幕前 女王蟻の献身
幕前は一時期、別の連載で投稿していたものを編集し直し、再投稿しました。
それに伴い、前のお話は削除しています。
「報告を」
「かしこまりました」
ここは苟絽鶲国、名家との誉れ高い紫家の一室。帝に仕え、次期宰相の座を約束された紫鄭舜は、紫家の裏を差配する黄蟻と相対していた。ちなみに黄蟻は役目を果たすときだけの呼び名。彼女の本名は別にあるが、それを家内で呼ぶことはない。
報告の合間に交わされる、問いと、それに対する淀みない答え。机を挟み向かい合う男女を照らす卓上の灯りが風もなく揺らめく。定期的に行われる報告の内容は各領の政治、経済、民の様子、更には他国の動向や帝の居所を出入りする使用人や侍女の噂まで多岐にわたる。部下を差配しこれらの情報を集めるのが彼女に与えられた役目のひとつ。
「以上です。」
表情を変えぬまま、報告を終えた彼女の様子を観察する。
『良い人材がいるから使ってみないか?』
そう言って帝が貸し与えてくれた者の一人だ。元は青い鳥の…陶家の次女である華凉嬢の使用人の一人であったと聞く。滑らかな黒髪に、涼やかな目元を飾る黒い瞳。口元に浮かぶ笑みは剣を振るい標的の懐に入る時でさえ崩れる事はないらしい。今は失われたとされる武に秀でた一族の血を濃く引く彼女。鍛錬を積んだ己よりも数段強い女性。そして借り受けた情の薄い、他人。守らねばならぬ理由など一つもありはしないのに。
「もう下がって構いません。」
「御意に。」
彼女は静かに一礼すると闇に溶けるように姿を消そうとする。その変わらぬ様子に、小さく息を吐いて呼び止めた。
「黄蟻」
「はい、主様」
「痛みはないのですか?」
その瞬間、彼女は目を見開く。
「いつ、それを」
「脇腹の辺りでしょうか。出血があったようですね……わずかに血の匂いがします」
「見苦しい姿をお見せし誠に申し訳ございません」
「あなたが怪我をするのは珍しい。何かありましたか?」
「遅れをとりました。すでに止血は済ませてありますので問題なく動けます」
申し訳ございませんでした、それだけ答えると頭を垂れる。この状況では彼女の表情を伺うことはできない。
「そういえば今日は訓練も兼ねているのでしたね」
おそらく新人の誰かが失敗したのを庇ったのだろう。彼女は厳しい口調とは裏腹に自分より目下の人間にはとことん甘い。
弟を守れなかったから、だろうか。彼女の来歴を調べた書類には亡くなった弟の存在が記されていた。まだ幼かった彼女が守ろうとして、守りきれなかったもの。記憶の中の死者は優しい。それ故に未だ彼女はその闇に囚われたままだ。それがなんとなく、腹立たしい。
「傷を見せてください」
「えっ?!し、しかし」
「部下の容体を把握するのも上司の務めですから」
強い口調で言えば、わずかに困惑した表情を見せつつ服をたくし上げる。きつく巻かれた包帯、そこから滲む一筋の赤い線。包帯を外させてみる。思ったよりは浅い傷のようだ。手当は済んでいるようで傷口はきれいに縫われている。
「我が家には侍医がいる。なぜすぐ彼に見せないのですか?」
「この程度の傷なら自分で手当ができますので」
「それだけではなさそうですね」
有能な彼女は、あっという間に部署を掌握し、現時点ですでに守りの要だ。そして短期間にも関わらず紫家の特殊な事情を把握している。その彼女が顔を知られるわけにもいかず、しかも怪我を負っていることを知られたくない相手。
「なるほど、君の見立てでは親類の誰かの息が掛かっている者ということかな」
「確証はありませんが」
「かまいませんよ、あとは私が調べます」
どんな経緯で侍医になったか調べれば判断がつく。彼らの策謀などその程度のレベルなのだ。備え付けの箱から替えの包帯と薬を取り出した。彼女が手際よく手当していくのを横目に書き付けた紙を渡す。
「外で何かあればこの医師に掛かるといい。彼は信頼できますから」
「ありがとうございます」
口調は変わらないから無意識なのだろう。無垢な少女のような笑みが浮かぶ。そしてわずかばかりの喜びに満ちた無防備な表情は、容姿と相まって妖艶な雰囲気を醸し出した。
大人の女性と少女の狭間を漂う不可思議な存在。本当に彼女は人なのだろうか。不安定な存在そのままに、いつしか淡く消えてしまいそうで。
目が離せない。
「あなたは、まだ……」
「なにか?」
「いや、なんでもない」
傷から目を逸らす。いくら割り切っていても女性なら体に傷がつくのは辛いはずだ。増えた傷跡は彼への献身の証。それなのに、まだ信じ切れない。
『あなたは、まだ私を裏切らないのか』
傷ついてもなお、私の傍にいてくれるのかと。
ーーーーーー
「黄蟻からの緊急連絡です。『予定変更あり、至急対応を求む。』とのことでした」
またかと眉を顰める。もちろん黄蟻達のせいではない。今回の不正に関する調査は当初から妙に邪魔が入るとは思っていた。その原因は調査対象であった組織が国内の貴族と手を組み、偽りの情報を流していたからだった。貴族については相応の処分を下し、組織については他国へ捕縛を依頼したが逃げられてしまう。そしてせっかく集めた情報も、どれが正しい情報か判断がつかなかったため、信頼性は失われたままだ。
そのタイミングで黄蟻達が掴んできたのが逃げた組織の所在。なんと我々の足元である、帝都に潜伏していることが判明する。
帝都の民を危険に晒す訳にはいかない。不正の内容を公にはできないため、別の罪名を拵えた。そして帝都の表を守る警ら隊の一部と連携し、黄蟻が紫家の私兵を率いて捕縛へと向かったのだが。
「何があった?」
「警ら隊に不慣れな者が混じっていたようですね」
組織の者に所在がバレただけでなく、その場で激しい戦闘となったらしい。おかげで裏から補佐するだけのはずであった黄蟻達が表の戦闘に巻き込まれた。あまりの不手際に介入せざるを得なかったと言うべきか。相手の戦力もなかなかのもので、秘密裏に鎮圧するには手が足りない状況になりつつあるとのこと。
「藍家は何をしている。」
紫家は帝都を裏から守護するならば、藍家は帝都の表を御する。それに照らすと確かに発端は裏からだが、今回の案件に限れば秘密裏に表が処理すべきもの。状況がわかるのなら即時介入すべきだろうに。
「どうやら警ら隊の一部が藍家のやり方に反発したようですね。」
先頭に立つのがどうやら藍家の者らしく、余計に現場が混乱しているらしい。黄蟻には『不測の事態には介入を許可』してはいたが、状況が藍家にとって悪すぎる。場合によっては藍家の者に彼らが排除されてしまうかもしれない。
「今動かせる兵は?」
「通常の半分ほど」
「私が直接指揮する、ついてこい」
姿を消した彼に構わず支度を済ますと使用人に声をかけ部屋を後にする。こんなことになるなら、はじめから同行しておけばよかった。黄蟻の有能さに甘え、読み誤った自身の落ち度だ。
そして今更ながら気がついた。
自分が誰かに甘えるなど、かつてあっただろうか。
背中を冷たい汗が伝う。なんてことだ。このまま彼女を失うかもしれない。移動しながら報告を受け各所へ連絡要員を走らせる。そして到着した時、視界に飛び込んできた光景に血の気が引いた。
潜伏先の館はすでに制圧されている。粛々と事後処理を行う者とは別の場所で、それは起こっていた。
警ら隊の制服を着た多数の男達。彼らは暗色の服を纏う者を包囲していた。その輪の中心には、同じ暗色の服を身に纏う者達を従えた人物が臆することなく立っている。
黄蟻だ。
彼女に向かい、今まさに剣が振り下ろされようとした、その瞬間。
「黄蟻!」
その声に彼女が驚き目を見張る。悪手だと、叫んだ瞬間に悟った。しかし彼女は難なく剣先を躱し十分に距離を取ったところで、こちらへ礼の姿勢をとる。
「主様。お手数をお掛けいたしまして申し訳ございません」
「かまいません。それより皆無事ですか?」
視線を巡らせると皆一様に首肯する。やがて騒ぎを聞きつけたのか近隣の人々が集まってきた。
「あとは処理しておきます、速やかに帰還を」
「かしこまりました」
「勝手な行動は許さん!」
止める声に応ずることなく、黄蟻達は瞬く間に身を翻すと群衆の死角から闇へと溶けていった。それを確認して彼らを囲んでいた一団の責任者と思われる男へと視線を投げる。彼は小さく舌打ちすると睨むような視線をこちらへ向けた。ずいぶんと血の気の多い男のようだ。
「あなたが主か。ならば聞かせてもらおう、なぜ我々の邪魔をしたのか」
「尋問する前に身分を明らかにするのが筋というものでしょう?」
「俺は藍家所属、帝都第一部隊隊長」
「私は紫家次期当主です」
身分を示す装飾品をわずかに掲げる。その瞬間、場が凍りついた。
「私も聞かせていただきたい。誰の指示を受け、このような失態を犯したのか」
「そ、それは……」
「場を移しましょう」
これ以上騒ぎになれば、事後処理が面倒になる。配下の数名に現場の処理を指示し、場を後にした。行き先は最寄りの待機所、着いた途端に一人の男が立ち上がる。
「随分と手間取ったようだな。……その人物は?」
藍は青と黒より生ず。鍛え上げられた肉体と黒と青を混ぜたような独特の色合いを持つ瞳。誰よりも藍家の特徴を示す彼は間違いなく直系。
「藍家の方、ですね。」
「はじめてお目にかかる。藍家筆頭、藍俊熙と申す。」
筆頭ということは彼が長子ということか。藍家は跡を継ぐ男子が複数いる場合、次期当主を定めないとしている。互いに能力を競わせ、誰が後継に相応しいかを見極めるためらしい。三人いるとされる息子の中でも長子は藍家らしい潔癖で生真面目な質をしていると聞く。彼らは当主となるまで表向きには姿を現さないはずなのだが。さて、その彼がなぜこの場所に?
「私は、紫鄭舜と申します」
「あなたが紫の次期当主…。そうですか、これはご無礼をいたしました」
その言葉にわずかな棘があることに気がついた。次期当主ともなれば筆頭よりも立場は上。同じ長子でも生まれた家が違うだけで立場に差が生ずる。それを理不尽だとでも思っているのだろうか。
「それで彼らに指示を出したのはあなたですか?」
「如何にも」
「ではこのような騒ぎを起こした理由についてお聞かせ願いたい」
「家人の罪は家の責任。それを家が始末をつけるは当然のことゆえ」
「それは今回の件の裏に何があるのかご存知の上でということですか?」
「勿論です」
表情を変えることなく言い切った。保身を捨て、頭ひとつ抜き出るための勝負に出たのだろう。ならば覚悟はできているということなのかもしれないが、それだけでは足りない。
「藍家当主はあなたの行動をご存知なのか?」
わずかに表情が揺れ、藍俊熙は視線を逸す。当然許されないだろう、と思う。紫家が藍家当主と話をつけた段取りに余計な手出しをすることになるからだ。
実は今回の件、手を組んだとされる国内の貴族は藍家の親族であった。
そこから情報が漏れたせいで捜査に邪魔が入っていたのだが、取り締まる側の身内が罪を犯したとなれば民の間で不安が高まり、他国の余計な手出しを受けるかもしれない。それゆえに全てを秘密裏に処理することとした。当事者含め関係する者は家名を剥奪し処分。その処分に人命が含まれることは言うまでもない。
「御当主がご存知ないのであれば話になりませんね」
「だが当主が家人の罪を隠すような組織に未来はない! そうは思われぬか、紫家次期当主!」
あなたも同じ苦労をなされただろう、その言葉が過去の記憶を呼び覚ます。
『父上のやり方が家人を腐らせるのです』
そう言い捨てたあの時、父はただ無言で苦い表情を浮かべているだけだった。時間が経ち、気持ちに変化が生じた今なら別の言い方を選んだだろうに。権力を持たないあのときは、きつい言葉で諫めることしかできなかった。だけど、今は。
「私は進言を却下されたことは一度もありませんよ」
「しかし、それは次期当主だからであって!」
「今回の件、きちんと処分されるなら公表しようが隠そうがかまわない。私はそう思います」
同じ苦労をしたからといって、同じ考えにたどり着くとは限らない。もし紫家の人間が情報を漏らしたのならば、容赦なく切り捨てるだろう。それに黄蟻という武器を手に入れた今は、わざと泳がせて、裏にいる大物を捕らえ手柄とすることすらできるかもしれない。
当主一人納得させられなければ、一族を束ねるなどできるはずもない。誰の目から見ても自身が正しいと思われる状況を作り出すこと。そうでなければ、今の紫家で次期当主の座は務まらないのだ。
「あなたの今後は藍家が判断される。速やかに家へ戻られよ。さもなくば紫家次期当主の名のもとに、あなたを藍家御当主の元へ連行せねばなりません」
「まるで罪人のような扱いではないですか!」
帝都第一部隊隊長を名乗る男が食いついてきた。熱くなる質の男は本当に厄介なものだ。ふと黄蟻の混乱にあっても乱れることのなかった表情を思い出す。彼女は無残に斬られてもかまわないとばかりに、口元にわずかばかりの笑みさえ浮かべていた。
自らの命など不要とするあの態度。胸の奥が熱く滾る。
――――勝手に死ぬなど、誰が許した。
「ならば、なぜあなたはあの者を斬ろうとしたのです?」
黄蟻の命を絶とうとした、もっとも許しがたい男へと冷えた眼差しを向ける。こちらの言う事に理解を示さず、場違いなまでに訝しげな表情を浮かべた彼を見て納得した。
この程度の常識も知らないらしい。力だけでのし上がったか、金を使い藍家の者に取り入ったか。いずれにしてもこの男を大切な局面で使う程、人材に恵まれていないというなら、筆頭とされているが俊熙は確実に跡継ぎではない。ならば跡継ぎは残る兄弟のどちらか。冷静になれば解答は思いの外、簡単だった。
すでに見限られているのか、彼は。
そう思うと同時に訝しげな表情を浮かべる藍俊熙の姿に納得する。この部下にしてこの主だ。なにも知らないのだろう、あの場所で起きたことを。予測不能な展開の起こりやすい現場に見張りを置くなど定石。
「斬る、誰をだ?」
「彼は当家の者を斬ろうとしたのですよ。彼らの不手際から組織の者に見つかり、その場で激しい戦闘となったため裏から補佐するだけのはずであった当家の者が戦闘に介入せざるを得なかったのです。相手の戦力もあり、秘密裏に鎮圧するには困難な状況になりつつあるとのことで私へ報告がきました。駆けつけてみると彼が当家の者に剣を振り上げていたのです。」
「な……何ということを!」
それまでは自信に満ち溢れた藍俊熙の表情が驚きのあまり崩れる。それもそうだろう。彼の部下は越えてはいけない一線を踏み越えようとしたのだから。
「家人の罪は家の責任。それを家が始末をつけるは当然のことでしたね、藍俊熙殿」
「ですが、それには理由があります!」
立場を悪くしたことを察したのか、男が必死の形相で言い募る。全く理解できていない様子に思わずため息をつく。
「理由など関係ないのです。」
「は?」
「両家の話し合いなく、一方的に他家の人間を処罰することは敵対する意思表示とみなされる。あなたの行為は藍家が紫家を敵とみなしたと判断されても仕方のない行為なのですよ」
「しかし、それはあの者が名乗らないからで……」
「介入する際、紫家の者であると所属を明かしたと聞きましたが?」
「いかにも怪しげな態度をしていて、それでも信用せよと申されるのか!」
「馬鹿者っ! 怪しいというだけで斬ろうとした行為が問題なのだ!」
天井を震わせながら怒号が響き渡る。入り口を見れば筋骨逞しい威丈夫が肩を震わせ怒りの表情を浮かべている。
……やっと到着されたか。荒く吐いた息を整えているところを見ると慌てて駆けつけてきたらしい。本当に知らなかったのだ、ということは察せられた。
「お待ち申し上げておりました、藍家御当主」
「手を煩わせ申し訳なかった。紫家御当主には改めて謝罪させていただく」
恭しく礼の姿勢をとると、軽く礼を返された。それから呆然と立ち尽くす藍家の者を家人に指示し連行していく。やがて部屋には御当主と藍俊熙だけが残った。無言のまま、後ろ手に扉を締める。
その場でどのようなやり取りが交わされたかは知らない。だが再び彼と会うことはないだろう、それだけはわかった。
騒動のあった館へと戻り事後処理の進捗を確認した後、家人を先に帰し、夕闇の帝都を歩く。選択を誤ったとはいえ、藍俊熙のたどった道は自らの選んだ道筋とも重なる。他人の忠告が聞けなかったのか、もしくは届かなかったのか。藍家ほどの組織が人材に乏しいわけはない。自身に選択肢がなければ、他者を頼りにしてもかまわないというのに。
彼には他に選ぶ道はなかったのだろうか。
気がつけば、ずいぶん歩いたようで花街に繋がる大通りへと差し掛かっている。花街は色と情、怨と念が渦巻くところ。自分には他者への仕掛け以外に用のない街と足を向けたこともなかった場所。店先の提灯がぼんやりと闇を照らしながら揺れた。
「旦那、遊んでいきませんか?」
思考を遮るように遊女がするりと腕を絡めた。ほのかに薫る香油、甘えるようなゆるい口調、ほつれた髪が肌をくすぐる。
「そんな姿もするのですね、黄蟻」
「失礼いたしました。ですがこの場では一番目立たない姿故にご容赦ください」
「華やかな服装も似合いますね。灯りの下で全く別人のように思える」
「装いだけです。体に傷のある者など花街にはおりませんし、そんな女は誰も欲しがりません」
珍しい。彼女が自身の感情を込めた台詞を紡ぐのは。黄蟻は口調を改めているが絡めた腕はそのままだった。二人、ゆっくりと通りを歩く。
「主様、発言をお許しいただけますか?」
「珍しいですね、何でしょう?」
「私を帝……劉尚様の元へお返しください」
珍しく発言を求めたと思えば、何を。呼吸を忘れたように彼女を見つめる。暗がりの中で、彼女の表情は伺えない。だが静かに伝えられた思いは違う角度で心に刺さる。
「私が主に相応しくないというのですか?」
「そうですね。あなたは噂と違い、優しい方のようですから」
「優しい?」
「私の体に傷がつくたびに、あなたは苦しむ。それを優しさ以外になんと呼ぶのでしょう?」
「あなたは女性だ。その体に傷がつくことが悲しくないとは言わせない」
「肉体を盾に主を守ることもあります。それを女性だからと憂うのは、あなたが弱いからでは?」
「私を弱者と評すると?それはまた傲慢な台詞だ」
「何とでも。少なくとも劉尚様なら私を正しく使ってくださる」
言葉を交わす時、肌でわかるものだ。その言葉に、どれだけの思いが込められているのか。これは気持ちの伴わないただの言葉の応酬。だがその言葉が虚しさで冷え切った心に怒りと言う名の血を注ぐ。その瞬間、凍らせたはずの魂に火がついた。
自分以外の誰にすがろうというのか?
彼女が演じる遊女の枝垂れかかる腰に腕を回す。優しく引き寄せ、彼女の耳元へ唇を寄せる。それは傍から見れば男が女に愛を囁いているかのように見えるだろう。だけど実際は獲物を逃さぬよう拘束するためのもの。
「逃げるのですか?」
逃げようとしても、もう遅い。いまさら逃がすわけなどないというのに。
「逃げられるのですか、黄蟻?」
もう一度、問う。その答えは本人がよくわかっているはず。彼女の耳元で小さく嗤った。伏せた彼女の睫毛が、ふるりと揺れる。
「逃げるなど、あなたの揶揄する弱者と同じでしょう?」
「ならばあなたから捨ててしまえばいい」
「そんな理もない、子供みたいな台詞を……」
「こうして再びあなたに生かされ、無様でもあなたの側で生き続けなければならない。そのことが……」
「そのことが?」
「何よりも……苦しいのです」
腰に回す腕に、思わず力を込める。戦い、その果てに死ぬことが生きる目的となってしまったのか。だから彼女は死地に赴く時ですら笑みを崩さない。わずかに声を震わせて黄蟻は語る。
『僕の分まで生きて、姉さん』
それが弟の最後の願いだという。どれだけ死を望もうとも、背負う思いが死なせない。いや、死ねないのだという。はじめて見る弱気な彼女の表情は痛みを伴ってなお、美しかった。吸い寄せられるように唇へ喰らいつこうとすると、抗う彼女の強い視線に射抜かれる。
「私は武を誇る一族の生まれ。家のために戦い死ぬことこそ誉れと教えられてきました。ですが守るべき家は滅び、家族も失っているのに、何のために生き、なぜ戦いつづけるのかわからないのです。守りたいものを失ったまま生きることがこんなにも苦しいなんて思いもしなかった」
家が滅び家族が死したあとも、彼女はずっと戦い続けていたのか。瞳に浮かんだ自身の残像が揺れる。家の誇りのため、そして死した家族の願いために戦い生き続けなければならない。だけど愛しているものは失われたままだ。
なんのために、戦うのか。目的を見失ったことこそ彼女が死に囚われる理由。
「ならばその命を、私と紫家のために捧げてくれませんか?」
「それは……今の状況と何ら変わりはありませんが?」
「その代わり約束しましょう。約定を果たしたのち、それでも死にたいと願うなら私がこの手であなたを殺します」
抱き寄せられたまま彼女が目を見開く。見知らぬ誰かに奪われるくらいなら、私があなたを殺す。思いの根底にあるのは、執着。こんなにも歪んだ思いを愛とは呼べないだろう。ならば歪んだままに、彼女を自身に縛り付けてしまおう。
帝にも、国にも、運命であっても奪わせない。それを本人に言わないのは、囲い込むまえに逃げられてしまうと困るから。
『私の婚姻相手に関して家柄は重視しません。紫家のために生きてくれる覚悟のある方である方であれば』
かつて自分が戯れに告げた理想が現実のものとなる。それほどに彼女の捧げてくれる命が欲しかった。
愛など知らない。両親に与えられた記憶がないから。だからあなたに与えることができるのは愛以外のもの全て。
「さあ黄蟻、あなたの答えを」
次話からが黄蟻のお話です。