1-9 “選ぶ”ということ
廃墟の外気は思ったより生々しかった。
土の湿り、金属の錆、遠くの蒸気管が吐く微熱――世界が“硬い”という感覚が、肺の奥まで入り込んでくる。
アシュレイは膝をつき、掌の中の“薄膜”を握り直した。
黒く透ける断片。虚線の、ひとかけら。
触れているだけで指先が冷える。冷えるのに、燃えるように痛い。矛盾した感触が、これが魔術ではなく、世界の側を削いだものだと告げていた。
「……持ち出せた」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
背後の闇――前室の入口は、まだそこにあるのに、どこか“見ないふり”をしているようにも見える。観測が揺れている。薄い場所は強く見つめるほどこちらを引きずろうとする。
だから、振り返りたくなる衝動を抑え込む。
振り返っても、ノアを今すぐ引き戻せるわけじゃない。
隣で、リゼットが咳き込み、白衣の袖で口元を拭った。血が滲む。だが、彼女は笑おうとする。
「……最悪の夜。なのに、成果は最高」
「喋るな」
「喋らないと、死んだみたいになるでしょ」
その強がりの言い方が、妙に痛かった。
彼女は常に生き急ぐ。天才の癖に、命を雑に扱う。そうしてきたのは、二十年前から変わらない。
アシュレイは立ち上がり、彼女の腕を支えた。
「歩けるか」
「歩ける。……あなたの手、思ったより優しい」
「余計なことを言うな」
「はいはい。クロウ、照れてる」
ここで突っ込む余裕はなかった。
けれど、彼女がいつもの調子を残していることに、救われる。救われている自分が腹立たしい。
闇の入口から、鈴の余韻が小さく漏れた。
割れた鈴。意味を作ろうとする音。
耳の奥に残る“気配”だけで、思考がざらつく。
――持ち出すな。返せ。
さっき聞こえた言葉を、アシュレイはわざと反芻しない。
理解すれば、線に噛まれる。今はただ、足を前へ運ぶ。
ノアの姿は、もう見えない。
見えないのに、背中の皮膚が、まだ“見られている”と錯覚する。
アシュレイは歯を食いしばった。
「工房へ戻る」
「……ノアは?」
リゼットの声が、少しだけ真面目になった。
「今は戻れない。戻れば、こっちも薄くなる」
「正解」
リゼットは小さく頷く。
彼女の“正解”は冷たい。だが、その冷たさは現場では必要だ。
「ノアは死なない。あれはしぶとい。……それに」
「それに?」
「薄い場所は、“すぐに殺さない”。すぐ殺したら、使えないから」
その言い方で、アシュレイの胃がひやりとした。
使えないから。
つまり、ノアは“材料”として掴まれた可能性がある。
焦りが胸を噛む。
それでも、今は結論を変えない。
「戻って体勢を整える。……そして奪い返す」
口にした瞬間、言葉が誓いに変わる音がした。
誓いは自分を縛るが、同時に折れない柱にもなる。
*
その頃――工房。
リュカは寝台の端に座ったまま、扉を見ていた。
アシュレイが出て行った時の鈴の音が、まだ耳の奥で残響している。残響だけが、妙に長い。
胸の奥が、時々“すう”と抜ける。
自分が薄くなる感覚。
それは痛みというより、冷えだ。心臓の位置から、風が吹き抜けるみたいに。
「……こわい」
声に出すと、余計にこわくなる。
だから普段なら、からかって誤魔化すのに――今日は誰もいない。
誰もいない。
それが、いちばん怖かった。
リュカは視線を落とし、寝台の布を握りしめた。
きゅっと握ると、布の感触が返ってくる。返ってくるというだけで、少し安心する。
アシュレイが言った言葉を思い出す。
――お前がここにいてくれないと、俺は戻れない。
「……帰る場所」
小さく呟く。
その言葉の意味を、まだ全部は理解できない。
けれど、“自分がここにいること”が、誰かの帰り道になるのなら。
リュカはゆっくりと立ち上がった。
床板が小さく鳴る。
その音が、今夜の工房で唯一の“生きた音”だった。
まず、魔導灯を見た。炎が少し弱い。油の匂いが薄い。
背伸びをして、油差しを棚から引き寄せる。両手で抱えて、慎重に注ぐ。
「こぼしたら、アシュレイ怒る」
怒る顔を想像して、少しだけ笑いそうになって――すぐ、喉の奥が詰まる。
怒ってもいいから、帰ってきてほしい。
芯を整えると、炎がふっと強く灯った。
工房が少しだけ明るくなる。明るいだけで、怖さが薄れる。
「……できた」
誰に褒められたわけでもない。
でも“できた”という事実が、胸の抜ける感覚をほんの少しだけ埋めた。
次に、寝台の布を整える。
しわを伸ばして、角を揃える。アシュレイの癖を思い出しながら、同じように。
工具台の上の紙束がずれていた。
触らない方がいいと分かっている。けれど、落ちそうなのは怖い。
端だけ、そっと揃え直す。
小さな行動を積み重ねるたび、胸の“抜け”は少しずつ軽くなる。
まるで、ここにいることを世界に証明するみたいに。
リュカは気づく。
自分が薄くなるのは、じっとしている時ほど強い。
何かを“選ぶ”時ほど、少しだけ、ここに留まれる。
それが偶然かどうか――まだ分からない。
でも、分からなくても、今はこれが答えだった。
「……待つ。守る」
小さく言って、リュカは扉に視線を戻した。
鈴が鳴るまで。
鳴ったら、ちゃんと“おかえり”と言うまで。
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