ぼくの怖い話
夏休みのあの日。ぼくは、この世で何が怖いかを知った。
ぼくはあの日の事を思い出しただけで、ぞっとするんだ。
■
平成三十年の八月十三日。
この日からお盆という事で、ぼくら家族は朝から電車を乗りついで、お母さんの実家にやって来た。三泊の予定で。
ぼくはよく知らない人に囲まれるのが苦手だし、サッカーの自主練習もたくさんしたかったから、三泊もしたくなかった。ぼくだけ一泊で帰るよって言った。
だけどお母さんに「駄目」って止められたんだ。
「子どもが一人で留守番なんて。それにあなたも羽海も、お盆にこっちへ来た事ないんだし……ゆっくりしましょう」
ぼくはもう小学校五年生なのにな。説教を聞きながら、何度もそう思った。
三泊予定のお母さんの実家は、昔からあるお家で、広い。
母屋と呼ばれている家と、離れと呼ばれている家と。二つも家がある。母屋の方が大きい。
「よく来たねえ」
おばあちゃんがぼくらを、母屋の玄関で出迎えてくれた。
ぼくら家族は、親戚の中では遅い到着のようだった。玄関のたたきには、たくさんの靴があふれていた。男物、女物、赤ちゃんのや、いとこの高校生のもの……。
母屋に入ると、親戚達が外のひぐらしより賑やかな声で、話していた。
お母さんは荷物を置くと『迎え火の準備』とやらを手伝いに、外へ行った。
ぼくは仏壇の前に座ると、こっそりお供えをくすねてから、お祈りした。
「なんだか、おばけとか出そうだよね。こういうの」
妹の羽海が隣に来て、ひそひそと言った。目はきらきらしていた。
こういうのって、目の前にある仏壇の事だろうか。
「出ないだろ」言ってやった。
「羽海、見たよ。お兄ちゃん、さっきおまんじゅうを勝手に取ったでしょ」
「一個だけだよ。もう、うるさいな」
「悪いんだぁ。たたりにあっても、知ーらない」
羽海がさもおかしそうに笑った。
小学校一年生の羽海はおまじないと怖い話に夢中で、ぼくにもすぐそんな話をする。
「羽海ちゃん、こんな事は知っている?」
いとこの高校生のお兄ちゃんが、ぼくらのそばに座った。
「お盆って『ウラバンエ』って言葉が、日本で短くなったものなんだよ」
「うらばえん?」
「ウラバンエ。これは古いインドの方の言葉で『逆さづりにされて地獄で苦しむ』って意味なんだ」
羽海がぽかんと口を開けた。ぼくは、嘘っぽいなと思った。
「餓鬼道……とても汚い地獄で、ごはんもお水ももらえないで苦しむ人がいたんだよ。ずっと逆さ吊りのまま」
いとこの話はおしゃか様に助けてもらう所まで続いたが、羽海は、地獄の怖さしかぴんと来なかったようだ。
羽海は、ぶんぶんと、首を横に振った。
「もうやだ」
「じゃ、どこかに行けよ。馬鹿羽海」
「……お兄ちゃんの方が馬鹿だ!」
羽海が、外にいるお母さんの方に走っていった。
ぼくはそれからしばらく、いとこのお兄ちゃんと、勉強や学校の話をしていた。
そうしたら、どこかから変な声が聞こえてきたんだ。
ぼくは不思議に思って、耳を澄ませた。少ししわがれた声だった。知らない声。
――クーギョー。
「……誰?」
ぼくは辺りを見回した。知らない人だらけで、声の持ち主がわからなかった。
――クーギョー。
「ねえ、クーギョーって何?」
「え、なに? 苦行?」
聞いても、いとこのお兄ちゃんは首を傾げるだけだった。クーギョーって声、聞こえなかったのかな?
ぼくはだんだん不気味に思えてきて、壁際にいるお父さんへと走った。
お父さんは麦茶のコップを空にして、おかわりを頼んでいた。暑がりのお父さんは、もう汗だくだった。
ぼくは背筋が寒かった。
「お父さん、誰かが変な事を言ってるんだ。止めて!」
ぼくはお父さんの肩を揺らした。
お父さんはうちわで体をあおぐのに夢中で、まともにぼくを見なかった。
耳にもう一度、変な声が聞こえてきた。声は後ろの方からした。
おそるおそる振り向くと、部屋の隅に、とても怖い顔をした男の人が座っているのを見つけた。
親戚一同が騒ぐ中で、浴衣姿の老人は、誰とも話していない……。
鋭い目はぼくを見ている。すごく怒った顔で、すっくと立ち上がり、こちらに来る。
足音はしなかった。
「お父さん!」
「触るな。暑い暑い」
ぼくはおびえた。だってお父さんもいとこも、見えていなかったから。
ぼくにしか、足元が透けている老人は見えていなかった。
――クーギョー。
老人がぼくの前まで来た。近くで見ても、やっぱり足元が透けている。
ぼくは手の汗を、ぎゅっと握った。
「く、来るな。恨まれる事なんてしていない」
ぼくは精一杯の声を出した。
「……ぼくは、お前なんか全然知らない!」
老人はますます怒った顔をしたが、その後にすぐ、すぅっと消えた。跡形もなく。
「どうしたぁ」
「い、今、変なおじいちゃんがいて。それですぐにいなくなって……!」
今にも泣きそうなぼくの側に、お母さんが近づいてきた。外の用事は終わったようだった。
「誰の事が『変なおじいちゃん』で『全然知らない』人なの? ここにいるのは、みんな、あなたの親戚の方々よ」
しわがひどい怒り顔。お母さんが説教する時の顔だ。
「……羽海に聞いたわよ。さっき取った仏壇のお供え、今すぐ返しなさい!」
ぼくはお母さんが嫌になった。
お母さんはもちろん、つげ口をする羽海や、頼りにならないお父さんとも、一緒の部屋で寝たくないと思った。
正直にそう言ったら、勝手にしなさいと言われて、ぼくは一人、仏間の隣の部屋で寝る事になった。
仏間は、仏壇がある所。
仏壇には金色の仏像が飾ってあって、お盆の時期は割りばしを刺したナスとキュウリを、側に置くみたい。
いつも線香の臭いがする部屋。日が暮れる前に『クーギョー』って繰り返す老人が出てきた部屋でもあった。
ぼくは布団に入る前に、仏間へのふすまを、しっかりと閉めた。
夜の九時に、ぼくはカビ臭い布団に入った。畳からは変な草の匂いがしていた。
枕が変わると眠れない。早く自分のベッドで、すやすや眠りたい……。
布団の中で、クーギョーのおそろしい顔や、『たたられても知らない』と話す妹の嫌な笑顔を、何度も思い出した。
しばらくは目がさえていたけれど、やがてぼくはうとうとしだした。何時ごろかはわからない。
「痛っ」
ようやく眠れそうだった時に、ちくりとする痛みを頬に感じた。叩いたら、何かがつぶれた。
電気をつけずに目をこらしてみる。ぼくがつぶしたのは一匹の蟻だった。
小さくてすぐ噛む蟻、たぶんアミメ蟻だ。部屋が暗くてよく見えないけれど、きっとそうだ。
蟻の死体なんて放っておいたら、またお母さんがうるさいから。すぐに捨てようと、思った。
だけどゴミ箱はこの部屋にはなくて、隣の仏間にあった。
夜に、仏間には入りたくない……。ふすまを開けるのだってごめんだ。
そう考えたぼくは、ゴミ箱をあきらめて、蟻を窓から捨てる事にした。
そうしたら。
古い形の鍵を回して、窓を開けたら。びゅうっと湿った風が入ってきた。外が雨だと知った。
雨で手が湿ったせいで、蟻はなかなかぼくの手から離れなかった。ぶんぶん手を振ると、どんどん手が濡れた。
やっと蟻が取れたころ、ぼくは異変に気がついた。
何だか入ってくる風が臭い。魚が腐った匂いみたいだ……。
ぼくは変な風を中に入れたくなくて、すぐに窓を閉めた。
そして鍵を閉めてる時、窓のガラス面に、何か変な物がついているのを見つけた。暗闇の中、もぞもぞと動いている。
ぼくは虫がいるのかと、かんちがいした。大きな蜘蛛か。蟻がいたし、たった今、蛾が入ったのかもしれないと。
そしてそれを、目をこらして見てしまって――悲鳴をあげた。
窓のガラス面についていたのは、動物の口元だった。
ぼくが怖くて止まっている間に、みるみる窓を突き抜けて、真っ黒な動物が部屋に入ってきた。
そしてぼくの事を黄色い二つの目で見て、アーオと鳴いた。
……黒猫だ。
……どうして黒猫が、夜に部屋に入ってくるの? ぼくが閉めた窓をすり抜けて!
黒猫は部屋をぐるぐる回り、何度も鳴いていた。
ぼくはもう嫌になって、布団にもぐった。目をつぶった。蟻にさされた所は、だんだんかゆくなってきた。
耳をふさいでも猫の鳴き声は聞こえてきた。そして、外からはあのしわがれた声まで。
――クーギョー。
――サ……ヨ……コイ……。
声は外の方から聞こえてきていた。
それでもぼくは、ふすまをすり抜けた老人がすぐ側に立っているような気がして。
声が聞こえなくなっても、明け方まで眠れなかった。
八月十四日。ぼくはおばけによる寝不足からか、高熱を出した。
四十度近い熱で、昼から何も食べられなくなった。
脱水症状にならなかったら『様子見』でいいんだそうで、水が飲めるぼくは病院には連れて行かれなかった。
家族で遊びに行く予定があったけれど、それはお流れになった。
八月十五日。ぼくの高熱はまだ続いた。
この日は『終戦の日』で、テレビは朝から晩まで、昭和の戦争の事ばかりだった。
白黒で映る昔は辛いもので、おばあちゃんは静かに千羽鶴を折っていた。
お母さんは庭で羽海にかまっていて、お父さんはおじいちゃんのミカン畑の手伝いをしていた。
ぼくはすりおろしたりんごを、夕方に食べた。
そして八月十六日を迎えた。
たくさんいた親戚は、この日の朝、ほとんど帰って行った。
ぼくら家族も、この日に帰るはずだった。だけど明日の十七日に予定をのばした。
ぼくの熱が、まだ完全に下がってなかったから。
羽海が『遠くに遊びに行きたい』と言い出したので、困ったお母さんは、羽海をおじいちゃんのミカン畑に連れて行く事にした。お父さんも一緒。
親戚で残っている人達は、隣町まで買い出しに行く。
ぼくとおばあちゃんだけ、母屋の家で留守番だ。
『一番大きなミカン、お土産に取ってくるからね』って、お母さんに言われた。少し嬉しかった。
「良くなった?」
「うん」
お昼過ぎ。ぼくは布団の中から、はかり終わった体温計をおばあちゃんに渡した。
三十七度三分と画面に映っている。
「明日には、家に帰れるかも」
「良かったねえ。私はいつまでも、いてくれていいんだけど」
「……うん」
おばあちゃんは優しくて、本当は熱があっても帰りたいなんて、言えなかった。
ぼくのお腹が鳴った。
おばあちゃんはくすっと笑った。
「お腹すいたみたいね」
「う、うん」
「卵が入ったおかゆ、作ってこようね」
おばあちゃんは台所に行って、寝間着姿のぼくは布団をかぶり直した。
「あら、もう醤油がない。買い置きは、どこだったかな」
物を探す小さな音と、おばあちゃんの鼻歌が、台所から届いてきていた。
ぽつ、と、外から音がした。
雨だ。黒い雲が、空一面に広がろうとしている。これからもっと降りそうだ。
おばあちゃんがおかゆを作るのをやめて、洗濯物の心配を始めた。
「天気予報では、一日、曇りだったのに」
洗濯物は『離れ』の家の奥に干してある。
「ちょっと離れに行って、お洗濯物を取り込んでくるわ」
「ぼく、手伝うよ」
「熱がある子が何を言ってるの。休んでなさい」
おばあちゃんは「すぐ済ませるからね」と。
ぼくを置いて母屋の家を出ていった。
小雨が降り出した。
ぼくは窓からその景色を眺めていた。その内、どうにもトイレに行きたくなった。
おばあちゃんが帰ってくるまで我慢しようか、少し悩んだ。
トイレ。あんな狭い所でおばけに会ったらすごく嫌だ。でも……。
昨日も一昨日も、怖い老人『クーギョー』も黒猫も、ぼくの前に現れていない。
それにぼくは一昨日までは、おばけに会った事がなかったんだ。
もう大丈夫な気がして、ぼくは一人の時にトイレへ行った。
水を流し、手をふいた。
トイレの鍵が古くて、閉めたはいいものの、ぼくは開けるのに苦労していた。
ふと外が見える窓から、小雨の静かな音を打ち消す、足音が聞こえてきた。泥と砂利を踏む音。
最初はおばあちゃんかと思った。
足音が近くなって、これはおばあちゃんじゃないって、気がついた。歩き方が違った。
ぼくは嫌な予感がして、トイレの鍵から手を離した。
からからと扉を開く音がして、次に、どん、どん、と家にあがり込む音がした。
大股で歩く音がするたびに、みし、みし、と廊下の床が鳴っていた。
……おじいちゃんやお父さんの足音でもない。そもそも普段、こんな重そうな音はしない。
これは靴のまま、床を歩く音だ。
足音はぼくがいるトイレを通り過ぎ、向こうから布団をめくる音がした。
「ここでもないか」という知らない男の声と、舌打ちが廊下に響いた。
ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。
泥棒、という言葉が頭に浮かんだ。
知らない乱暴そうな男が、家に入って来ていた。
ぼくは動けなくなった。
ただ怖かった。
怖くて体は動かないのに、頭は悪い方にばかり動いていた。
――トイレにいても、いずれ気づかれそうだ。こんな古い鍵なんて壊されるんじゃ?
あの泥棒はぼくを見つけたら、どうするだろう? どうしたら見つからない?
音からすると、あの乱暴そうな泥棒は、今はすぐ近くの部屋にいる。
トイレの窓には、格子がついている。
この家はとても広いから、窓や玄関まで走ろうとしても、大人の足に追いつかれそうだ。
……駄目だ。震えが止まらない。
やっぱり静かにトイレにいてみる? それでぼくが助かったとしても、優しいおばあちゃんが帰ってきたら?
涙が出る。このままでは音が出て、気づかれてしまう――。
ぼくは目を閉じて、その上から両手で顔をふさいだ。
狭いトイレが地獄に思えた。ぐるぐるぐるぐる嫌な考えで頭がいっぱいになって、もう助からないとすら思った。
その時、大きな電話の音が、トイレの外で響いた。
ぷるるるる。ぷるるるる。
ぼくの家より大きな音量の、家電話の音が、廊下を鳴り響いていた。誰がかけてきたんだろう……?
あ。『おばあちゃん、おじいちゃんは耳が遠いから』って大きい音に設定したのは、お母さんだったな……。
ぼくの嫌な考えは、電話の音でいったん止まった。
「うるせえな」口汚い男は、ぼくの近くの部屋から出て、たぶん電話の方に行った。
ぼくが閉じていたまぶたを上げると、透けている足元が、目に飛び込んできた。
骨ばった足首と、浴衣の裾。
いつの間にかあのクーギョーが、トイレの中に入っていた。
ぼくは顔をあげた。
おとといよりももっと怖い、すごい顔を見た。横顔だった。
クーギョーはぼくの方じゃなくて、扉の後ろを向きながら、無茶苦茶に怒っていた。怒りで震えてすらいる。
ぼくはそれを見て、胸の奥がじんわり温かくなった。
おびえて泣いている子どものぼくとは違う。鬼の形相が、その時の天の助けだった。
ぼくはクーギョーに言った。
「たすけて」
クーギョーはぼくにだけ聞こえる声を出した。
――スイジバ。
ぼくは涙をぬぐって、大きく頷いた。すいじばって、台所の事だ。そこに行けって言ってるんだ。
集中したら、あまり音を立てずに鍵を開ける事に成功した。
電話が鳴っている内がチャンス。男はまだ電話の近くにいるらしい。
もう残り時間が少ないのはわかる。だから。
ぼくはこの時、ただクーギョーを信じて進んだ。
台所に到着して、すぐ次に何をすればいいかがわかった。床下収納庫の扉が、外れていたからだ。
おばあちゃんが醤油を探したままの台所は、収納のユニットが丸ごと出したままだった。
そして床下に続く扉は、ぽっかりと開いていた。
ぼくは暗さと汚さにためらわず、床下にもぐった。扉は内側から閉めた。少し音とほこりが出た。
床下にもぐって、真っ暗な闇に包まれた時、長く鳴った電話の音が切れるのを聞いた。
クーギョーは、ついてこなかった。そして怖い足音も、ついてこなかった。
どうやら気づかれなかったようだ。ほっと、息をはいた。
そして暗闇の中で、きつくなってきた雨音と、猫の鳴き声を聞いた。
魚の匂いがする。……あの黒猫が、ぼくの側に来たらしい。
真っ暗に目が慣れて、透けた黒猫の体の線が見えてきた。同時に、遠くが小さく光っている事に気がついた。
黒猫は光の方に、音もなく歩いていった。ぼくはそれを四つん這いで追って、木の棒に当たった。
そして床下の通気口――格子はついているけれど、傘を差したおばあちゃんが見える場所――に、到着した。
黒猫は通気口の格子をすり抜け、雨に濡れない方へと行った。
ぼくは床下で見つけた棒を通気口から出して、振った。おばあちゃんがそれに気づいた。
おばあちゃんが家に入る前に、ぼくは異変を知らせられた。
警察が来てくれて、すべて解決したのは、八月十六日の夕方。
ちゃんとお礼を言おうとした時には、黒猫も、クーギョーも、ぼくには見えなくなっていた。
八月十六日は、この地域のお盆の最終日。
里帰りしてきたご先祖様達が、あちらへ帰る日だった。
警察からの事情徴収とか、病院での検診とか。
事件の後はいっぱいやる事あって、家に帰る日は八月の十七日でも、十八日でもなくなった。
「ユキちゃんとこの息子だったか。初盆なのに、親不孝な事したなぁ」
「ねぇ。あの息子さん、去年に身寄りをなくしてから一人暮らしで。……可哀想な人なのかもねえ」
近所の人達が、あの日の犯人についてひそひそと話している。ぼくは仏間の隅でそれを聞いてしまっている。
「いい加減にしてください。いくらなんでも、無神経すぎるでしょう」
お父さんが止めてくれた。
八月十九日の日曜日。ぼくら家族は家に帰る朝を迎えた。
荷物をまとめたぼくは、仏間の壁にかかっている、先祖代々の写真を見上げていた。
左隅の方に厳しい顔のおじいさんがいるのは、十六日から知っている。
「あれはね、私のおじさんよ」
ぼくがその人を見ていると、おばあちゃんが教えてくれた。
「なんて名前の人?」
「えっと……トモハル。戦国武将のオダトモハルと、同じ漢字」
『朝』に『治める』って書いて、トモハルって読むんだそうだ。知らなかった。
「ぼくとも、血がつながってるんだよね」
「もちろん」
「おばあちゃん……この人って、猫を飼っていた?」
「おや」
おばあちゃんが目を丸くした。
「どうしてそう思ったの」
「見たから。実はぼくあの時に、この人に助けてもらったんだよ」
「まあ」
「この人と黒猫が、ぼくを床下に案内してくれたんだ」
「そうなの。それは本当に本当に、良かったわね」
おばあちゃんは、ぼくを優しく抱きしめた。
そして、それなら話してもいいかねぇ、と。厳しいおじいさんの写真を、壁から外した。
「私のおばちゃん……この人の奥さんに、内緒で聞いた話なんだけどね」
おばあちゃんが写真が入れてある額縁の、裏板を、そっと外した。
裏板と立派な肖像写真の間には、手のひらくらいの写真が、隠してあった。
それは厳しい顔のおじいさんが、黒猫を抱っこしている写真だった。
「この写真を、内緒で入れておいてくれってね。生前に言い残したそうよ」
写真の裏には『小夜子と』と、筆で書かれていた。
「小夜子は畜生じゃない。大事な家族だからって」
おじいちゃんが、仏壇のお供えを袋に入れてくれていた。おさがりってやつだ。
そばでは妹の羽海が、どんなお菓子や果物がもらえるのかと、そわそわしている。
羽海は七歳になったばかりで、ぼくから見ても小さい。そして女の子だ。
あの時に熱を出して家にいたのが、ぼくで本当に良かった。
「羽海ちゃん、何が欲しい?」おじいちゃんが聞いた。
「りんご」
「はて。ギンゴ? そんなお菓子あったかな」
「違う。り。りー、んー、ごー!」
羽海はおじいちゃんに対して、ほっぺたをふくらませた。
羽海はラ行を言うのが苦手で、「り」は「ぎ」とよく聞き間違えられる。
「ぎりぎり」は「ぎぎぎぎ」って言ってるようになってしまって、たまに同級生にからかわれている。
ぼくは仏壇の高い所からりんごを取って、羽海に渡してあげた。
「兄ちゃんは羽海の味方だからな」
「ありがとう。お兄ちゃん」
羽海がにっこりして、赤いりんごを抱きしめた。ぼくはその頭を撫でていて……ふっと、ある事に気がついた。
クーギョー……朝治さんは側に来て、ひとこと言うだけで、ぼくを助けてくれた。
というか、それくらいしかできなかったんだと思う。
だっておまんじゅう一つで、あんな怖い顔をする人だ。もしもすごい力が使える霊だったのなら、あの時もっと早く、なんとかしてくれたはずだ。
生きていても、とても頼りになったはずだ。ぼくの勝手なイメージでは、竹刀とか振り回してくれそう。
……朝治さんの声は、ぼくにしか聞こえなかった。それなら、朝治さんにはぼくの声くらいしか、聞こえなかったのかもしれない。
ぼくは家に帰る前に、きちんとご先祖様とお話する事にした。
『中田空良』と書いてあるサッカーボールを横に置いて、正座をした。
金色の仏像はいつもと同じ場所で、いつも通り、蓮の花に座っていた。
ぼくは鐘を鳴らしてから手を合わせ、そしてぼくの声が天に届くよう、お祈りをした。
――ぼくの名前はナカタソラ。『空』に『良い』と書きますが、クーリョーとは読みません。
――朝治さん、もう読み間違えないでください。次からはソラって呼んでください。
――会った時は全然知らないだなんて言って、ごめんなさい。助けてくれてありがとうございました。
家に帰る日の天気予報は、晴れ。
外に出ると予報通りの青空が広がっていて、少し風が吹いていた。
近くの畑では黄色い向日葵が揺れていて、遠くの山では、青い木々が揺れていた。
お母さんがぼくの手に、そっと触れた。
「………。空良、無理に連れてきてごめんね」
あの日、ぼくの携帯につながらなかったから、お母さんは心配して家に電話をくれたらしい。ずいぶん長い間、鳴っていると思ったら……。
ぼくは仲直りの意味も込めて、お母さんの手を握った。
「大丈夫だよ」って笑った。
「それより来年のお盆もその先も、ここに来ようね。絶対だよ?」
「どうしたの急に」お母さんが目を潤ませた。
だって、ここには朝治さんがいるから。
そして、お盆になればご先祖様や良くない霊が帰ってくる事を、ぼくはもう知ったから。
■
小学校五年生の夏休み。ぼくは、この世で何が怖いかを知った。
八月十六日……あの未遂事件が起きた、お盆の最終日。
警察があの男を捕まえるまで、ぼくは床下に隠れ続けていた。
夕方、雨の中、とても汚らしい男が警察に囲まれて、家から出てきた。
その男はぼくが床下に隠れていた事を知らずに、終わったから。
こんな言葉を叫んでいたんだ。
「畜生。お袋の奴、当てになんねえ。捕まっちまったじゃねえか」
「――病気で寝ている子どもなんて、いなかったじゃないか。あの、嘘つきばばあめ!」
……あの言葉を思い出しただけで、今でもぞっとするんだ。