪のひとつひとつに、ごく細い刻印がある。魔法文字ではない。虚線に似た“途切れの記述”。
まるで存在を補強するために輪郭線を何度も重ねているみたいだ。
「鎖帷子って、かっこいい」
リュカが言った。
「あなた、かわいいのに意外と物騒なもの好きね」
「だって、アシュレイ、よわいから」
リュカの率直な言葉が容赦なく刺さる。
アシュレイは眉をひそめるが、否定できない。
「……否定はしない」
「ほら、素直」
「素直じゃない」
「素直よ」
リゼットが横から楽しそうに言って、すぐに真顔へ戻る。
彼女の真顔は早い。天才は切り替えが速い。だからこそ、情の影も見える。
机の隅に置かれた鍵束が朝の光を受けて鈍く光った。
《カラクリ・キャリッジ》の鍵。
小さな歯車のチャームがついている。触れただけで内部の機構が応えるように微かに振動した。
「荷馬車も動くの?」
リュカが身を乗り出す。
「動く。蒸気と魔術の混合。――現地で壊しても直せるように、構造は単純にしたの」
「壊すの前提?」
「旅は壊れるものよ」
リゼットは淡々と言う。淡々としているのに、その言葉には“思い”が詰まっている。
アシュレイは机の上の三つを順番に見た。
《亜空懐中時計》。
《亜空耐性鎖帷子》。
《機械仕掛荷馬車》。
どれも、値段の話ではない。
時間の話だ。
彼女の膨大な時間と、彼の時間と、リュカの時間が、形になってここに並んでいる。
「……これだけの物、いくら払っても返しきれる気がしない」
思わず口に出た。
自分でも驚くほど、素直な声だった。
リゼットは一瞬だけ目を伏せ、それから軽く肩をすくめた。
「……そうでもないわよ」
「俺にできることか?」
問いは半分本気で、半分逃げだった。
彼女の覚悟の重さを受け取るのが怖い。受け取れば、彼も同じ重さを背負う必要がある。
リゼットはそこで、わざといつもの調子を作った。
唇の端を上げ、目を細め、軽口の形で刃を差し込む。
「クロウの子が欲しい」
工房の空気が一瞬で凍った。
次の瞬間、アシュレイが跳ねるように顔を上げる。
「!? おまえ、冗談が過ぎるぞ……! 俺の子まで被検体にする気か!」
「はは、まさか……ね」
リゼットは笑っている。笑っているのに、目が笑っていない。
冗談の皮を被せないと、言えない本音だった。
リュカが真顔で言う。
「くろいのおねーさん、ほんとにへんたい」
「褒め言葉ね」
「ちがう」
「ちがわない」
アシュレイが頭を抱えた。
「お前ら……今はそういう場面じゃないだろ……」
「そういう場面よ」
リゼットは即答し、アシュレイが言葉を失う。
リゼットはふっと息を吐き、冗談の仮面を少しだけ外す。
目がまっすぐアシュレイを射抜いた。
「……クロウ。私ね」
声が小さくなる。
「あなたが二十年諦めなかったから、ここまで来れた。
私は天才だけど、天才のままだったら、きっと途中で飽きてた。
でもあなたが、ずっと“諦めない”から――私も諦められなかった」
工房のランプがふっと揺れる。
風がないのに揺れる炎は、言葉の余韻を拾っているみたいだった。
アシュレイは喉の奥を鳴らし、言葉を探した。
感謝の言葉は彼の辞書では薄い。
代わりに出てきたのは、ひどく不器用な、命令みたいな約束だった。
「……生きて待ってろ」
リゼットの瞳がわずかに揺れる。
彼女は笑って、いつもの皮肉で返そうとして――できなかった。
「命令口調」
「嫌なら、別の言い方にする」
「嫌いじゃない」
小さな声。
その小ささが、逆に大きさを持つ。
リュカが二人の間に割って入るように言った。
「ぜったい、みんな、生きる。
アシュレイも、くろいのおねーさんも、のあも」
ノアの名前が出た瞬間、工房の空気が少し沈む。
不在が存在感として立ち上がる。
アシュレイは一度だけ目を閉じた。
「……ノアは必ず取り戻す」
それは誓いだった。
誓いが増えるほど背負うものは重くなる。
けれど今は軽い言葉で生き残れる状況ではない。
リゼットは頷き、机の上の《クロノス・レイテンシ》をそっと差し出した。
「持って。あなたのもの」
アシュレイが受け取る。
銀の冷たさが掌に刺さり、次に、その奥の熱が伝わってくる。
《ミスリル・ヴェストメント》も渡される。
鎖の輪が触れ合って、しゃらりと音を立てた。その音は不思議と落ち着く。確かに“ここにある”音だ。
最後に、《カラクリ・キャリッジ》の鍵。
「……行くのね」
リゼットが呟く。
言葉は平坦なのに、胸の奥が波打っているのが分かる。
アシュレイは頷いた。
「行く。……リュカの魂を取り戻す」
リュカはその言葉を聞いて、少しだけ眉をひそめた。
“元に戻す”と言われないことに最初は戸惑いがある。
でも今は、彼女は知っている。
戻らない。
今の自分が答えになる。
だから、取り戻すのは“過去”ではなく、“自分が生きるための欠けた部分”だ。
リュカは小さく頷いた。
「うん。いく」
アシュレイがリュカを見る。
その目が、いつもより少しだけ優しい。
「……怖いか」
「こわい。でも、いく。
だってわたし、ここにいるのすきになったから。
だから、もっとここにいたい」
その言葉は幼いのに強かった。
リゼットの唇がほんの少し震える。
彼女はそこで視線を逸らして、冗談に逃げた。
「……じゃあ旅先で、子作りは後回しね」
「だからそういう――」
「冗談よ。冗談。……半分」
「半分って言うな!」
リュカが真顔で追撃する。
「へんたい度、あがったね」
「褒め言葉ね」
「だからちがう……!」
アシュレイは頭を抱えながらも、心の奥で少しだけ救われていた。
重くなりすぎない。
それが彼らの生き方なのだと、今夜はよく分かる。
*
朝が来る。
工房の窓から薄い光が差し込み、床の木目を浮かび上がらせる。
旅支度はもう整っている。
アシュレイは《ミスリル・ヴェストメント》を着込み、上からいつもの外套を羽織った。
鎖帷子の重みは思ったより軽い。だが身に付けた瞬間、皮膚の外側にもう一枚の“輪郭”ができた気がした。
《クロノス》を胸の内ポケットに入れる。
そこにあるだけで、時間の感触が変わる。
進むべき時に、進める。戻るべき時に、戻れる――そんな錯覚が生まれる。
錯覚でもいい。
錯覚がなければ、踏み出せない夜もある。
リュカは旅装の小さな鞄を背負った。
見た目は幼いが、その目は旅人の目に近づいている。
「選ぶ」目だ。
リゼットは二人を見送る準備をしながらも、机の上の図面を片付けない。
片付けたら何かが終わってしまう気がするのだろう。
アシュレイが扉に手をかけ、振り返った。
「……リゼット」
「なに」
「……ありがとう」
言えた。
それだけで彼の胸の奥が少し痛む。
リゼットは目を細め、笑った。
「お礼は帰ってから。
――それと、クロウ」
「なんだ」
リゼットの声が、ごく小さくなる。
「……あなたが迷ったら、リュカを見て。
あなたが過去に戻りそうになったら、彼女の“今”を見て」
その言葉は魔道具より鋭かった。
アシュレイは頷く。
「分かった」
リュカがリゼットの前に立ち、少しだけ背伸びをする。
「くろいのおねーさん」
「なに、いい子ちゃん」
「……まってて」
それだけ言って、リュカは照れたように顔をそらした。
リゼットの目が一瞬だけ潤む。
「……うん。待ってる。
だから、ちゃんと生きて帰っておいで」
リュカは頷き、アシュレイの外套の裾を掴んだ。
扉が開く。
鈴が鳴る。
からん。
その音は旅立ちの音だった。
そして、帰還の約束の音でもあった。
アシュレイとリュカが工房を出る。
朝の空気が頬を撫で、遠くで《カラクリ・キャリッジ》の機構が小さく唸る。
リゼットは見送る。
笑って見送る。笑える顔で見送る。
彼の背中が角を曲がって見えなくなった瞬間――彼女の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
だが泣かない。
泣いてしまえば、次に動けなくなる。
机の上に残る虚線断片の“痕”が微かに脈打つ。
世界はまだ薄い場所と繋がっている。
これから先、もっと深い闇が来る。
リゼットは深く息を吸い、息を吐き、立ち上がった。
「……さて」
声はいつもの調子に戻っている。戻した。
「次は、ノアを取り戻す番ね」
そして彼女は工房の灯りを落とさないまま、外へ出る準備を始めた。
表の旅が、今始まった。
裏の戦いも――同じ朝に静かに始まりかけていた。




