Ep8 過去からの遺物
管理塔の中間階層には、一切の立ち入りが禁止されている場所があった。フロアごと無視するように階段が作られており、専用エレベーターでしか入ることができない。そのエレベーターもまた、管理長官である青崎の個人セキュリティカードがなければ動かないという徹底ぶりである。
管理塔でツムギが青崎に通されたのは、そのエレベーターであった。
「これから見せる物は、お前には過ぎた物だ」
青崎は隣に立つツムギに前置きし、目的の階でエレベーターのドアが開く。薄っすらとした寒色の灯りは、フロア全体をぼんやりと照らしていた。
「ここにリセットが保管してある」
何でもないことのように、青崎は口にした。
「……っぅえぇっ!」
青崎の言葉は想像を絶するもので、悲鳴混じりにのどを潰したツムギの身体が跳ねた。一瞬だけ青崎が何と言ったのか脳が理解を拒否したが、その言葉がゆっくりと浸透し、ツムギの目は大きく開かれる。
「こ、ここに! リセットが!」
「そうだ」
そこはまるで、一階層丸ごと倉庫に使ったような空間だった。高い天井と、広すぎる床。ツムギが目を凝らせば、それはすぐに目についた。
アレがそうなのだ、と見てすぐにツムギは察する。金属光沢に輝くソレは、圧倒的な存在感と共に保管されていた。
「これは……」
思わず身震いしたツムギは、青崎に視線を送る。
「そうだ。ここにある物が、お前たちがリセットと呼ぶものだ」
「これが、リセット……」
ツムギは震える脚を動かして、ソレに近づく。
「もっとも、現在は機能を停止している。触れても構わない」
「……」
そっと触れる。金属の冷たさが手のひらに伝わった。
「あの、これは……」
何かを言いかけ、しかし次の言葉をツムギは飲み込んだ。
「そう。世間一般で語られる与太話ではない。これが正真正銘のリセットだ。お前にはそのリセットを起動してもらう」
「起動? ……機能が停止しているって言いましたよね。それはどういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ。電力や燃料が不足しているのではなく、故障や破損している訳でもない。起動できない状態にある」
「それは……私よりも、メカニック怪人みたいなヒトを呼んだ方が良いのでは?」
「当然試した。だが結局、誰もが同じ壁に当たる」
青崎はソレのすぐ側にあるモニター端末に触れる。青い画面が発光し、白い枠線だけが表示された。
「パスワードだ」
「……」
端末に備え付けてあるキーボードを指した青崎は、淡々と言葉を続ける。
「数字、漢字、ひらがな、アルファベット、アラビア文字、ビルマ文字、デーヴァナーガリー。その他様々な言語を入力可能なパスワードで、文字数の上限と下限が設定されていない。このパスワードを突破しない限り、リセットを使用することが出来ない状態にある」
ツムギには何となく話の先が読めていた。だがあえて、何のことかわからないと言った表情を作って肩をすくめて見せる。
「それこそ、プログラマー怪人みたいなヒトを探した方が良いのでは?」
「つまらない問答に付き合うつもりはない。怪人如きが思いつくことを試さない僕じゃない。あらゆる技術者による解析と分析を行ったが、リセットは起動していない。お前に期待していることはわかるな?」
青崎はツムギを見下ろして言う。
「このパスワードは、はじまりの怪人によって設定されたものだ。この管理塔に保管されている全ての資料の閲覧を許可する。その異常な好奇心で調べ、はじまりの怪人が設定しそうなパスワードを推測しろ」
「……もし私が、それを断ったら?」
「断る? 出来もしないことを」
青崎は鼻で笑う。
「好奇怪人が、動かぬリセットを前に我慢など出来る訳がない。黙っていてもパスワードの解明に尽力するだろう。僕がこの部屋とコレを見せたのは、それが理由でもある」
それから、と青崎は続ける。
「パスワードを解明するとヒト回路に約束してもらおう。怪人など、いつその心が変わるか信用できない。他に好奇心を惹くものがあった、などという理由で途中放棄は許さない。約束しろ」
ツムギは目の前にあるソレを上から下まで眺め、それからモニター端末に視線を送る。しばし考えて、頷いた。
「そういう、ことですか……」
「どういうことかは知らないが、話をはぐらかすなよ?」
「いいえ。良いでしょう。約束しますよ」
ツムギはゆったりと口角を上げ、はっきりと約束を口にした。
「全資料の閲覧を許可するなら、コレを動かすためのパスワードを探してあげます」
「よろしい」
ぽん、と青崎が手を打った。これで決まり、という意味だろう。ツムギは胸の内にある違和感、そして直感に対し、思考を巡らせた。
果たして、本当にコレがリセットなのだろうか、と。
見てすぐにわかる事として、恐らくコレはリセットである条件を満たしている。怪人地区を破壊する力と、恐らく怪人にしか扱えないだろうこと。そしてこんな物は、人類領域に運び込むなど絶対に出来ないだろう。
「リセットが使われれば、みんな死ぬ」
怪仁会のシスター、アカバネが言った言葉を思い出す。彼女の言葉から、管理塔に保管されているのではないかと予想した。まさにその通り、コレは管理塔で厳重に保管されていた。そしてこれがあれば、凄惨な殺戮が起きるだろう。
あるいはクロキがコレを手にしたならば、大喜びで管理塔や区壁を破壊しただろう。それだけのことが出来る代物だった。普通に考えて、リセットで間違いない。
だから、とツムギは自ら否定する。
だからこそ、コレは本当にリセットなのだろうか。
コレをはじまりの怪人とその仲間たちが作ったのは間違いないだろう。しかし彼らが、コレをリセットと名付けるだろうか。彼らが希望を託したリセットとは、もっと別の形をしているのではないだろうか。
ツムギは青崎に見えない角度で、ほくそ笑んだ。
見つけたリセットを最初に使わせる。クロキと約束を交わした理由は、リセットがどんな形をしているか何となく予想していたからだ。だからそんな約束が出来たのだ。
そして青崎と交わした約束とは、コレを動かすこと。リセットを起動させることではなく、あくまでコレの起動を約束したに過ぎない。
あの黒づくめの勝負怪人が勝負を諦めてさえいなければ、自分との約束を果たしに来たのなら。そうすれば、きっと悪いことにはならない。
ツムギはぐっと拳を握る。その様子を視界の端に捉えた青崎は、その真意を汲み取ることなく口を開く。
「さて。好奇心を滾らせるのは結構だが、その恰好で塔内を歩き回られては迷惑だ。せめて見苦しくない服装と、清潔な状態に整えてもらおう。いくら怪人でも衛生観念は持ち合わせているはずだ」
「ふーむ」
エレベーターに乗り込みつつ、ツムギに乗るよう促す青崎。それに対し、腕を組んだツムギは小首を傾げた。
「何がおかしい」
「なぁーんとなく、わかってきましたよ」
「驚いたな。現物を見れば多少何かの参考に、と思って見せたものの……。この短時間でパスワードの予想がついたのか?」
「んえ? あぁ違います。そういうことじゃなくて」
ツムギは青崎をじろじろと見て、頷いた。
「実はあなたって、怪人に対しては悪態や罵倒をセットにしないと話せないでしょう。何かのこだわりですか? 自分は怪人とは違うー! みたいな」
「……」
「意外とこっち側も楽しいもんですよ? もし人類と怪人を選び直せるとしても、私はまたこっち側になります」
「……」
青崎は心底不快そうに眉間を寄せ、深く皺を作った。それを指でほぐしながら、ツムギを見もせずに応える。
「えらく饒舌だな。どうやら、まだ正義執行について解除していないことを失念しているらしい。お前など、いつでも……」
「あ、無理ですよ」
「……なに?」
ツムギは意地の悪そうな表情をわざとらしく作ってみせた。
「だって、ここまで見せて、約束までして、今さら私を殺すなんて。そんなのやる訳がありません。それに怪人でもないあなたはヒト回路に縛られているので、私に暴力を使う事も出来ません。あなたの機嫌がちょっとやそっと悪くなろうと、ぜーんぜん平気です。こんなのクロキさんじゃなくても、私だってわかります」
「貴様……!」
ツムギは心の片隅に、クロキの不敵な笑みを思い出す。連れて来られた時は、自身を生かす理由が不明だったため迂闊な言動を取らないよう注意し、それに恐怖すらしていた。だがその全貌が明かされた以上、もはや恐れることはない。あの男ならば、ここでにやりと笑って見せるに決まっている。
やることは決まった。やる環境も整った。なら怪人は怪人らしく、それだけに全身も全霊も注力するだけ。青崎に気を使ってやる余裕などないのだ。
「さ、それじゃあ早速新しい服を下さい。そっちから言い出したんですから、ついでに靴も欲しいですね。それからメモを取るノートとペンも下さい。まさか資料の閲覧を許可しただけで、必要な道具類は支給しないなんてケチな話はありませんよね?」
エレベーターが下層へと到着すると、そこには来客用の個室が用意されている。
「なるべくオシャレで可愛い服にして下さい」
調子に乗ったツムギがそこまで言うと、青崎がぎろりと鋭く睨む。
「塔内に華美な婦人服などない。女性職員用の制服が限度だ」
それは青崎が、精いっぱいの怒りを抑え込んで言っていると伝わるに充分な口調だった。
だが、全資料の閲覧許可という宝石を前にしたツムギにとって、それはあまりにどうでも良いことである。着替えろと言うから着替えてやるのであって、今すぐにでも資料室に飛んで行きたいのだ。我慢しているのはこっちの方だ、とまで思えてならない。
「華美な婦人服はない? いやいや……。あなたは休日をどう過ごしているんですか? そうじゃなくてもフォーマルなドレスがないと、公的な場所に行くのに困るはずです。……あーそれとも、ヒトに服は貸したくないとか? まぁ……それ以前に怪人に服を貸すタイプじゃなさそうですね……」
やれやれ、と首を振る。そもそも身長や体格が違うのだが、そこまで考えて言ってはいない。素敵な服を用意してくれないことへの、単なる悪態のつもりだった。
だが返ってきたのは意外な一言である。
「何か勘違いしているようだな……。一つだけ訂正しておく」
「はて?」
「僕は男だ」
「……ん?」
ツムギは青崎の顔を覗き込むように見つめ、その整った中性的な顔が思いっきり不快そうに歪むのを見た。
区壁内部で、音が響いた。
もう何度目か、拳を壁に叩きつける。打撃音はコンクリートに吸い込まれ、鈍い音は痛みと共に右手へ広がった。
「俺の敗因はなんだ。何故俺は負けた」
歩きながら、クロキは憑りつかれたように呟き続ける。
「俺に落ち度はなかった。最善手だった。……本当にそうだったか? もっと良い手があっただろう。……否、前情報のない状態では他に手段など……」
クロキは生まれて初めての経験に苦悶していた。敗北そのものは何度も経験している。勝負に勝敗はあって当然で、勝ちも負けも等しく愛していた。負けたことが問題ではない。
負けた理由がわからない。それはクロキが初めて受ける衝撃だった。
「そもそも、どんな手を使っても勝てなかったのか? 最初から勝負になっていなかったと?」
もし敗北に理由がないとしたら、それしか説明ができない。だがクロキはそんなことを認める訳には行かなかった。
「だがあいつに勝ち、リス子を取り戻さねばリセットを得られない。リセットを諦める? そんなこと、できる訳がない。ようやく掴んだ逆転の糸口だぞ」
二年前、正義執行を言い渡されたその日。それよりもずっと昔から、その胸に宿った焦燥と怒りは今もクロキを焼いている。
変わらない日々を変えねばならない。何者かに成らねばならない。自らの強さと意思、能力を証明しなければならない。
幼い頃からクロキを苛んでいたのは、自己評価という言葉だった。
自らの持つ、どの能力も信じることが出来なかった記憶は今も心のどこかに置いてある。自分というものが何なのかわからず、常に根拠のない不安が纏わりついていた。
故にクロキは勝負を求めた。
他者との比較による優劣は、何よりも安心できた。
優れていたならそれで良い。何が劣っているのかわかるなら、それもまた良し。どんな結果であれ、一つ勝負をこなす度に自分というものが確定していく。勝つ度に自分を信じられる。負ける度に強くなれる。
クロキにとって勝負とは、不安定な世界に自分を定着させる、たった一つの方法であった。
勝負に臨む姿勢で、相手の人格がわかる。戦い方で、自身の在り方を表明できる。相互理解の一助にもなるそれは、世界になくてはならない概念だった。
故に、クロキは勝負を諦められない。
今までどれだけ、勝負をしようとして拒絶されただろうか。
「弱者であり続けること、戦わないこと。それ自体は罪ではない。勝負を忌避するならば、好きなだけ逃げれば良い」
どれだけ世界に憤りをぶつけ、空に中指を突き付けただろう。
「ただそうして逃げた者が。得られなかっただの、認められなかっただの。そんな文句を言うなど筋が通るものか。それが通るなら、世界の方が間違っている」
しかし世界はクロキを許容しなかった。
「何故! 戦おうとしない奴が守られる! 擁護される! 保護される! そいつらは弱者という言葉を盾にしている! 弱い己を正当化し、自らを庇護されるべき弱者であろうとする、卑怯者だ!」
クロキの叫びも考えも、世界には到底受け入れられるものではなかった。
だから怪人地区に連行されたその日、自分を取り囲む役人が名誉人類だと知って失望したのだ。
「お前ら……。怪人になるほどの想いが、信念があったんじゃないのか? それを曲げて、人類に成り下がって、そんな無様な……。ここならばせめて己に誠実に生きるヒトがいると、そう期待したと言うのに……!」
元怪人ならば抵抗して見せろ! そう激昂したクロキは、その場にいた全員に勝負を仕掛け、昏倒させた。
ヒトは生きる限り、戦い続けねばならない。この曖昧な世界で、自己を定義するには勝負するしかない。
だからこそ。ヒトが最もその能力を発揮し、真価を問われるのは一人の時だ。誰かの力を自分の力に勘定する事は出来ないし、他者に依存した能力など数えるに値しない。そしてその自負こそが、己の力を最大限に活用できる。
クロキの考えは揺るがない。
そしてその日はやって来る。ツムギと名乗る少女がもたらしたリセットという可能性に出会い、クロキは頭の奥がじんわりと痺れるような感覚を味わっていた。
リセットにまつわる歴史に興味はなかったが、腹の底から湧き上がった何かが胸に到達し、どくんと跳ねた鼓動が笑みに変わる。
それがあれば、俺の変わらない日々を変えられる。俺は何者かに成れる。俺の全てを証明し、肯定できる。
リセットがあれば、あの巨大な管理塔を吹き飛ばせる。生まれた時から敵だった、世界を相手に勝負ができる。
不安定な自分自身を、ようやくはっきりと定義できる。
「リセットは、俺がもらう。俺が、俺を俺と呼ぶために、俺だけの力で……」
クロキは勝負を、リセットを、決して諦めることができない。
「必ず敗因があったはずだ……。敗因さえわかれば、次こそ……」
何度考えても、これと言った理由を見つけられないまま。クロキは壁の中から怪人地区へと戻った。
壁に切り取られた空が、澱んだ空気に蓋をするようだった。灰色の厚い雲が一面に見え、クロキは空を見ないように視線を下げた。
靴の先が、敗北を踏みしめた。