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異人殺し  作者: あんこ
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1話

目を覚ましたとき、天井は低く、ひび割れたコンクリートが頭上に広がっていた。空気は乾いていて、埃っぽい。崩れかけた棚や剥がれた壁紙が、ここがかつて誰かの生活の場だったことをかすかに物語っていた。だが、自分がなぜここにいるのか、その記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。


《おはようございます、ご気分はいかがですか?》


声がした。

誰かの呼びかけのようでいて、どこか遠く、濁った水越しに響くような音だった。


体を起こし、きしむ骨と鈍い頭痛に耐えながら声の方へと振り向く。そこにあったのは、人ではなかった。


部屋の隅、崩れかけた壁の前に、ひび割れた女神像のようなものが立っていた。かつては白かったであろう石膏の表面は灰色にくすみ、顔の半分は欠けている。けれど、残された瞳は確かに、こちらを見ていた。


《良かったです、てっきり死んでいるのかと。》

「……あなたも、生きてるようには見えないけど。」

《こちらは依代のような物ですからね。良かったら近くで見てみます?》


ゆっくりと、両手で体の埃を払う。服の繊維に染み込んだ砂の粒がざらりと音を立て、床に落ちた。足元はふらついたが、壁に手をついてなんとか立ち上がる。


女神像は微動だにせず、ただそこにあった。

けれど、その視線の先に立たされているような妙な圧を感じる。


足を引きずるように一歩、また一歩と近づく。距離が縮まるたびに、像のひびや傷の細部が目に入ってくる。裂け目に入り込んだ影が、どこか生き物のようにも見えた。


なぜだろう。触れてはならない気がした。それでも、何かに引かれるように、手が自然と伸びていった。


《貴女にお願いがあるのです。》


指が女神像に触れる前に、ピタッと止まる。


《異人を、殺して欲しいのです。》


その響きに、胸の奥が冷たくなった。

異人。聞いたことのない単語だった。人なのか、そうでないのか。その言葉には、説明しがたい異質さと、ぞわりとした嫌悪感がまとわりついていた。


誰だ、それは。

問いかけようとして、声にならなかった。考えようとすればするほど、頭の奥が霞んでいく。


けれど、確かに「知っている気がする」。それが、何より怖かった。


《異人。それはこの世界に属さぬ者たちの総称です。元の世界では普通の人間だった者も、こちらに来れば異能を発現します。彼らはこの世界の人間より優れた面もあり、同時に制御不能でもあります。脅威とみなすべき存在です。》


口を開く前に、女神像の声が再び頭の中に流れ込んできた。


その瞬間、私は息を呑んだ。

まるで考えを読まれたかのような、鋭く冷たい感覚が背筋を走る。


誰にも、何も聞かれていないはずなのに。

それなのに、この像は……


「勝手に話を進めないで。異人だろうと人だろうと、殺す理由がない。」


声は自分でも驚くほど落ち着いていた。感情を抑えているわけでも、強がっているわけでもない。ただ、言葉が自然とそう出た。


けれど本当のところ、自分は“殺さない人間”なのかどうかさえわからなかった。

記憶が曖昧な今、自分の過去にどんな選択があったのか、それすら確信できない。


それでも、誰かを殺せと言われて即座に頷くほど、心は鈍っていなかった。

むしろその命令の無感情さに、どこか寒気すら覚えた。


《理由なら、あります。》


女神像の声は淡々としていた。まるで、当然のことを告げるかのように。


《第一に、この世界の成長速度が歪められました。

本来ならば数百年、数千年を要すべき進化が、異人たちの知識と技術によって強引に進められ、秩序は乱れています。》


《第二に、その技術は敵にも渡りました。

魔王側の勢力が異人由来の武器や術式を手にし、結果として最も苦しんでいるのは、この世界に生きる無垢な民です。》


《そして第三に、異人は強く、賢く、ゆえに傲慢です。

異世界から来たというだけで、選ばれし者のような顔をし、好き勝手に力を振るう者も少なくありません。

……個人的には、気に入りません。》


わずかに声が湿ったように聞こえたのは、気のせいだったのか。


《要するに、

異人はこの世界における、外来種です。

我々の手で制御できぬのなら――駆除するしかないでしょう。》


私は黙って女神像の言葉を受け止めていた。

情報が多すぎるわけではない。ただ、重すぎた。


異人はこの世界にとって異物であり、秩序を乱す存在。

だから、消したい。

要するに――困っているのだ、この世界は。

その排除の役目を、私に託そうとしている。


けれど、それが当然のように語られたことに、どこか不穏なものを感じた。


私はわずかに目を伏せ、考えをまとめる。

そして、短く息を吐いたあと、再び像へ視線を向ける。


「話は分かった。……でも私には、人を殺す力がない。」


事実だった。思い出せないだけかもしれない。だが今の私には、誰かを害する手段も、覚悟もない。


その言葉に、女神像がどう応えるのか――私はじっと沈黙したまま、その声を待った。


《貴女にはその力があります。何せ貴女は異人ですから。》


即答だった。間も、迷いもなかった。


私は小さく息を吐いた。溜息というよりは、呆れにも近い。


やっぱり、そう来る。

じゃなければ、わざわざ私なんかにこんな話を持ちかけたりはしない。

異人を駆除したい? なら、同じ異人にやらせれば都合がいい。

毒を持って毒を制す――実に、理にかなってる。


目の前の像に苛立ちはなかった。ただ、少しだけ胸の奥が冷えた。


記憶もない。力の実感もない。

でも、私はこの世界にとって「そういう存在」なのだと、今確かに刻まれた気がした。


「だとしても、記憶のない私が世界を救う義理も、異人を殺す理由も無い。」


その言葉に、女神像はすぐさま返してきた。


《ならば、こうしましょう。》


声は穏やかだったが、やはりどこか冷たかった。


《異人を一人殺すごとに、貴女の記憶を一部返します。

力も、過去も、存在の意味も……すべては、戦うことで取り戻されるのです。》


一瞬の間を置いて、声の調子がわずかに変わる。


《ただし、それができないというのなら……他の異人に、同じ役目を頼むだけです。

そのとき、貴女が“対象”になる可能性もあるでしょう。》


静かな、けれど確実な脅しだった。


私は目を伏せ、小さく息を吐いた。二度目の、重たい溜息だった。

選択肢は提示された。だが、その実態はただの一択だ。


つまり、もう逃げ道はない。

すでに私は、「誰かに選ばれた存在」なのだ。


すべて、最初から決まっていたのかもしれない。

目覚めた場所も、像との出会いも、言葉のやり取りも。


私はただ、一つの一本道を歩かされていただけだ。

それに気づいた瞬間、胸の奥に微かな怒りが芽生えた。けれど、それすらもう、意味がないように思えた。


記憶を取り戻すには、異人を討たなければならない。

できなければ、誰かが私を殺す。


その選択肢のどちらにも、救いのようなものはなかった。

ただ、事実と重さだけがあった。


「……分かった。やるしかないんでしょ。」


言葉に力はなかった。覚悟というより、諦めに近い。

けれど、それでも私は、受け入れるしかなかった。


少なくとも、自分が何者なのかを知るために。


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