1-10 夜明け前
城壁の影を越え、アシュレイとリゼットが工房へ近づく頃、東の空はほんの少しだけ色を変えていた。
夜明け前の薄い青。世界が、また“普通”の顔をし始める時間。
工房の前まで来た瞬間、アシュレイは息を吐いた。
鈴は鳴っていない。扉は閉まっている。
――帰る場所は、まだある。
鍵を回す指が、ほんのわずか震えた。
それをごまかすように、彼は扉を押し開ける。
からん。
鈴が鳴る。
その音を聞いた瞬間、工房の中から小さな影が跳ねた。
「アシュレイ!」
リュカが、寝台から飛び降りて駆け寄る。
途中で足を止め、リゼットを見て、目を丸くした。
「くろいのおねーさん……!?」
リゼットは笑おうとして、うまく笑えなかった。
けれど、リュカの頭に手を置く動きだけは、驚くほど優しかった。
「……いい子。待ってたのね」
「待ってた! ずっと……」
リュカの声が震える。
その震えは、怖さだけじゃない。安堵が混じっている。
アシュレイは、工房の匂いを深く吸った。
油。紙。金属。ランプの熱。
――そして、微かに整えられた空気。
見れば分かる。
灯りが強い。寝台の布が整っている。工具がまとめられている。
リュカがやった。
ひとりで。
喉の奥に何かが詰まる。
アシュレイはそれを飲み込み、短く言った。
「……よくやった」
リュカの顔がぱっと明るくなる。
それだけで、胸の奥の冷えが少し溶けた気がした。
だが、現実は甘くない。
アシュレイはリゼットを椅子に座らせ、傷の状態を確認する。
ノアは戻っていない。
その不在が、工房の空気に一本の棘を残している。
「ノアは?」
リュカが小さく聞いた。
アシュレイは一瞬だけ言葉を探し、正直に言った。
「……まだだ。置いてきた」
リュカの胸がきゅっと痛むのが、表情で分かった。
置いていく痛み。今夜の彼女は、それを初めて他人のために感じている。
リゼットがかすれた声で付け足す。
「大丈夫よ。……あいつ、しぶといから」
根拠があるようでない言い方。
けれど、彼女が言うと少しだけ信じられてしまうのが腹立たしい。
アシュレイは掌を開き、虚線の断片を机上に置いた。
薄膜がランプの光を吸い込むように黒く揺れる。
リゼットの瞳が一瞬で“研究者”の色になった。
「……持ち帰ったのね」
「約束した」
「偉い」
リゼットは微かに笑い、すぐに真顔へ戻った。
「これがあれば、完成する。
あなたの《亜空懐中時計》も、《亜空耐性鎖帷子》も、《機械仕掛け荷馬車》も――“あの線に負けない”形に」
アシュレイは頷く。
ここから先の旅はただの救出ではない。
リュカの魂を取り戻す旅。
そして、世界の側から伸びる虚線と向き合う旅。
その最初の一歩が、今夜の机の上に乗っている。
リュカは断片を見つめ、そっと呟いた。
「……これが、こわいやつ?」
「そうだ」
アシュレイが答えると、リュカは小さく頷いた。
「でも、アシュレイが持って帰ってきた」
その言葉が、妙に強かった。
強さは武術だけじゃない。彼女は今、言葉で自分を支え始めている。
リゼットが机の端を指で叩く。
「徹夜する。あなたは寝て――って言っても寝ない顔ね」
「寝ない」
「でしょうね」
彼女は苦笑して、少しだけ声を落とした。
「……クロウ。あの前室で、あなたが持ち帰ったのは断片だけじゃない。
“扉の手触り”よ。覚えてるなら、忘れないで。次は、もっと深い」
アシュレイは短く頷いた。
忘れない。忘れたら死ぬ。
そして忘れない。
帰ってきた時、工房が少しだけ整っていたことも。
灯りが強かったことも。
待っていた小さな背中のことも。
それらは、彼を人間に繋ぎとめる。
ランプの炎が、ふっと揺れた。
風はない。窓も閉まっている。
それでも炎だけが、まるで何かに応えるように揺れた。
アシュレイはその揺れを見て、胸の奥に小さな違和感を抱く。
――今夜、世界は薄い場所と繋がった。
その余韻が、工房にまで届いているのかもしれない。
リゼットは虚線の断片に手を伸ばし、そっと、指先で触れた。
「……さあ。完成させる」
その声には、研究者の熱と、ひどく個人的な祈りが混じっていた。
外では夜がほどけ、朝が始まりかけている。
工房の中では、二十年越しの“次の扉”が、静かに組み上がろうとしていた。
*
工房の夜はひどく長かった。
外の闇が濃いほど、室内の灯りは“島”になる。魔導灯の炎が揺れるたび、机の縁も、工具の影も、紙束の白さも、同じ場所にあるのに少しずつ形を変える。まるで、世界の輪郭そのものが、息をしているみたいに。
アシュレイは虚線の断片を机上に置いたまま、しばらく動けずにいた。
指先に残る感触が、まだ消えない。薄い膜を剥がした時の、世界の皮膚を削ぐような痛み――あれは魔術ではなく、“世界の側”を直接触った感触だった。
触ってはいけないものに触った。
だが触らなければ、救えない。
矛盾が胸に刺さるまま、彼は息を吐いた。
――徹夜する。
リゼットが言ったのは、命令ではなく宣言だった。
いつもの白衣のまま、裂けた袖を雑に結び直し、机の上を片付け、工具を並べ直す。そこだけ見れば、攫われた直後とは思えないほど冷静だ。
――けれど、指先だけが少し震えている。
震えは隠せる。
彼女は天才だ。隠し方も知っている。
それでも、隠しきれないものがあるとしたら、今夜はそれが“想い”の方だった。
「クロウ」
呼び方が、普段の「アーク」と違った。
その差が、アシュレイの胸をひっかく。
「あなた、線を剥いだ時の“手触り”、覚えてる?」
「覚えてる」
「なら、それを言葉にして」
「……言葉に?」
「そう。理術科首席の出番よ。私は見た。でも、あなたは触った」
リゼットは虚線断片の上に小さな拡大鏡を置き、魔導灯の光を角度で調整する。断片が、光を吸い込むように黒く揺れ、縁だけが薄い青に滲んだ。
アシュレイは黙って机に向かい、紙を引き寄せた。
彼の手は魔術を撃てない代わりに、記述の速度だけは異様に速い。
「……引っ張られた。皮膚じゃなく、観測が。触れた瞬間、世界が“そこにある”と断言するのを嫌がった」
「うん」
「距離が遅れた。音が半拍遅れた。……存在が、薄くなる」
リゼットが頷き、ペン先で図を描き始める。
魔法文字ではない。記号でもない。線と、虚線と、空白。――「世界の縫い目」を記述するための独自の書き方。
「これ、縫合ね」
「縫合?」
「世界のログを引っ張って縫い直す。だから“虚線”。実線にすると破れる。虚線なら“観測の隙”を通れる」
アシュレイは思わず眉をひそめた。
「……そんなものを、教団は使っているのか」
「使ってるというより、信仰の産物よ。あいつら、魔術で世界を制御するんじゃない。世界に“お願い”してる。お願いの仕方が、最悪に上手い」
皮肉っぽく言って、リゼットは小さく咳き込んだ。
血が滲むのを見て、リュカが一歩前へ出る。
「くろいのおねーさん……だいじょうぶ?」
子どもみたいな声。けれど、今夜のそれはからかいじゃない。
「大丈夫。……大丈夫って言うと、クロウが怖い顔するから、半分だけ大丈夫」
「半分……」
「半分は、あなたがいるから」
リゼットはリュカの頭に手を置いて、すぐに離した。
触れていられる間柄ではない、という自制が見えた。自制しているからこそ、余計に胸に残る。
リュカは手をぎゅっと握りしめる。
胸の奥が時々“すう”と抜ける感覚があるのに、今はそれよりも、目の前の人の顔色が気になる。
アシュレイが短く言った。
「休め。リゼット。傷がある」
「休んでる場合じゃない。……線を持ち帰ったの、今夜だけがチャンスなのよ」
「チャンス?」
「切り取られた断片は、世界の側が“回収”しようとする。放置すれば薄くなって消える。だから今、固定して……組み込む」
言い終えた瞬間、リゼットの瞳が鋭くなった。
研究者の目。天才の目。――そして、祈りの目。
「クロウ。あなたの《クロノス・レイテンシ》、設計の根っこを変える。
“加速亜空間”に入るんじゃない。入る前に、あなたの身体を世界に縫い付けてから入る」
「縫い付ける?」
「そう。……亜空間は速い。でも速い場所ほど、薄い線に噛まれる。
だから鎖帷子は、物理防御のついでじゃない。あなたの存在を太くする“錨”になる」
アシュレイは紙の上に式を書き、頷く。
「……理屈は通る。存在が薄くなるなら、輪郭を太くすればいい」
「そう、あなたはいつだって理屈で救える」
リゼットは笑った。
笑って、目を逸らした。
その一瞬の仕草に、アシュレイは気づく。
――彼女は、まだ恐れている。恐れているのは線ではない。自分がまた“届かなかった”と証明されることだ。
工房の隅でリュカが小さく動く。
椅子を引き寄せ、棚に登ろうとして、届かなくて、むっとする。
「……なにしてる」
アシュレイが言うと、リュカはふてくされた顔で答えた。
「おちゃ。おちゃ、いれる」
「無理するな」
「むりじゃない。わたし、できる。……できるほうが、すき」
言い方が妙に強かった。
そして、アシュレイは気づく。リュカの頬の色が、さっきよりほんの少しだけ良い。
彼女は“選ぶ”と薄くなりにくい。胸の抜ける感覚も弱い。
それが偶然でないとしたら――答えはひとつ。
魂は欠けを埋めることよりも、輪郭を作ることを求めている。
リュカは背伸びをして茶葉缶を取ろうとし、転びそうになって、アシュレイが片手で支えた。
その瞬間、リュカの胸が小さく跳ねる。
「……っ」
「どうした」
「……だいじょうぶ。いま、ちょっと、ここにいるって思った」
アシュレイの指が一瞬だけ止まる。
今夜、彼が恐れている言葉を、彼女は簡単に言ってのける。
ここにいる。
その当たり前が、奇跡になりかけている。
リゼットが視線だけでそれを拾い、声を落とした。
「……ほらね。あなたの言葉と行動が、彼女を繋いでる」
アシュレイは答えない。
答えたら、何かが溢れる気がした。
*
時間は魔導灯の炎の減り方でしか分からなかった。
リゼットは机にかじりつき、虚線断片を薄い金属板に挟み込み、固定術式を刻む。
その刻み方は、魔法文字の彫刻ではない。蒸気圧で刃を震わせ、刻むというより“押し込む”。そこへ、彼女の魔力が絡みつき、線を逃がさない。
アシュレイは横で、理論を書き、条件を書き、最短の安全域を組み立てる。
「三秒」しか現実に干渉しないなら、その三秒を最大化するのは移動ではなく検証だ。
彼は《亜空懐中時計》を戦闘用の切り札ではなく、“答えに届くための道具”として定義し直す。
――自分の弱さを、道具の強さに変える。
その思考の最中、ふとノアの顔が浮かんだ。
前室で膝をついた横顔。しぶとい、と言われた声。
置いてきたという事実が、胃の底を掴む。
だが、今夜、ここで迷ってはだめだ。
迷えばリュカが消える。
迷えばリゼットの徹夜が無駄になる。
迷えばノアの犠牲も無駄になる。
それが“正しい”順番だと、理屈が告げる。
それでも胸は、理屈だけでは動かない。
アシュレイは机の端に小さな紙片を置いた。
そこに短く書く。
――ノア。生きて戻れ。借りは返す。
借り、という言い方は冷たい。
でも彼は感謝の言葉の出し方を知らない。知らないまま、ここまで来てしまった。
リュカが湯を沸かし、少し濃い茶を淹れて持ってきた。
運び方が危なっかしい。だが、こぼさない。
彼女は自分で選んだことに、誇りを持っている。
「……はい」
リュカがリゼットに差し出す。
「ありがとう、いい子」
リゼットは受け取り、ほんの一口だけ飲んだ。
その一口で、喉の震えが少し止まる。
そして、アシュレイにも差し出す。
「アシュレイも」
「……ありがとう」
礼を言うと、リュカが少しだけ目を丸くした。
褒められるより、礼を言われる方が嬉しいのかもしれない。
リュカは寝台の端に座り、膝を抱える。
胸の抜ける感覚が戻ってこないわけじゃない。
でも、いまは“灯り”がある。人がいる。言葉がある。
だから、薄くなりにくい。
その事実が、救いであり、同時に恐怖でもあった。
人がいなくなったら?
灯りが消えたら?
言葉が途切れたら?
――また、抜ける。
リュカは唇を噛み、無理やり笑う。
「ねえ、くろいのおねーさん」
「なに」
「ほんとに、これ、できる?」
リゼットは視線を上げ、まっすぐに言った。
「できる。……できなかったら、あなたを置いて死ぬ」
「それ、だめ」
リュカが即答する。
リゼットは一瞬だけ目を細めた。
「……置いて死ぬのは、だめ?」
「だめ。みんな、いっしょ」
その子どもじみた言い方が妙に胸に刺さる。
アシュレイは茶を飲み干し、静かに言った。
「……そのために、旅に出る」
言葉にした途端、決意が輪郭を得る。
彼はもう、工房の中だけで守る男ではない。守るために外へ出る男になる。
リゼットは机の上の部品を指で弾き、乾いた音を立てた。
「なら、間に合わせる。夜明けまでに」
「無茶だ」
「無茶は得意」
彼女は笑って、指先で虚線断片の固定具を締め直した。
その指先はまだ震えている。震えを隠す気はもうないのかもしれない。隠せないだけかもしれない。
工房の灯りが、ふっと揺れた。
風はない。
それでも揺れたのは、外の薄い場所がまだ世界の裏で呻いているからか。
あるいは――この工房が、もう“ただの工房”ではなくなりつつあるからか。
東の窓が、ごく薄く白む。
夜明けは容赦なく来る。
ノアの不在も、教団の影も、リュカの揺らぎも、持ったまま朝になる。
それでも、アシュレイは思う。
戻る理由がある。
待っている者がいる。
そしていま、ここには――明日を作れる者たちがいる。
だから、進める。
リゼットが静かに呟いた。
「……クロウ。次は、あなたが彼女を連れて行くのね」
「連れて行く。守る」
「うん。……守って」
その最後の一言だけが、ひどく個人的だった。
研究者ではない、天才でもない、一人の女としての声。
アシュレイは頷いた。
頷くだけで精一杯だった。
机の上で、組みかけの懐中時計の歯車が微かに――ほんの、ほんの一瞬だけ動いた気がした。
まだ、完成していない。
けれど確かに、“時間”がこちらを向いた。
夜明けまで、あと少し。
本話もお読みいただきありがとうございます!
いよいよ本作の最重要キーアイテムである、主人公の固有アイテム《亜空懐中時計》が、天才技師リゼット・クロイの手によって完成されます……!
クロノス・レイテンシは、「現実世界の3秒間だけ亜空間に転移できる」という能力を備えています(亜空間での体感時間は現実世界の1秒で約10分!)。
しかし、亜空間での肉体的な負荷は凄まじく、生身の人間が現実での一秒でも耐えることは困難だとされています。そこでリゼットは亜空間での耐久を想定した《亜空耐性鎖帷子》を開発しました。非戦闘員のアシュレイが物理攻撃にも耐えられるようにとの願いが鎖帷子の形となっています。
クロノス・レイテンシが導く亜空間は、リュカのエーテル体を奪った”深律教団”が扱う”虚線”とはまた違った方法で世界の「観測の隙」を通ります。アシュレイは非戦闘員であることを自覚しているため、そのわずかな隙を「検証時間」として扱うことになります……!
果たして、魔術よりも巧妙に世界に干渉する術を持った教団に、彼はどう立ち向かっていくのでしょうか。
どうか、今後の彼らの活躍をご期待ください!!!




