5話 口約束
足元に転がる小さな死体をじっと見下ろした。
潰れた頭蓋、捻れた肢体。薄緑色の皮膚に、土や血がこびりついている。
生きたまま潰した。相手は言葉を話し、武器を持ち、明らかに知性を持っていた。
だが、恐怖も後悔も、悲しさすらも湧かない。感情は、深く奥底で閉ざされているままだ。
視線を左腕に向ける。肘から手首にかけて、腫れ上がり、皮膚の一部は青紫に変色していた。骨が折れたのか、内側で鈍い痛みが確かにある。
痛みはある。でも、それを感じている自分を感じていない。
私は左腕をゆっくりと動かしてみた。指先まで問題なく動く。痛みを無視して動くことができるのだ。
これが“感情制御”の力。
苦痛も恐怖も、心を乱す感情も、まるで別の世界のもののように遠ざけられている。
それは同時に、己の心をも遠ざけてしまうことなのかもしれない。
辺りが静まり返ると、微かな呼吸音が耳に入った。
その音を辿るように視線を向けると、御影が呆然としていた。
彼女は立ち尽くしていた。
全身の力が抜けたように、わずかに前かがみになって。
その目は目の前の惨劇をまだ理解しきれずにいる。何かを考えているようで、何も考えていない。
深く、浅く、不規則な呼吸を繰り返すその肩が、ただ小さく上下していた。
私が一歩踏み出しても、御影は反応しない。
まるで、その場に置き去りにされた壊れかけの人形のようだった。
「御影」
私は静かに名を呼んだ。
近づき、右手をそっと彼女の肩に添える。
その瞬間、御影の体がびくりと揺れた。
揺れる瞳が私を捉える。
怯えきった顔だった。
戦いは終わった。けれどそれが安寧の理由になる訳では無い。今後、同じことは幾度となく起きるのだ。
「治療薬、取ってくれ。左手を痛めた」
なるべく平静に、明確に、命令として言葉を投げる。
考える隙を与えず、今すべきことだけを与えるために。
「ご、ごめん……!」
御影はそう言うと、慌てて荷物に手を伸ばした。
薬瓶を取り出し、そこから治療薬を布に染み込ませる。
慎重に、丁寧に…だが、動きはちぐはぐだった。焦りと恐怖が、指先を揺らしている。
それでも彼女は止まらない。
私の左腕に布を巻きつけ、薬をなじませていく。
手つきはぎこちなくても、その意志は真っ直ぐだった。
「返り血を拭きたい、残りの布を川で濡らして来てくれ」
そう告げると、御影はうんと小声でうなずき、布切れを手に立ち上がった。
足元をふらつかせながらも、言葉に従い、小走りで川の方へと向かっていく。
背を見送る間、私はその場に腰を下ろした。
どういう仕組みかは分からないが、左腕の腫れが引きはじめ、痛みもゆっくりと和らいでいく。
使った記憶こそないが、治療薬とは凄いものだ。
その経過を観察しながら、私はさっきの光景を思い返した。
棍棒を振りかぶった小人の姿。
動きは単純だったが、それでも私は反応しきれずに直撃を受けるしかなかった。
もし相手がもっと速かったら、もっと強かったら、今ここにはいなかっただろう。
簡単にはいかない。
能力が良くても私が戦うのに向いていない。
それが、たった一戦でよく理解できた。
川の方から足音が近づいてくる。振り返ると、御影が布を手に戻ってきた。濡れた布はぽたぽたと水を滴らせている。
「そのまま血を拭いてくれ」
そう言って腕を差し出すと、彼女はこくりと小さくうなずいた。
その手が、そっと私の右腕に触れる。
水を含んだ布が血に触れ、ぬるりと滑った。
震える指先で、腕を、肩を、そして顔を拭いていく。
御影の顔は強張っていて、目はまだ怯えを宿していた。
それでも、逃げずに手を動かしている。
私は黙ってそれを受け入れた。
ただ、目を伏せて、布の感触を追う。
御影がぽつりとつぶやいた。
震える声は、押し殺そうとしても滲み出た感情に逆らえず、音になって漏れた。
「私と同じ境遇なのに……私よりこんなに細い腕なのに……」
言葉の途中で、喉が詰まり、呼吸が震えた。
「私の方が、戦うべきだったのに……」
「私の方が、戦う力を持ってるのに……っ」
言い終えた瞬間、堰を切ったように、涙がボロボロとこぼれた。
ぽたぽたと地面に落ちて、濡れた布とは別の音を立てた。
彼女の手はまだ私の顔を拭っていたが、指先が止まり、布が指先からこぼれ、かすかに震えたまま動かなくなった。
その目は伏せられ、血と泥に濡れた私の頬を見ていない。
感情の波に飲まれて、ただ、涙を零していた。
「確かに、御影が戦えば、楽に勝てた。私も怪我をしなかった。でも御影は動けなかった」
静かに、はっきりと告げる。
御影は泣きながらも、私の言葉に耳を傾けていた。
「なら私が動く。私が戦う。私が殺す」
それが、いま必要なことだから。選べないなら、私が選ぶ。
「私が御影を助ける。だから、御影は私を助けろ」
「私が死にそうなとき、殺されそうなとき……その時は、私を救ってくれ」
取引ではない。命令でもない。
これはただの約束。いつか、戦えるようになったときのための。
御影は、私の言葉を聞いて、泣き続けた。
謝りながら、震えながら、ただ涙を零し続ける。
私はそれを慰めもしなかった。
無理に言葉をかけることも、肩を抱くこともしない。
胸を貸すでもなく、ただそこにいて、待ち続けた。
この涙が止まるまで。
彼女がまた、顔を上げるそのときまで。
私は何も言わず、そこにいた。
慰めも、急かしも、しない。ただ、彼女が立ち上がるのを待つ。
やがて御影が、涙に濡れた目を伏せたまま、息を深く吸い込んだ。
そのまま、自分の頬を左右同時に、ぴしゃんと音を立てて叩く。
乾いた音が森の静寂を破った。
彼女は顔を上げ、赤くなった頬のままで私を見た。
「うん…分かった。」
目元もまだ赤い。でも、その瞳の奥には、さっきまでとは違う色が灯っていた。
「私がナイを助ける。ちゃんと、ちゃんと動けるようになるから……だから……」
言いかけて、唇を噛み締める。
それでも、視線は逸らさず、まっすぐに私を見つめていた。
「あぁ、期待してるよ、御影。」
表情は変えないまま、御影に必要な言葉だけを投げかけた。
気づけば、森を包む光が夕暮れに変わりつつあった。
朱に染まる木々の影が長くのび、空気もゆっくりと冷えはじめている。
今日はここで夜を明かすしかないだろう。
私の顔を見た御影が、ふと困ったような顔をして立ち上がった。
拭ききれなかった汚れを気にしているのだろう。御影はまた川へと走っていった。
私はその背を見送り、ゆっくりと腰を上げた。
視線の先には、潰れた小さな骸が2つ転がっている。
このまま放置しておくのは良くない。
私は足で転がしながら、小人の死体を一箇所に集めはじめた。
焼いてしまおう、虫が群がるのは良くない、他の獣が来るかもしれない。御影に死体を見せ続けるのも良くないだろう。
そんな事をしてると御影が川からこちらに走ってくる
「ナイ、顔拭くよ。」
御影が濡れた布を持って、私の顔をじっと見つめる。
「もう顔だけなら自分で拭わっぷ」
私は軽く顔をそらすが、サキは引き下がらない。
「良いから良いから、これくらいやらせて」
彼女は私の顔を半ば強引に拭く、顔こそ見えないが小さな決意がその声に宿っているのが分かった。
顔を拭いてもらったり、火を起こしたり、気付けば周りは夕暮れすら飲み込み、夜になった。
焚き火を囲みながら、私たちはそれぞれの出自について静かに思いを馳せた。
御影は『チキュウ』という世界から突然ここに来たと言い、そこには先程の小人のような存在はいなかったという。
私は自分の記憶がなく、チキュウのこともよく分からないままだった。
異なる世界から来た私たちは、夜の闇の中でそれぞれの過去と向き合っていた。
夜も深まり、ふと見るとサキは座ったまま眠っていた。
今日の出来事が壮絶すぎて、仕方のないことだ。そっと毛布をかけてやる。
一方、自分は眠気はあるものの、意識は微睡まなかった。
もしかすると、感情制御が完全にかかっているせいで、睡魔すら寄せ付けないのかもしれない。
とはいえ、痛みと同じように欲求は確かに存在している。
無理を続ければ体を壊してしまうだろう。
街に入ったら、ちゃんと眠ると心に決めた。
そう思いながら、時間は過ぎていき、いつの間にか夜が明けていた。
そっと肩に手を添え、軽く揺らす。
ゆっくりとまぶたが開き、ぼんやりとした目がこちらを捉えた。
「おはよう」
私は一声だけそう言うと立ち上がり、弱くなった火を消す。
「あれ……私、いつの間に……」
ぼんやりと目をこすりながら、サキが呟く。
「軽く朝食を取ったら出るぞ」
私は簡潔に返し、2人でこの世界の2日目を始めた。