日本が沈没へと向かう日2
教室はがらんどうとしていた。
生徒数はまばらだ。
休憩時間以外は皆暗いようだ。
武は席につく。
その隣の席に麻生が座ると、ちょうど担任の先生の本堂先生が教室へと入ってきた。
授業は意外にも厳しい。
数式が難解過ぎて、武と麻生以外は何度も先生へ質問をしていた。
ここは進学校の中でもトップクラスの精鋭教師が揃うところ。
また、例外もある高取と湯築は黙々と教科書と黒板を目で往復し、ノートにひたすら書き込んでいた。
二人とも、麻生への対抗意識と武への憧れがあるようだ。
皆、女子は狙っているのだろう。
武を……。
余談だが、本堂先生は茶道部の顧問でもあって、茶道部にも時々顔を出す麻生にとっては師範のような存在なのだろう。
黒板に向けられる麻生の目も何やら厳しいようだ。
日舞から三味線まで、母親からの厳しい稽古を受けている麻生は、こういう時には、鬼気迫る。穏やかな性格だが環境的に作られてしまった。麻生のもう一つの顔だ。
「麻生。悪いが今日も部活は休め。先生も実は学校へ通うのが大変なんだ……。でも、雨が止むことを祈っているよ。それと、勿論、麻生だけじゃなく。君たちの努力が実ることを先生は心の底から祈っているんだねー」
教室から笑い声が鳴り響いた。
本堂先生は、厳しさと優しさを適度にブレンドするのが得意なのだろう。若く。背が低いが、ここから見ても、生徒思いのいい先生なのだから。
「はい。でも、先生。恐らく無理です。この雨って……原因が……」
麻生が不安を何も払拭しないで告げた。
「ああ……。確かニュースでは何かの惑星が近づいていて、世界規模の大気があっという間に大きく変化したとか……。地球は今、灰色の卵のようだって学者さんがいっていた。厚い雲によって全世界が覆われているんだよ。学校側でも、こんな時はどうしたらいいのかわからないのが現状なんだ。非常事態なのか、自然に身を任せるのか。判断するには、政府からの発表があるまでは、何もできないんだよ。残念だけど、今はどうすることもできないんだ」
そう。本堂先生の言う通りに、この半年間も振り続ける雨の原因は、一つの惑星が地球に近づいてきたことによるのだ。私の知っている限り。そこには竜宮城があるのだ。
実は竜宮城は、中国や日本の昔話による海の底ではなく。一つの惑星を統べ海に浮かんでいるのだ。
浦島太郎は実在していた。
浦島太郎は、亀を救った後、助けた亀のお礼に渦潮を使って別の惑星にワープしていたのだ。私の言っていることは、誰も知らない昔話の裏の話だ。けれども、大昔から大勢の人々がとある事情で竜宮城へと行き来していた。当然、玉手箱での末路も皆同じなのだ。
浦島太郎は乙姫という地球外生命体と宴会を開き。食べ飲み。乙姫の情が移りそうな頃に、妻子持ちの彼は地球へと帰って行った。
有名な玉手箱は、本来はワープによる肉体的な過度の成長性疲労を和らげる効果があるのだが、浦島太郎の身体的には限界がきていたし、竜宮城へ向かった人々もそうだった。
地球からおおよそ一万光年先の惑星へと行き来することが、人間では限界を引き出してしまっているのだ。
乙姫自身はどうだろう?
私の知ることにも限界がある。
何を思っているのだろう?
けれども、竜宮城のある惑星は徐々に地球へと接近していた。
体育館裏では、麻生と湯築が何やら話していた。
「麻生さん。今日もどうせ断るんでしょ……こんなに強く誘っているというのに」
「ええ……」
いつものことだった。
麻生は芯の強い性格のようで、頑なに拒んでいるが、実は運動神経もかなり達者なのである。
陸上部に来ないかと湯築がいつもしつこく勧誘しているのだが、きっぱりと断る麻生はいつもと何も変わらずであった。
「この学校での部活は、陸上部だけなのに……みんなすっかり元気がなくなって……でも、あなたがいれば……」
「ええ、でも日舞を家でやっているから。それから茶道部の本堂先生に特別に来てもらう予定よ。それから料理教室の先生が来るのよ。もう、こんな時でも毎日がいつもの日常と変わらないわ」
「……そう……武はどう? 誘えば部活には来るかしら?」
湯築は諦め顔で少しだけ棘のある声音だ。
「あの人は私の父さんと空手よ。知っているでしょ。私の父さんって、空手の有名な師範なの。武はいつも上を向いているの」
麻生は普段の声音で話しているのだが、湯築は棘以外にも何か含みがある声音だ。切羽詰っているのだろうか?
日本が沈む。
そう誰もが考えていた。
どこにも心底明るい声音の人はいないのだろう。
小一時間後。
話が終わり。
体育館裏から体育館の入り口付近まで歩いていた麻生と湯築の耳に、体育館の窓からの部活の活動的な声が大きくなりだしたようだ。部活が活発に行われていることがわかる。
当然、湯築は男子に人気があったが、女子にも人気なのだ。
湯築の強い勧めで、今の唯一活動している陸上部の部活は女子よりも男子の数が多く。湯築が率先して皆が日常を取り戻そうとしていた。
「そう……仕方ないか……」
湯築はサラッとそう呟くと体育館へと歩いて行った。
麻生と少しでも仲良くなりたかったのだろうか?
部活の活性化だけではないのだろうか?
湯築も武を好いていたのであろう……。
湯築は彗星のごとく現れた転校生だった。ここ鳳翼学園で短期間で陸上県大会二年連続優勝を勝ち取っていた。あの日から、湯築の周りにはいつも体育館での地響きのような足音が響いていた。湯築のお蔭で今では日常となっている。ここ半年間で不安を払拭してくれる心強い足音である。
「ねえ、まだ部活に来ないの?」
一人の女子が湯築に不満を漏らしている。
いつの間にか、湯築の周りには人だかりができていた。
皆、学校生活と部活だけは少しでも明るくしようと湯築と一緒に努力しているのであった。
「……麻生さんは来ないわ」
湯築は俯き加減だ。
「もう、麻生さんも武も来ればいいのにねー」
「毎日がデートって、感じでくっ付き過ぎよねー」
「湯築さんでも無理かー」
皆、女子たちは勝手なことを言っているが、内心はやはり不安なのだから仕方がないのだろう。
体育館では、いつもは元気だが、今は俯き加減の湯築は、更衣室で体操着に着替え、ふくよかな胸を強調している。その胸は今まで走るときにも自分へ自信をつけてくれていた。
「そう……じゃあ、武はどう?」
女子たちは、武は来ないかとしつこかったが、湯築にやんわり「来なかったわ」と言われ、皆ふて腐れている。
中学の頃からだ。
成長過程で、背が伸びると同時に湯築は急に足が速くなっていた。ある出来事からマラソンやジョギングをし続けていた。その出来事とは、湯築が好きな男子に一度フラれたことだった。
心に傷ができるほどの失恋を経験したようだ。
そのために、自分に更に自信を持ちたかったのだろう。
けれども、運の悪いことに二度目の恋は武だった。
当然、麻生がいる。
部活で平和的に麻生と対決をすることで、少しでも武との距離やわだかまりや対抗意識を解消しようともしたかったのだろう。しかし、それも無理なのだろう。
もうすぐだ。
日本が沈没するのだ。