プロローグ - 虚線の夜、引き裂かれた魂 -
アルケディア王立魔術学院の石畳は、夜になると冷たさを増す。
昼の喧騒が嘘みたいに引き、残るのは講義棟の尖塔に絡みつく風の音と、巡回灯の淡い揺らぎだけだった。
閉門間際――いや、すでに「間際」を越えている。
校門の方向から、規則正しい足音が遠のいていく。見回りの教官が帰路についた合図だ。
アシュレイ・クローヴは、抱えたノートの重みを腕で受け直した。
理術科の課題は、いつだって紙束になる。魔術実技は壊滅的でも、理屈の積み上げだけは裏切らない。
だから彼は、紙束に救われていた。
「ねーえ、アシュレイ」
横を歩く少女が、わざとらしく背伸びして顔を覗き込む。
淡い金髪をきっちり結びつつ、制服の襟元を乱したまま、笑っている。
ルカ――ルカ・アーシェルカ。
学院で、最も「人の時間を奪うのが上手い」同級生だった。
「……何だ」
「さっきの補修さあ、あれ絶対、先生の趣味だよね。字が細かすぎて呪い」
「お前が課題を放置するからだ」
「放置じゃないよ。未来に預けたの」
「預け先が破綻してる」
「ひどい!」
ルカはむっと頬を膨らませた。
その横顔は、明るい。うるさいくらいに明るい。
アシュレイにとって、その明るさは苛立ち半分、救い半分だった。
彼女は泣きつく。
テストはいつも及第点の下を彷徨い、宿題は期限をすり抜け、提出物は行方不明になる。
なのに、いざ追い詰められると、決まってアシュレイの机に現れる。
そして、笑うのだ。
『お願い、天才アシュレイさま!』なんて、からかうように。
……その笑いが、彼を救っていた。
彼は人との距離を取るのが上手い。距離を取ることで、自分が壊れないようにしていた。
けれどルカだけは、距離を取らせてくれない。放っておいてくれない。
校門の外、城下町へ繋がる坂道に出る。
夜の町は蒸気管の吐息が白く漂い、遠くの工房街から金属を叩く音が薄く聞こえた。
灯りはあるのに、影は濃い。人通りの減った路地ほど、夜が深い顔をする。
ルカは大げさに肩をすくめた。
「はー……補修終わったし、明日から真面目に生きる!」
「今日からやれ」
「今日からだと寝れなくて死ぬ!」
「睡眠は大事だが、提出も大事だ」
「アシュレイってほんと、理屈の妖怪だね」
「妖怪じゃない」
「じゃあ理屈の王子」
「やめろ」
小さな口論が夜の空気を少しだけ軽くする。
アシュレイはそれで良かった。軽いまま寮に戻って、いつもの日常に戻れるはずだった。
――そのはずだった。
路地の向こうから、足音がひとつ、近づいてきた。
最初は気配だけだった。
次に匂いが来た。香料ではない、血でもない。甘いのに冷たい匂い。
エーテル濃度が偏るときの、喉の奥に張りつく匂い。
そして、影が形になる。
深紅のローブ。
赤い下地に、複雑な金の幾何学模様――魔法文字にも見える、けれど魔法文字ではない“読めない装飾”が、布全体に刻まれている。
女だった。背は高く、顔は半分ほど影に隠れている。
だが、視線だけはまっすぐにこちらを見ていた。
ルカが一歩、アシュレイの前に出ようとする。
「……誰」
「下がれ」
アシュレイは反射的に言った。
魔術実技が弱いくせに、こういうときの判断だけは早い。弱いからこそ、危険に敏感だ。
女は立ち止まらない。
歩く。音もなく距離を縮めてくる。
近づくほど空気が薄くなる。
薄くなるのに、重くなる。言葉にならない圧が胸を押す。
女がアシュレイの耳元へ顔を寄せた。
「――あなたは、切り取られてしまうわ」
囁きは熱を持っていなかった。
感情がないのに、確信だけがある声。
アシュレイの心臓が跳ねる。
問い返そうとした瞬間、女はルカへ視線を移した。
「――あなたは、まだ“余白”がある」
ルカが息を呑む。
その瞬間、路地の灯りが一段だけ暗くなった気がした。
アシュレイが振り返る。
振り返ったはずなのに、女の姿がない。
音もない。足音もない。ローブの端すら見えない。
「……っ、どこに――」
言いかけて、アシュレイの背中が凍る。
隣にいたはずのルカが、いない。
「ルカ?」
名を呼ぶ。返事がない。
さっきまでの笑い声が、路地からごっそり消えている。
代わりに、空中に“裂け目”が残っていた。
糸のようなものが、揺れている。
光でも煙でもない。エーテルの残滓――魂の外皮だけが、引き裂かれたまま空間に縫い留められている。
それは一本の線ではなかった。
途切れ途切れの、虚線。切れては繋がり、繋がっては切れている。
まるで、存在のコードが途中で断ち切られたように。
「……冗談、だろ」
アシュレイの喉が勝手に音を立てた。
否定の言葉は口から出ない。出せない。出したら現実になる。
虚線がかすかに震えた。
そこに、ルカの「輪郭」だけが残っている。肉体はない。魂の大半もない。
残っているのは――引き裂かれた端切れみたいなエーテル体だけ。
アシュレイは走った。
考えるより先に足が動いた。
学院へ戻る道を逆走する。
石畳で足が滑る。息が切れる。肺が痛い。痛いのに止まれない。
彼の理屈で救える状況ではない。
だから彼は、理屈で救える人間のところへ走る。
――リゼット。
同学年の天才。器工科の問題児。
人の魂を移し替える研究にのめり込み、倫理の縁を指でつついて笑う女。
危ない。近づきたくない。けれど今は、彼女しかいない。
寮の廊下を駆け抜ける。
深夜の静けさを壊す足音に、いくつかの部屋の灯りが揺れた。誰かが扉を少し開ける気配。
アシュレイは気にしない。気にしていたら、ルカの虚線が消える。
最奥の一室。
そこだけ、灯りがまだ生きていた。窓には布がかけられ、隙間から青白い光が漏れている。
金属の匂い。油の匂い。紙の匂い。――そして、得体の知れない甘さ。
アシュレイは扉を叩く。いや、叩くというより殴った。
「リゼット! 開けろ!」
内側から椅子が軋む音。
鍵が外れる音。扉が開く。
「……うるさいわね、理術科首席。今、ちょうど良いところ――」
リゼット・クロイは白衣姿だった。寝間着の上に白衣を羽織り、髪は雑にまとめ、目だけが異様に冴えている。
寝床兼研究室の一室は、机と工具と魔導具と謎の瓶で埋まっていた。
彼女はアシュレイの顔を見て、眉を動かす。
「……その顔、冗談じゃないわね」
「ルカが……」
言葉が詰まる。
詰まった隙間から、彼は虚線の残骸を両腕で抱えるように差し出した。
空気の中に揺れる、引き裂かれたエーテル体。
虚線が、淡い光のように見えるのに、触れると冷たい。
リゼットの瞳孔が、わずかに開いた。
恐怖ではない。飢えだ。
「……生のエーテル体」
呟きが、嬉しそうで、同時に怖かった。
「助けろ!」
アシュレイが叫ぶ。
叫びは情けなく、必死で、幼い。
リゼットは一瞬だけ口元を歪めた。
「助ける、ね。言い方が可愛い」
「黙れ!」
「はいはい。――時間がない」
リゼットは笑みを消し、机の上の工具を蹴散らすように空間を作った。
棚の下から、未完成の機械人形を引きずり出す。
身長は小さい。子ども用のサイズ。顔の造形は途中で、目はガラス玉みたいに空虚。肢体は金属の骨格だけが露出し、胸部の核には簡易の魔導炉がはめ込まれている。
「有り合わせのオートマタよ。元々、感情核の実験用」
「そんなものに――」
「黙って。あなたは理屈で叫ぶ係。私は手を動かす係」
きつい言い方。
けれど、今はそれが救いだった。リゼットが現実の手を動かしてくれる。
彼女は床に魔法陣を描き始める。
魔法文字ではない。幾何学でもない。線の重なりと、途切れの配置。
虚線に似た記述。世界の縫い目を真似るための、危うい設計。
アシュレイは息を呑んだ。
「それは……」
「魂固定術の試作。あなたの言うところの“理屈”に近い形でね」
「……そんな術、いつの間に」
「あなたがルカの宿題をやってる間に」
「今それを言うな!」
――ツッコミが口から出た。
出た瞬間、アシュレイは自分に腹が立った。こんなときに――
でも、その一言で呼吸が戻る。呼吸が戻らないと、目の前の虚線が消える。
リゼットは手を止めない。
「エーテル体の残滓は、もう薄い。これ、あと数分で散る。散ったら終わりよ」
「終わりにするな」
「する気はない。だからやる」
彼女はアシュレイの方を見ずに言った。
見ずに言えるのは、やると決めているからだ。
「そこ、持って。虚線の端を――あ、触り方が下手。理屈の王子、指が震えてる」
「震えてない!」
「震えてる」
「……震えてる」
「素直ね」
リゼットは短く笑い、すぐに真顔へ戻る。
「いい。震えてても持って。持ってる間だけ、彼女は“ここにいる”」
アシュレイは虚線の端を両手で支えた。
触れると、冷たい。冷たいのに、そこに確かに温度がある。ルカの残り香みたいな温度。
その温度が、指の間から逃げようとしている。
「ルカ……」
名前を呼ぶ。返事はない。
返事の代わりに、虚線がわずかに震えた。
リゼットはオートマタの胸部を開き、核の周囲に細い導線を這わせる。導線の先端に、刻印具で“途切れ”を彫る。
途切れは欠陥ではない。受け皿だ。欠けた魂が流れ込むための溝。
「魂は、器に収まるものじゃない。収まるように“言い聞かせる”もの」
リゼットの声が低い。
彼女は世界へ言い聞かせる。現実へ命令する。天才の傲慢さで。
「――来なさい」
彼女が囁く。
アシュレイが支える虚線が、ぴん、と張った。
まるで見えない糸が引かれたみたいに、引き裂かれたエーテル体が、オートマタの胸へ吸い込まれていく。
吸い込まれるというより、縫い付けられる。途切れを縫い、途切れを繋ぎ、繋いではまた途切れを残す。
不完全なまま、固定する。
オートマタの身体が微かに震えた。
魔導炉が一拍遅れて脈打つ。
リゼットは歯を食いしばる。額に汗。指先が血で赤くなる。刻印具が指を裂いたのだろう。
それでも止めない。止めれば、虚線が散る。
「……ッ、固定!」
リゼットが最後の符を打ち込む。
空気が、ぱん、と弾けた。
灯りが一瞬だけ消え、次の瞬間、部屋全体が淡い青に染まった。
静寂。
アシュレイの耳の奥で、血の音だけが鳴っていた。
やがて――
オートマタの指が、ほんの少しだけ動いた。
金属の関節が、ぎこちなく折れる。
次に、胸の奥から、かすかな“息”のような音。
目が、開いた。
ガラス玉みたいだった瞳が色を持つ。薄い琥珀色。
それは確かに、ルカの目だった。
「……あれ」
声が出た。
幼い声。さっきまで路地で笑っていた声より、少しだけ幼い。
「……ア、シュ……?」
名前の途中で切れる。
虚線のままの呼び方。
アシュレイの喉が震え、言葉にならない声が漏れた。
「ルカ……」
その瞬間、足が崩れた。
膝が床につく。息が乱れる。彼は泣きそうになって、歯を食いしばった。
リゼットは疲労でふらつきながらも、勝ち誇ったみたいに言った。
「……成功。とりあえず、ね」
「とりあえず?」
「とりあえず。魂の“大半”は奪われてる。これは残りを仮固定しただけ。つまり――彼女は不完全なまま生きてる」
不完全。
その言葉が今は刃だった。
それでも、アシュレイは立ち上がれない。立ち上がれないまま、目の前の小さな身体を見つめる。
ルカの視線が揺れる。
何かを探している。何かを思い出せないまま、ここにいる。
リゼットが小さく付け足した。
「……でも、消えるよりはいい。今は」
今は。
今は、彼女がここにいる。
アシュレイは震える指で、オートマタの頬に触れた。
金属の冷たさ。なのに、その奥に微かな熱がある。
彼はそこで初めて、さっきの路地で“終わったはずの夜”が、別の形で続いていることを理解した。
ルカ――いや、機械人形の身体に縫い留められた“ルカ”は、ゆっくり瞬きをした。
「……ねえ」
幼い声が言う。
「ここ、どこ?」
アシュレイは答えようとして、答えられなかった。
答えた瞬間、長く続く地獄が始まる気がしたから。
リゼットが代わりに言う。声は妙に優しい。
「寮よ。……あなたは、私の部屋にいる」
「あなた、だれ?」
「リゼット。リゼット・クロイ」
「……りぜっと」
名前が口に出る。
それだけでリゼットの瞳が一瞬、揺れた。飢えではない揺れ。
アシュレイはようやく言葉を拾った。
「……ルカ。大丈夫だ。俺が――」
“俺が守る”と言いかけて、喉が詰まる。
守れるのか。守るとは何だ。相手は世界の側を引き裂く女だ。深紅の幾何学模様のローブの女だ。
彼の理屈は、あの時だけは役に立たなかった。
それでも彼は、言い切った。
「……俺が、ここにいる」
ルカは首を傾げた。
その仕草が以前より少し幼い。魂が欠けた分だけ、輪郭が縮んだみたいに。
「……アシュ、レイ?」
呼べた。
途切れ途切れでも、呼べた。
アシュレイの胸が、焼けるように痛む。
リゼットはその痛みを見て、わざと冷たい声を作る。
「泣くなら外で泣きなさい。床が濡れる」
「今それを言うか!」
思わずツッコミが出る。
出てしまった。
けれどその瞬間、空気がほんの少しだけ軽くなった。
リゼットは肩をすくめる。
「だって、私の寝床よ。研究所兼寝床。衛生は大事」
「……最悪だ」
「最悪で結構。最悪じゃなきゃ、彼女は今ここにいない」
その言葉だけは真実だった。
夜明け前の光が窓の隙間から差し込む。
薄い青が、機械人形の頬を照らす。
ルカはその光を見て、目を細め、そして小さく笑った。
それが、二十年の始まりだった。
誰にも言えない二十年。
失われたものを取り戻すための二十年。
そして、取り戻せないものと向き合う二十年。
深紅のローブの女――レドラの影は、まだ遠くで笑っている。
虚線はいまもどこかで途切れ、繋がり、世界の縫い目に潜んでいる。
アシュレイはその虚線の先に、いつか必ず手を伸ばすことになる――
こんばんは!臂りきです!
『虚線のエーテルコード - 灰の工房と眠らない魂 -』始まって参りました!
長編です!この先も読んでくださる方はご了承ください!
完結までは、できる限り毎日夜18:00~21:00くらいの時間に投稿していきます!!!
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