黒い羽根と生者の心臓
一夜明け、国境を越える。
身分証と旅券を提示し、関所での手続きを終え、無事バセニア皇国へと入国した。
ここまでは良し。
もうすぐ最寄りの町へ至る、そのタイミングで襲撃を受けた。
逃げるようにして街道を逸れると、程よく見通しの良い奥まった場所へと追い立てられる。
ずいぶんと手際がいい。
相手はこの手の荒事に馴れている者達のようだ。
「おい、なぜ一人しかいないのか?情報だと女が二人だったはずだ。」
深く笠をかぶり、俯いたまま相手の人数を気配だけで探る。
その数、十五。
見張り役もいるのだろうが、遠すぎて気配が探れない。
「まあいい、こいつを殺せばがたんまりお宝が貰える。」
「…なぜ、狙われたのですか?」
「さあな?お前、男を誑かして恨みでも買ったんじゃねぇのか?『必ず息の根を止めるように』と、女が大枚積んだんだぜ?余程憎いらしいな、お前が。」
「他には何か言っていた?」
「ここで死ぬお前には関係ない。俺達は城に近付けないようにすればいいだけだ!!」
「なるほどね、情報ありがとう。」
相手が手慣れただけの素人で助かったわ。
隠していた剣を抜き、手近な者から葬っていく。
相手と人数の差がある時は油断している間に襲い数を減らしておくに限る。
敵の数が半数を切ったところで相手の剣の先が頬をかすめ、ふつりと笠の紐が切れた。
肩までの長さに切り揃えた髪が揺れ、笠が地へと落ちる。
息を切らし、動揺を露わにする彼らに対し、こちらは呼吸すら乱していない。
それに気付いた男が叫ぶ。
「この腕前…!護衛の方の女か!!」
「ご名答。」
黄蟻は不敵に笑う。
そして瞬きすら惜しいほどの刹那で頭目らしき男の首を刎ねた。
残った者は皆一目散に逃げて行く。
暫し、場を静寂が支配する。
"標的は髪の長さが肩までの女"
面が定かでない相手を狙う時、次に見分ける基準とされるのは容姿の特徴。
一般的に長い髪が好まれる世の中で、わざわざ短い髪にする者などいない。
その思い込みはこちらにとっては好都合だった。
杏は宿で知り合った商人に頼んで旅に加えてもらい、すでに成安国へと引き返している。
嫌がるのを任務として言い含め帰したのは彼女をこれ以上危機にさらさぬため。
それにしても長く伸ばした髪を切るのは、なかなか勇気がいるのね。
私だって任務と思いながらも一瞬ためらったくらいだ。
その髪を一気に断ち切った時、空を舞う黒い髪の束がまるで羽根のように見えた。
断罪の場で罪の重さを表すとされた黒い羽根は我が罪の一部。
ならばこれで私の罪も多少は軽くなったのかしら?
黄蟻は一瞬浮かんだ己の甘えに苦笑いを浮かべる。
数え切れないほどの命を手に掛けた。
髪程度で許される訳などないだろうに。
そうと知りながらも、軽くなった髪に心が浮き立つ。
重い足枷を外したような、そんな心持ちがした。
……短い髪も悪くないわ。
長い髪こそ女性の美徳と刷り込まれた価値観を打ち破るには、思いの外、覚悟が必要だったけれど。
アデラ姫が疎まれたのはその一線を容易く飛び越えたように思えたからだろう。
変革を厭わぬ者が国を覆すきっかけとなる。
血を分けた兄妹でありながら、彼女が兄に疎まれたのはこれも原因のひとつなのかもしれない。
遺体を残し場を離脱しようとした、その時。
一直線に彼女へ近づいてくる気配を感じた。
狙う相手と違うと気付きながらも、なおも近付こうとする行為の意味するところは。
口封じ、もしくは障害となりそうな存在の排除。
目の前に姿を現したのは男が三人。
無言のまま斬りかかってくるところから推察するに、こちらは確実に同業者だ。
しかもかなり腕が立つ。
……ここで死ぬかも知れないな。
黄蟻は久々に血が滾るような感覚を思い出した。
自分よりも相手が強ければ死ぬ。
それが摂理というものだ。
ただし我が誇りにかけて、簡単に殺される訳にはいかない。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
一度でも戦場で戦った者ならわかる。
誰かのために戦うなど、大義名分に過ぎない。
末端で行われる戦闘とは、大義には程遠い、至極利己的なものだ。
全ては己がため、互いの利を賭け、相手の命を狩るためのもの。
さあ、どちらの利が勝つか。
まずは地を這うような一閃からの、飛翔。
小さく高く飛ぶような体の動きは小柄な彼女にはよく馴染む。
相手の視線が天に逸れたところで背後を取り、急所を一気に絶つ。
これで一人目。
流れるような動きで残る二本の剣先を避ける。
次に円を描くように剣を振るい間合いを切ると同時に一層深く切り込む。
狙うは相手の手首。
一人が剣を落としたところですかさず息の根を止めた。
そして体を入れ替え、残る一人の剣先をかわす。
自身の剣先が仲間の体を傷付けたことにとまどうこともなく、こちらを向いた相手と視線を合わせる。
じっくりと互いを観察し、間合いと呼吸をはかる。
機会を捉え、動いたのは相手が先。
だがそれが狙い。
動けず斬られたように見せかけて、急所すれすれを剣先が通り過ぎる。
見開かれる相手の目を見ながら軽く笑いかけた。
そして隙のできた上半身に剣を叩き込む。
相手が、どうと音をたてて倒れた。
……よかった、まだ錆び付いてはいなかったみたいね。
黄蟻は血糊を拭き取り、剣を鞘に収めるた。
流れるように組み合わされた個々の動きを、黄家では形と呼ぶ。
形を受け継いだ者は研鑽の末に、流儀へと昇華させるのだ。
陶家や紫家で家人を率いる時、黄蟻は常に複数で個に対するよう教えていた。
まるで象に群がる蟻のように、力を数で押し潰せと。
それは戦闘そのものに慣れていない者を率いることもあるからと、安全性を最優先にしたがゆえの対応。
だが、それは黄家の戦闘様式とは根本から異なる。
相手が少人数で且つ手練であればこそ効果を発揮するようにあみ出された黄家の形。
代々形を受け継いできた黄家は、持ち前の飛び抜けた身体能力を存分に活かした個対複数を得意とした。
だからこそ戦神と周辺地域の民に恐れられ、最終的には国に見捨てられて滅ぼされてしまったのだが。
他者の血に染まる手をじっと見る。
人を殺すためだけに技を磨くなど、なんと罪深いことか。
だからこそ逆に強くもなれたのだ。
ずいぶんと返り血を浴びてしまい、アデラ姫には申し訳ないが借りた衣装は血塗れだ。
さすがに人目に付き過ぎるから着替えようと水場を探し、森に分け入ったところで、再び人の気配を感じた。
今度はある程度の人数がいるようで二組が別々の方向からこちらへと向かってくる。
深くため息をついた。
「……面倒だわ。このまま逃げよう」
どちらも敵であった場合、一度で片付けるのは無理がある。
もし片方が運良く味方であったなら、この状況から何があったかは容易に想像がつくだろう。
予定通り、"髪の短い女性が入国した"という事実は作った。
ならば私はアデラ姫の無事を確認して秘密裏に護衛すればいい。
城には恐らく紫家の者が護衛として送り込まれるだろうから、彼らの存在を確認したら手を引く。
そうと決まれば早めに姿を隠し気配を消すに限る。
まずは血の匂いを消さないと。
わずかな音を頼りに黄蟻は水場へと向かうため、木々に紛れるようにしてその場を後にした。
ーーーーーー
水場で血を洗い流し、衣を着替えると先程とは反対側にある道に出る。
街道からはずいぶん離れたが、そこかしこに人家が見えるので、細いこの道を伝っていけば最寄りの街へと出られるだろう。
つ、と足を踏み出した瞬間に人の気配を感じた。
それも複数だ。
人の気配は賑やかな音楽と共にこちらへ向かってくる。
殺気はないようだから、道に迷った者か?
それにしては楽器を鳴らすなど意味がわからない。
やり過ごそうと分岐点の手前で足を止めた。
ここは見通しの良い場所で、手頃な身を隠す場所も見当たらなかった。
仕方なしに、道の端へ寄って人の気配が近付くのを待った。
程なくして姿を見せた集団は特異な出で立ちをしていた。
旅芸人の一座か。
寂しげな場所にあっても警戒心を見せない様子から、ずいぶんと肝の据わった者の多い一座のようだ。
ふと、一際派手な化粧を施した女性と目が合う。
そして私はそのままの体勢で固まった。
彼女は満面の笑みを浮かべ、こちらへと駆け寄ってくる。
「あっ!いました、いました!ありがとう、助かりましたよ〜!!」
「お、良かったな!!お友達と合流できて!!」
「はい!」
見間違いなどでなく、アデラ姫本人だった。
「やっぱり無事にたどり着けましたね、さすが鈴麗さ…痛たただだだ!!」
「黙って部屋からいなくなるなんて、どんな了見してるんですか!!貴女は!!」
「痛いですよー!!ほっぺた引っ張りすぎですからっ!!」
思わず手が出てしまった不敬はこの際不問にしてもらおう。
どう考えても私は悪くない。
悪くないったら絶対に悪くない。
「なんだい、姐さんも別嬪さんだな!!美人は大歓迎だ!!なんなら町まで混じっていくかい?」
首領らしき人がポポンと軽快に太鼓を打ち鳴らす。
いや、それどころではありませんから。
「混じりませんよ?!」
「堅苦しいこと言うなや。アデラちゃんの姐さんなら知り合いも同じ。さあもう一周、いっちょ派手に練り歩こうや〜!!」
いやいや、無理だから。
さっきまで命の遣り取りして、今しがた血を洗い流してきたばかりだから?!
今度こそ強く断ろうとしたところでアデラ姫が顔を近づけ、耳元で囁く。
「この一団に混じれば、身元を確認されることもなく期日に首都マライへたどり着けます」
「……」
しかも派手な衣装で容姿も偽装できる絶好の隠れ蓑だ。
……無駄に頭が回る人だから余計に腹が立つのよね。
「さ、鈴麗さん、一緒に行きましょ?」
アデラ姫が人好きのする、今となっては腹立たしいばかりの無邪気な笑みを向けた。
くっ……後で覚えてなさいよ?!
「わかりましたよ、行きます!!」
「やったー!!そうと決まれば皆手伝ってーーー!!」
「「「「はいよ!!」」」」
「あ、殿方は後ろ向いててね?」
「仕方ねぇ、早くしろよ?!」
知らぬ間に、段取りがついた。
…思考が全く現実についていかないのだけど?
呆然とした私の耳元でアデラ姫が再び囁く。
「皆素人さんだし、か弱い女性ばかりだから間違っても抵抗しないでくださいね」
「な、何をされ…」
「一座自慢の早着替えと、お化粧です……もちろん鈴麗さんのね!」
「ええっ?!」
「下地がいいから何でも似合いそうで腕がなるわ!!」
いや、ここで着替えるなんて無理だから。
叫んだ言葉は女性陣の勢いに飲まれ、歓声に吸い込まれる。
意識を取り戻した時には立派な旅芸人一座の装束に身を包んでいた。
……彼女達、絶対私よりも腕が立つと思うわ。
「さ、行きますよー!!鈴麗さん。」
アデラ姫の一言で再び繰り返される賑やかな演奏と華やかな踊り。
歌えないし踊れない私はただただ籠に盛られた紙吹雪を撒いていくだけ。
人に囲まれ、歓声が上がる。
やがて気が付けば何事もなく街へと辿り着いていた。
「すごいですね…。」
「ふふ、でしょう?!」
得意げなアデラ姫の様子に嫌味のひとつも返したかったが止めておいた。
確かにすごい。
誰もが私達を見ているのに、誰も私達が誰なのか知ろうとしない。
見えているのに見えていない存在。
かなり上手い隠れ蓑だ。
宿に着くと明日の予定を打ち合わせてから部屋へと戻る。
私は当然アデラ姫と同じ部屋になった。
聞きたいことはたくさんある。
当然彼女もそれには気付いていて、部屋に戻ると真面目な顔で頭を下げた。
「まずはごめんなさい。色々巻き込んでしまって。」
「もしかして、今までもこうして国を渡ってきたのですか?それに証明書の類はどうしたのです?」
「証明書はその、あらゆる手を使い脅か…誤魔化した感じ?」
さらりと黒い言葉を聞いた気がするが、そこは流しておく。
かわいい笑顔の裏で、結構えげつない手を使う事は身を持って体験済みだ。
どちらにしろ彼女の身の上では旅に出るための身分証明書が正規ルートで手に入るわけがない。
何かしらの手を使ったのだろうが、それは聞かないし知りたくもない。
「それで今後はどうするんです?」
「このまま一座に加わりつつ、マライを目指します。」
「バレませんか?」
「大丈夫ですよ。今、この国は旅芸人だらけですから。」
「旅芸人が多いのですか?」
彼女は笑みを浮かべる。
理由については、そのうちわかる事だからと教えてくれた。
何でも近々他国の使節が城を訪れるらしい。
その際に首都の賑わいを演出するため意図的に集められているのだとか。
近々訪れる予定の他国とは、苟絽鶲国からのものに違いない。
この様子だと、たぶんマライへは期日に辿り着けるだろう。
その後、使節とどのように接触するのか。
段取りや使節団の人数、責任者が誰かも不明なのが痛い。
情報の伝達が私からの一方通行であることが悔やまれる。
責任者と接触はできるだろうか。
こういう時、相談できる相手がいないのは不安しかない。
まあ何とかなるだろう。
考えても仕方がないこととと思い表情を緩める。
そこでようやく彼女の視線が私に注がれていた事に気付いた。
「たぶん悪い事にはなりませんよ?」
「…何が、ですか?」
「確かに未来は予測できない事の方が多いですが、それは鈴麗さんが生き急ぐ理由にはなりません。」
「何を言って…。」
「綺麗事でなく、情勢を見る限りでは、今はまだ誰も選択を迫られる時ではないのです。」
彼女は何を言っている?
話に脈絡がないから言っている意味が全くわからない。
それでいて彼女はまるで神のように自信に満ちて言葉を選ぶのはなぜだろうか。
「私が見通す限り、貴女は一人ではない。守るべき誰かに身を捧げた貴女もまた守られている。」
よかったですね、そう言って彼女はニコリと笑った。
守るべき誰かに守られている、とは。
鼓動が、どきりと跳ね上がる。
彼女は誰にとも誰がとも言わない。
だけど今、もし私を守ろうとする力があるとすればそれは紫家の裏の人間だけ。
そしてそれを指示できるのは主様だけだ。
彼女の言葉で思い知らされる。
杏と話しながら霧散した私が守りたかったものの正体。
私が一番守りたかったのは家名や弟の、失われたものの名誉ではなかった。
私が守るべきは生者の心臓。
仲間と、そして主様の命。
人の命は、かくも弱く儚い。
だからこそ持てる力を尽くす意味がある。
「鈴麗さん、たまに相手に言いたいことを無理矢理飲み込んだような顔をしますよね。迷うなんて鈴麗さんらしくもない。いつも私をやり込めるみたいにガツンと言ってやればいいんですよ!!言いたい事があれば言えばいいし、聞きたい事があれば納得するまで聞けばいい。」
光を一身に集めたような彼女の存在。
華やかな表舞台から姿を消し、各地を流浪しながら、こんなにも眩しく光輝く。
貴女に何がわかる。
光を失い、陰にこもるしか自身を守る術を持たない私の痛みが。
その全てを知るかのような言葉は……現実を知る者にとって本当に腹立たしい。
「世の中、単純明快に解決するような問題ばかりとは限らないでしょう?」
「そのとおりですが、人が迷うのは大抵の場合、根は同じです。それは情報の不足。人間関係に置き換えれば互いの意思疎通の不足ですね。意思の疎通すらできなければ、もうあとは無関心しか残りませんから」
無関心なら憂いが生まれる余地はない、と。
その言葉に彼女の置かれた微妙な立場を思い出す。
一人だけ思考回路の異なる彼女は家族の誰とも分かりあえなかった。
家族でありながら、他人よりも遠い。
今や彼らの行く末にすら無関心なのだろうか。
それとも逆に無関心を装うだけか?
彼女の思考は複雑で、どう話が飛ぶかは表情だけでは読みにくい。
だからほら、今も。
「たぶん苟絽鶲国に思い残した事があるのでは?だから国の名前を聞くだけで表情が曇る。鈴麗さんは表情に出にくい人だけど、それでもわかるくらいだから余程の心残りなんでしょうね。じっくり観察していればわかりますよ」
……じっくり観察されていたのか。
神が如き目で何を悟られたか知るのは怖い気もするが、人の上に立つこともある彼女の生まれなら仕方がないか。
これ以上怒るのも面倒と思えば、急にどうでもいいことのように思えて苦笑いが浮かぶ。
「本当、生意気なんだから。」
「すみません、よく言われます。でも今更反省も軌道修正もしません。」
彼女は、しらっとした表情で言い切った。
その表情は憎らしいが、どこか憎めない。
ふと、生きていたころの弟の姿と重なる。
どれだけ憎もうとも、最後は許してしまうのだ。
「仕方ない、ついていきますよ。」
立場上知らないふりをしてはいるが、彼女は一国の姫。
こんな言葉は不敬なのかも知れないが今更だ。
アデラ姫は太陽のようなほがらかな笑みを浮かべた。
彼女が指定した日は間もなくやってくる。
送り届けたら、きちんと向かい合わなくては。
そうでなくては先に進めないし、後にも退けない。
全てを見通すような、薄紫色の瞳と。