1話
私がこの世に産まれたとき、母は酷く泣き叫んだという。
「どうして! なぜ!」
出産直後だというのに分娩台で暴れ回り、医者にまで押さえつけられた。
「どうして……どうして二人いるの!?」
いわゆる野良妊婦というやつで、母は私と姉を孕ってから一度も、病院の類にはいかなかった。
早く産まれておいで、楽しみにしているからね。と腹を撫でながら語りかけていた母。
その大きすぎるお腹の中に、
二人存在しているとは思っていなかった。
「一人でよかったのに……二人もいらない!」
一人とは、先に生まれた姉の方だろう。
後から生まれた、出てくるはずじゃなかった私は、
その段階から、
産まれ落ちる前から、必要とされていなかったのだ。
*
「茉奈と沙耶は、二人で一つなのよ」
物心つく前から常々聞かされていた言葉。
私達姉妹が真に理解したのは小学校の入学式だった。
「入学おめでとう、茉奈」
綺麗に着飾った姉とともに、母は家を出て行った。
部屋着の私を、家に置き去りにして。
その時はまだおかしいと思っていなかった。
瓜二つの容姿を持つ私たち姉妹は二人で一つ。母の愛情は一人しか注いでもらえない、
二人同時には愛してもらえない。
母は茉奈を愛でた次の日に私を愛し、翌日は再び茉奈に目線を向けた。
外出する際も一人ずつ、一人はお留守番。
私たちは二人で一つ。
一人ずつでしか生きれない。
二人同時に存在しちゃいけない。
転機は突然訪れた。
入学式を終えた母と茉奈が帰宅し、茉奈は服を脱いで私に手渡した。
「この服を着て学校に行くの!」
綺麗なお洋服。
私は嬉しくなって、白と黒のワンピースに袖を通す。
「似合うよ、沙耶。こっちは鞄」
そう言って、茉奈が私にランドセルを差し出す。
私たちは二人で一つ。
茉奈が出かけた翌日は私が……
だから、
明日は私が、
沙耶が学校に行く番。
ランドセルに手が触れる直前で、茉奈の顔が視界から消えた。
驚いて顔を上げると、母が息を荒くして茉奈を睨んでいた。
「ダメよ! そんなことしたらばれちゃう……学校に行けるのは一人、茉奈って名前の子しかダメなの!」
母が何を言っているのか理解できず、私達は同時に声を上げた。
「「お母さん?」」
そう、
同時に、
声を重ねてしまった。
カッと目を見開いた母が再度、茉奈の頬を叩いた。
今度は平手打ちではない、握りしめた拳で殴られた茉奈の頬は、赤く腫れあがった。
「あなたはこの世に存在していない事になってるの! だから今後一切、外にでちゃ駄目。わかったわね、沙耶!」
姉を、茉奈を睨みつけながら母が言った。
そして私を、双子の妹である沙耶を抱きしめる。
「ごめんね、茉奈。びっくりさせたわね……私の娘はあなただけなの。私の大切な茉奈」
馬鹿みたいにポカンと惚けた顔をする私と茉奈。
だけど、一番馬鹿なのは母だった。
「馬鹿だと思う」
呟いた私の声は母には聞こえておらず、茉奈は殴られた頬を右手で抑えて小さく頷いた。
次の日、満面の笑みの母に送り出され、私は学校に行った。
「いってらっしゃい、茉奈!」
本物の茉奈を傍に置きながら、母が手を振った。
*
目立たない、いい子でいよう。
それが私と茉奈がたどり着いた、
二人で一つとして生きるための方法だった。
情報を共有し、私達は一日おきに入れ替わって学校に行った。
視覚情報も、できる限りイラストにして伝える。
茉奈にはそっちの才能があったようで、彼女の描く絵は立体感があり、人物には命があった。
対して私の描くイラストは自分でも言い訳出来ないほどの下手さ。
人間を書いたのか猿を書いたのかよくわからない程だった。
それでも茉奈は私の絵画の意図を汲み取り、「こういう事?」と、自分のイラストへと落とし込んだ。
才能の差が出たのは絵画だけだった。
他は全くと言っていいほど、同じ事を同じだけできた。勉強もスポーツも。
「美術だけは、沙耶に合わせるよ」
そう言って私のイラストを完璧に模写する茉奈に、嫉妬しなかったと言えば嘘になる。
なぜ神様は、姉にだけ才を与えたのだろう?
私が妹だから。
後から生まれたから。
必要ない存在、
産まれてくる予定ではなかったから?
*
親しい友達は作らなかった。
上部だけ、表面上の付き合い。
馬鹿ばかりだった。
誰も、母でさえ気づかない。
そうして、私達がこの世に生を受けて十六年経ったとき、茉奈に友人ができた。
おかしいとは思っていた。
最後に入れ替わってから一週間。
いつもは「学校怠い。沙耶、代わって」という茉奈が、「大丈夫、私が行くから。沙耶は学校嫌いでしょ?」と譲ろうとしなかった。
問い詰めてもきっと、姉は本当の事を言わない。
「明日、親族会議があるから。学校休んで」
嘘にしては悪質だと思う。
だけどそれしか思い浮かばなくて、茉奈は神妙な面持ちで頷き、翌朝、一足先に本家へと足を運んだ。
それを見計らって制服に着替え、飛び出すように学校に向かう。
「おはよう、茉奈ちゃん」
弾けるような笑顔を向けてきたのは、孤高の美少女と呼ばれている女子生徒。
類稀なる美貌に加え成績も飛び抜けて優秀で、学年どころか全国模試ですら一位をとった事があるという、雲の上のような存在。
だけど私たちが共有していた情報では、彼女は今みたいな人懐っこい笑顔を見せるような人物ではない。
その美麗な顔は常に表情が変わらず、冷たい目で人を見下している。
十声をかけても返ってくる言葉は一にも満たない。
無愛想、冷静沈着、非情。
茉奈と共有している彼女の情報とは真反対。
愛らしい女子高生が目の前にいた。
「茉奈ちゃん、今日、体調悪い?」
馴れ馴れしく伸ばしてくる手を振り払い、しかしはっとして美少女を見返す。
「ごめん……今日はもう、帰るね」
わからない。
この子の前で私は、茉奈はどんな表情をしていたの?
なんて呼んでいたの?
何の話をしていたの?
逃げるように帰宅し、
部屋に戻っていた茉奈を怒鳴りつけた。
*
「初めてできた友達なの。いつきちゃんとは、縁を切りたくない」
長々と言い訳を述べたあと、茉奈が言った。
一週間前にいつきちゃんとやらに出会った茉奈は、最初は普段通り接していたらしい。
深く干渉せず、上部だけ。
どうせ彼女もこちらに干渉して来ない。
孤高の美少女と呼ばれている程なのだから。
そう思っていたのに。
『絵描くの、うまいね』
下手くそなイラストを模写しただけの絵画を見ながら、いつきちゃんが呟いた。
『なに言ってるの? 下手くそだよ、私。みんなにも揶揄われてる』と笑う茉奈の描いた絵に、彼女はそっと指を当てたという。
『下手に見えるように、わざと描いてるよね? すごい……こんな技術持ってる、上手に絵を描く人、初めて出会った』
馬鹿だと思う。
単純馬鹿。
私の姉は、その一言で、彼女に魅了されたと言う。
「お願い、沙耶。誤魔化して……沙耶が学校行くときは出来るだけ、いつきちゃんに近寄らないで。話をするときは嫌われないように、私として仲良く過ごして」
泣きそうな顔を向けられて、断れるはずがない。
言葉もなく頷く私に、茉奈が嬉しそうな笑みを見せた。
「噂とは全然違って、ちょっと抜けてて可愛い子なの。いつきちゃんも絵を描くのが好きでね……」
その日は一晩中、いつきちゃんの話を聞かされた。
*
あの時から、嫌な予感はしていた。
茉奈が生きる事を思い出した。
二人で一つじゃなく、
茉奈という名前の、
一人の人間として。
あのね、沙耶、いつきちゃんがね。
今日、いつきちゃんが。
明日はいつきちゃんと。
あのね、いつきちゃんが。
いつきちゃん。
学校から帰った茉奈は開口一番、その名前を口にした。
以前より頻度は減ったけれど私も時々学校に通い、家に戻ると茉奈が飛んできた。
「いつきちゃんは今日、どうだった?」
私の名前すら出なかった。
嫉妬はしていた、正直。
だけど、
それよりも……
彼女の名前を呼ぶときの茉奈がとても、楽しそうで。
私はその笑顔を今まで見た事がない。
生まれる前からずっと一緒に居るのに、
そのような顔は知らなかった。
本当の茉奈は、私と二人で一つでなければ、こんな表情をしていたのだ。
普通に毎日学校に行って、
部活に入って、
愛想がいいからきっと、先生にも気に入ってもらえる。
友達と遊んで、
笑い合って、
たわいない会話で毎日を楽しんで。
私がいなかったら、茉奈は……
「ごめんなさい」
自然と声が漏れていた。
はっとして、口元を押さえる。
横を向くと、同じベッドで寝ている茉奈の吐息が聞こえた。
顔を近づけて、額を合わせる。
私達は双子の姉妹。
二人で一つ。
「茉奈が私で、私が茉奈……そんなわけ、ないでしょ」
馬鹿だと思った。
そんな虚言をいつまでも信じているほど、私は子どもじゃない。
子どもという時期を通り越して、
だけど大人と呼ぶにはまだ早すぎる年齢の私達は、
いったい何者なのだろう?
入学式の日の茉奈を想った。
遠ざかる背中、繋いだ手。
明日は私の番。
そう思っていた。
私が一番、馬鹿だった。
『明日は沙耶の番。学校、楽しいよ』
私達は二人で一つだから。と、私にランドセルを押し付けた茉奈はきっとわかっていた。
叩かれて腫れがひかない頬を撫でながら、笑った。
『この傷がある限り大丈夫。お母さんは私を沙耶だと思ってるから、バレないよ。沙耶は私だよ』
傷は癒えたのにどうして、私は茉奈の役を続けているのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
声を大きくしてみるが、茉奈は起きなかった。
今日の出来事を思い返して、
明日の学校生活を思い浮かべて、夢を見ているのだろう。
そこには私の知らない、茉奈の友達がいて。
私じゃない茉奈が、楽しそうに笑ってる。
母が泣いた、私が産まれた日。
入学式の日の真新しいランドセル。
二人で一つしかない。
茉奈、と書かれた鞄にノート、鉛筆。
本来、茉奈が一人で使うはずだったもの。
私がいたせいで、
私のせいでそれは、
二分割されて茉奈一人のものじゃなくなった。
双子の姉、
もう一人の私だった人間を視界から消すように、目を閉じた。
*
しばらくすると私は暗闇の中に蹲っていて、誰かに手を差し伸べられた。
その人は白く、ぼんやりと光り輝いていて、私に向かってこう言った。
「あなたは悪くないよ」
悪いのは、神様だと。
私を作った、
この世に産み落とした
神様が全部、悪いのだと。
あぁ、そうか。
だから私は、その手を取って立ち上がった。
ごめんなさい、
ごめんなさい、
ごめんなさい。
謝罪は誰に告げたらいいのかわからない。
だけどひたすら、許しを乞うように繰り返した。
上手に生きれなくてごめんなさい。
茉奈のフリをしてごめんなさい。
姉の人生を邪魔してごめんなさい。
欲しがってごめんなさい。
悲しそうな顔をしてごめんなさい。
生きようとして、ごめんなさい。
「生まれてきて、ごめんなさい」
いつかこの声が、誰かに届きますように。
そう願ったけれど、馬鹿みたいだと気がついてそっと目を閉じた。
私は最初から存在していなかった。
存在しちゃいけなかった。
ごめんなさい。
いつか、
私のいない世界で双子の姉が、
茉奈が幸せになりますように。
生まれてきてごめんなさい。
生きていくために必要なこの世界は、
私が抱える宝箱の中身は、
茉奈という宝石が入っていること以外、
誇れることが一つもなくて、
ゴミで溢れかえっていた。