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児童文学/ヒューマンドラマ/恋愛

ぼくの怖い話

作者: 繭美

 夏休みのあの日。ぼくは、この世で何が怖いかを知った。

 ぼくはあの日の事を思い出しただけで、ぞっとするんだ。


 ■

 平成三十年の八月十三日。

 この日からお盆という事で、ぼくら家族は朝から電車を乗りついで、お母さんの実家にやって来た。三泊の予定で。

 ぼくはよく知らない人に囲まれるのが苦手だし、サッカーの自主練習もたくさんしたかったから、三泊もしたくなかった。ぼくだけ一泊で帰るよって言った。

 だけどお母さんに「駄目」って止められたんだ。

「子どもが一人で留守番なんて。それにあなたも羽海うみも、お盆にこっちへ来た事ないんだし……ゆっくりしましょう」 

 ぼくはもう小学校五年生なのにな。説教を聞きながら、何度もそう思った。


 三泊予定のお母さんの実家は、昔からあるお家で、広い。

 母屋おもやと呼ばれている家と、離れと呼ばれている家と。二つも家がある。母屋の方が大きい。

「よく来たねえ」

 おばあちゃんがぼくらを、母屋の玄関で出迎えてくれた。

 ぼくら家族は、親戚の中では遅い到着のようだった。玄関のたたきには、たくさんの靴があふれていた。男物、女物、赤ちゃんのや、いとこの高校生のもの……。

 母屋に入ると、親戚達が外のひぐらしより賑やかな声で、話していた。

 お母さんは荷物を置くと『迎え火の準備』とやらを手伝いに、外へ行った。

 ぼくは仏壇の前に座ると、こっそりお供えをくすねてから、お祈りした。


「なんだか、おばけとか出そうだよね。こういうの」

 妹の羽海が隣に来て、ひそひそと言った。目はきらきらしていた。

 こういうのって、目の前にある仏壇の事だろうか。

「出ないだろ」言ってやった。

「羽海、見たよ。お兄ちゃん、さっきおまんじゅうを勝手に取ったでしょ」

「一個だけだよ。もう、うるさいな」

「悪いんだぁ。たたりにあっても、知ーらない」

 羽海がさもおかしそうに笑った。

 小学校一年生の羽海はおまじないと怖い話に夢中で、ぼくにもすぐそんな話をする。


「羽海ちゃん、こんな事は知っている?」

 いとこの高校生のお兄ちゃんが、ぼくらのそばに座った。

「お盆って『ウラバンエ』って言葉が、日本で短くなったものなんだよ」

「うらばえん?」

「ウラバンエ。これは古いインドの方の言葉で『逆さづりにされて地獄で苦しむ』って意味なんだ」

 羽海がぽかんと口を開けた。ぼくは、嘘っぽいなと思った。

餓鬼道がきどう……とても汚い地獄で、ごはんもお水ももらえないで苦しむ人がいたんだよ。ずっと逆さ吊りのまま」

 いとこの話はおしゃか様に助けてもらう所まで続いたが、羽海は、地獄の怖さしかぴんと来なかったようだ。

 羽海は、ぶんぶんと、首を横に振った。

「もうやだ」

「じゃ、どこかに行けよ。馬鹿羽海」

「……お兄ちゃんの方が馬鹿だ!」

 羽海が、外にいるお母さんの方に走っていった。

 ぼくはそれからしばらく、いとこのお兄ちゃんと、勉強や学校の話をしていた。

 そうしたら、どこかから変な声が聞こえてきたんだ。

 ぼくは不思議に思って、耳を澄ませた。少ししわがれた声だった。知らない声。


 ――クーギョー。


「……誰?」

 ぼくは辺りを見回した。知らない人だらけで、声の持ち主がわからなかった。


 ――クーギョー。


「ねえ、クーギョーって何?」

「え、なに? 苦行?」

 聞いても、いとこのお兄ちゃんは首を傾げるだけだった。クーギョーって声、聞こえなかったのかな?

 ぼくはだんだん不気味に思えてきて、壁際にいるお父さんへと走った。

 お父さんは麦茶のコップを空にして、おかわりを頼んでいた。暑がりのお父さんは、もう汗だくだった。

 ぼくは背筋が寒かった。

「お父さん、誰かが変な事を言ってるんだ。止めて!」

 ぼくはお父さんの肩を揺らした。

 お父さんはうちわで体をあおぐのに夢中で、まともにぼくを見なかった。


 耳にもう一度、変な声が聞こえてきた。声は後ろの方からした。

 おそるおそる振り向くと、部屋の隅に、とても怖い顔をした男の人が座っているのを見つけた。

 親戚一同が騒ぐ中で、浴衣姿の老人は、誰とも話していない……。

 鋭い目はぼくを見ている。すごく怒った顔で、すっくと立ち上がり、こちらに来る。

 足音はしなかった。

「お父さん!」

「触るな。暑い暑い」

 ぼくはおびえた。だってお父さんもいとこも、見えていなかったから。

 ぼくにしか、足元が透けている老人は見えていなかった。


 ――クーギョー。


 老人がぼくの前まで来た。近くで見ても、やっぱり足元が透けている。

 ぼくは手の汗を、ぎゅっと握った。

「く、来るな。恨まれる事なんてしていない」

 ぼくは精一杯の声を出した。

「……ぼくは、お前なんか全然知らない!」

 老人はますます怒った顔をしたが、その後にすぐ、すぅっと消えた。跡形もなく。

「どうしたぁ」

「い、今、変なおじいちゃんがいて。それですぐにいなくなって……!」

 今にも泣きそうなぼくの側に、お母さんが近づいてきた。外の用事は終わったようだった。

「誰の事が『変なおじいちゃん』で『全然知らない』人なの? ここにいるのは、みんな、あなたの親戚の方々よ」

 しわがひどい怒り顔。お母さんが説教する時の顔だ。

「……羽海に聞いたわよ。さっき取った仏壇のお供え、今すぐ返しなさい!」

 ぼくはお母さんが嫌になった。


 お母さんはもちろん、つげ口をする羽海や、頼りにならないお父さんとも、一緒の部屋で寝たくないと思った。

 正直にそう言ったら、勝手にしなさいと言われて、ぼくは一人、仏間の隣の部屋で寝る事になった。

 仏間は、仏壇がある所。

 仏壇には金色の仏像が飾ってあって、お盆の時期は割りばしを刺したナスとキュウリを、側に置くみたい。

 いつも線香の臭いがする部屋。日が暮れる前に『クーギョー』って繰り返す老人が出てきた部屋でもあった。

 ぼくは布団に入る前に、仏間へのふすまを、しっかりと閉めた。


 夜の九時に、ぼくはカビ臭い布団に入った。畳からは変な草の匂いがしていた。

 枕が変わると眠れない。早く自分のベッドで、すやすや眠りたい……。

 布団の中で、クーギョーのおそろしい顔や、『たたられても知らない』と話す妹の嫌な笑顔を、何度も思い出した。

 しばらくは目がさえていたけれど、やがてぼくはうとうとしだした。何時ごろかはわからない。


「痛っ」

 ようやく眠れそうだった時に、ちくりとする痛みを頬に感じた。叩いたら、何かがつぶれた。

 電気をつけずに目をこらしてみる。ぼくがつぶしたのは一匹の蟻だった。

 小さくてすぐ噛む蟻、たぶんアミメ蟻だ。部屋が暗くてよく見えないけれど、きっとそうだ。

 蟻の死体なんて放っておいたら、またお母さんがうるさいから。すぐに捨てようと、思った。

 だけどゴミ箱はこの部屋にはなくて、隣の仏間にあった。


 夜に、仏間には入りたくない……。ふすまを開けるのだってごめんだ。

 そう考えたぼくは、ゴミ箱をあきらめて、蟻を窓から捨てる事にした。

 そうしたら。

 古い形の鍵を回して、窓を開けたら。びゅうっと湿った風が入ってきた。外が雨だと知った。

 雨で手が湿ったせいで、蟻はなかなかぼくの手から離れなかった。ぶんぶん手を振ると、どんどん手が濡れた。

 やっと蟻が取れたころ、ぼくは異変に気がついた。

 何だか入ってくる風が臭い。魚が腐った匂いみたいだ……。

 ぼくは変な風を中に入れたくなくて、すぐに窓を閉めた。

 そして鍵を閉めてる時、窓のガラス面に、何か変な物がついているのを見つけた。暗闇の中、もぞもぞと動いている。

 ぼくは虫がいるのかと、かんちがいした。大きな蜘蛛か。蟻がいたし、たった今、蛾が入ったのかもしれないと。

 そしてそれを、目をこらして見てしまって――悲鳴をあげた。

 窓のガラス面についていたのは、動物の口元だった。

 

 ぼくが怖くて止まっている間に、みるみる窓を突き抜けて、真っ黒な動物が部屋に入ってきた。

 そしてぼくの事を黄色い二つの目で見て、アーオと鳴いた。


 ……黒猫だ。

 ……どうして黒猫が、夜に部屋に入ってくるの? ぼくが閉めた窓をすり抜けて!


 黒猫は部屋をぐるぐる回り、何度も鳴いていた。

 ぼくはもう嫌になって、布団にもぐった。目をつぶった。蟻にさされた所は、だんだんかゆくなってきた。

 耳をふさいでも猫の鳴き声は聞こえてきた。そして、外からはあのしわがれた声まで。


 ――クーギョー。

 ――サ……ヨ……コイ……。


 声は外の方から聞こえてきていた。

 それでもぼくは、ふすまをすり抜けた老人がすぐ側に立っているような気がして。

 声が聞こえなくなっても、明け方まで眠れなかった。


 八月十四日。ぼくはおばけによる寝不足からか、高熱を出した。

 四十度近い熱で、昼から何も食べられなくなった。

 脱水症状にならなかったら『様子見』でいいんだそうで、水が飲めるぼくは病院には連れて行かれなかった。

 家族で遊びに行く予定があったけれど、それはお流れになった。


 八月十五日。ぼくの高熱はまだ続いた。

 この日は『終戦の日』で、テレビは朝から晩まで、昭和の戦争の事ばかりだった。

 白黒で映る昔は辛いもので、おばあちゃんは静かに千羽鶴を折っていた。

 お母さんは庭で羽海にかまっていて、お父さんはおじいちゃんのミカン畑の手伝いをしていた。

 ぼくはすりおろしたりんごを、夕方に食べた。


 そして八月十六日を迎えた。

 たくさんいた親戚は、この日の朝、ほとんど帰って行った。

 ぼくら家族も、この日に帰るはずだった。だけど明日の十七日に予定をのばした。

 ぼくの熱が、まだ完全に下がってなかったから。

 羽海が『遠くに遊びに行きたい』と言い出したので、困ったお母さんは、羽海をおじいちゃんのミカン畑に連れて行く事にした。お父さんも一緒。

 親戚で残っている人達は、隣町まで買い出しに行く。

 ぼくとおばあちゃんだけ、母屋の家で留守番だ。

『一番大きなミカン、お土産に取ってくるからね』って、お母さんに言われた。少し嬉しかった。


「良くなった?」

「うん」

 お昼過ぎ。ぼくは布団の中から、はかり終わった体温計をおばあちゃんに渡した。

 三十七度三分と画面に映っている。

「明日には、家に帰れるかも」

「良かったねえ。私はいつまでも、いてくれていいんだけど」

「……うん」

 おばあちゃんは優しくて、本当は熱があっても帰りたいなんて、言えなかった。


 ぼくのお腹が鳴った。

 おばあちゃんはくすっと笑った。

「お腹すいたみたいね」

「う、うん」

「卵が入ったおかゆ、作ってこようね」

 おばあちゃんは台所に行って、寝間着姿のぼくは布団をかぶり直した。

「あら、もう醤油がない。買い置きは、どこだったかな」

 物を探す小さな音と、おばあちゃんの鼻歌が、台所から届いてきていた。

 ぽつ、と、外から音がした。

 雨だ。黒い雲が、空一面に広がろうとしている。これからもっと降りそうだ。

 おばあちゃんがおかゆを作るのをやめて、洗濯物の心配を始めた。

「天気予報では、一日、曇りだったのに」

 洗濯物は『離れ』の家の奥に干してある。

「ちょっと離れに行って、お洗濯物を取り込んでくるわ」

「ぼく、手伝うよ」

「熱がある子が何を言ってるの。休んでなさい」

 おばあちゃんは「すぐ済ませるからね」と。

 ぼくを置いて母屋の家を出ていった。


 小雨が降り出した。

 ぼくは窓からその景色を眺めていた。その内、どうにもトイレに行きたくなった。

 おばあちゃんが帰ってくるまで我慢しようか、少し悩んだ。

 トイレ。あんな狭い所でおばけに会ったらすごく嫌だ。でも……。

 昨日も一昨日も、怖い老人『クーギョー』も黒猫も、ぼくの前に現れていない。

 それにぼくは一昨日までは、おばけに会った事がなかったんだ。

 もう大丈夫な気がして、ぼくは一人の時にトイレへ行った。


 水を流し、手をふいた。

 トイレの鍵が古くて、閉めたはいいものの、ぼくは開けるのに苦労していた。

 ふと外が見える窓から、小雨の静かな音を打ち消す、足音が聞こえてきた。泥と砂利を踏む音。

 最初はおばあちゃんかと思った。

 足音が近くなって、これはおばあちゃんじゃないって、気がついた。歩き方が違った。

 ぼくは嫌な予感がして、トイレの鍵から手を離した。


 からからと扉を開く音がして、次に、どん、どん、と家にあがり込む音がした。

 大股で歩く音がするたびに、みし、みし、と廊下の床が鳴っていた。

 ……おじいちゃんやお父さんの足音でもない。そもそも普段、こんな重そうな音はしない。

 これは靴のまま、床を歩く音だ。

 足音はぼくがいるトイレを通り過ぎ、向こうから布団をめくる音がした。

「ここでもないか」という知らない男の声と、舌打ちが廊下に響いた。

 ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。

 泥棒、という言葉が頭に浮かんだ。


 知らない乱暴そうな男が、家に入って来ていた。


 ぼくは動けなくなった。

 ただ怖かった。

 怖くて体は動かないのに、頭は悪い方にばかり動いていた。


 ――トイレにいても、いずれ気づかれそうだ。こんな古い鍵なんて壊されるんじゃ?

 あの泥棒はぼくを見つけたら、どうするだろう? どうしたら見つからない?

 音からすると、あの乱暴そうな泥棒は、今はすぐ近くの部屋にいる。

 トイレの窓には、格子がついている。

 この家はとても広いから、窓や玄関まで走ろうとしても、大人の足に追いつかれそうだ。

 ……駄目だ。震えが止まらない。

 やっぱり静かにトイレにいてみる? それでぼくが助かったとしても、優しいおばあちゃんが帰ってきたら?

 涙が出る。このままでは音が出て、気づかれてしまう――。


 ぼくは目を閉じて、その上から両手で顔をふさいだ。

 狭いトイレが地獄に思えた。ぐるぐるぐるぐる嫌な考えで頭がいっぱいになって、もう助からないとすら思った。

 その時、大きな電話の音が、トイレの外で響いた。


 ぷるるるる。ぷるるるる。

 ぼくの家より大きな音量の、家電話の音が、廊下を鳴り響いていた。誰がかけてきたんだろう……?

 あ。『おばあちゃん、おじいちゃんは耳が遠いから』って大きい音に設定したのは、お母さんだったな……。

 ぼくの嫌な考えは、電話の音でいったん止まった。

「うるせえな」口汚い男は、ぼくの近くの部屋から出て、たぶん電話の方に行った。

 ぼくが閉じていたまぶたを上げると、透けている足元が、目に飛び込んできた。

 骨ばった足首と、浴衣の裾。

 いつの間にかあのクーギョーが、トイレの中に入っていた。

 ぼくは顔をあげた。

 おとといよりももっと怖い、すごい顔を見た。横顔だった。

 クーギョーはぼくの方じゃなくて、扉の後ろを向きながら、無茶苦茶に怒っていた。怒りで震えてすらいる。

 ぼくはそれを見て、胸の奥がじんわり温かくなった。

 おびえて泣いている子どものぼくとは違う。鬼の形相が、その時の天の助けだった。


 ぼくはクーギョーに言った。

「たすけて」

 クーギョーはぼくにだけ聞こえる声を出した。

 ――スイジバ。


 ぼくは涙をぬぐって、大きく頷いた。すいじばって、台所の事だ。そこに行けって言ってるんだ。

 集中したら、あまり音を立てずに鍵を開ける事に成功した。

 電話が鳴っている内がチャンス。男はまだ電話の近くにいるらしい。

 もう残り時間が少ないのはわかる。だから。

 ぼくはこの時、ただクーギョーを信じて進んだ。


 台所に到着して、すぐ次に何をすればいいかがわかった。床下収納庫の扉が、外れていたからだ。

 おばあちゃんが醤油を探したままの台所は、収納のユニットが丸ごと出したままだった。

 そして床下に続く扉は、ぽっかりと開いていた。

 ぼくは暗さと汚さにためらわず、床下にもぐった。扉は内側から閉めた。少し音とほこりが出た。


 床下にもぐって、真っ暗な闇に包まれた時、長く鳴った電話の音が切れるのを聞いた。

 クーギョーは、ついてこなかった。そして怖い足音も、ついてこなかった。

 どうやら気づかれなかったようだ。ほっと、息をはいた。

 そして暗闇の中で、きつくなってきた雨音と、猫の鳴き声を聞いた。

 魚の匂いがする。……あの黒猫が、ぼくの側に来たらしい。

 真っ暗に目が慣れて、透けた黒猫の体の線が見えてきた。同時に、遠くが小さく光っている事に気がついた。

 黒猫は光の方に、音もなく歩いていった。ぼくはそれを四つん這いで追って、木の棒に当たった。

 そして床下の通気口――格子はついているけれど、傘を差したおばあちゃんが見える場所――に、到着した。


 黒猫は通気口の格子をすり抜け、雨に濡れない方へと行った。

 ぼくは床下で見つけた棒を通気口から出して、振った。おばあちゃんがそれに気づいた。

 おばあちゃんが家に入る前に、ぼくは異変を知らせられた。


 警察が来てくれて、すべて解決したのは、八月十六日の夕方。

 ちゃんとお礼を言おうとした時には、黒猫も、クーギョーも、ぼくには見えなくなっていた。

 八月十六日は、この地域のお盆の最終日。

 里帰りしてきたご先祖様達が、あちらへ帰る日だった。


 警察からの事情徴収とか、病院での検診とか。

 事件の後はいっぱいやる事あって、家に帰る日は八月の十七日でも、十八日でもなくなった。

「ユキちゃんとこの息子だったか。初盆なのに、親不孝な事したなぁ」

「ねぇ。あの息子さん、去年に身寄りをなくしてから一人暮らしで。……可哀想な人なのかもねえ」

 近所の人達が、あの日の犯人についてひそひそと話している。ぼくは仏間の隅でそれを聞いてしまっている。

「いい加減にしてください。いくらなんでも、無神経すぎるでしょう」

 お父さんが止めてくれた。


 八月十九日の日曜日。ぼくら家族は家に帰る朝を迎えた。

 荷物をまとめたぼくは、仏間の壁にかかっている、先祖代々の写真を見上げていた。

 左隅の方に厳しい顔のおじいさんがいるのは、十六日から知っている。

「あれはね、私のおじさんよ」

 ぼくがその人を見ていると、おばあちゃんが教えてくれた。

「なんて名前の人?」

「えっと……トモハル。戦国武将のオダトモハルと、同じ漢字」

『朝』に『治める』って書いて、トモハルって読むんだそうだ。知らなかった。

「ぼくとも、血がつながってるんだよね」

「もちろん」

「おばあちゃん……この人って、猫を飼っていた?」

「おや」

 おばあちゃんが目を丸くした。

「どうしてそう思ったの」

「見たから。実はぼくあの時に、この人に助けてもらったんだよ」

「まあ」

「この人と黒猫が、ぼくを床下に案内してくれたんだ」

「そうなの。それは本当に本当に、良かったわね」

 おばあちゃんは、ぼくを優しく抱きしめた。

 そして、それなら話してもいいかねぇ、と。厳しいおじいさんの写真を、壁から外した。

「私のおばちゃん……この人の奥さんに、内緒で聞いた話なんだけどね」

 おばあちゃんが写真が入れてある額縁の、裏板を、そっと外した。

 裏板と立派な肖像写真の間には、手のひらくらいの写真が、隠してあった。

 それは厳しい顔のおじいさんが、黒猫を抱っこしている写真だった。

「この写真を、内緒で入れておいてくれってね。生前に言い残したそうよ」

 写真の裏には『小夜子さよこと』と、筆で書かれていた。

「小夜子は畜生じゃない。大事な家族だからって」


 おじいちゃんが、仏壇のお供えを袋に入れてくれていた。おさがりってやつだ。

 そばでは妹の羽海が、どんなお菓子や果物がもらえるのかと、そわそわしている。

 羽海は七歳になったばかりで、ぼくから見ても小さい。そして女の子だ。

 あの時に熱を出して家にいたのが、ぼくで本当に良かった。

「羽海ちゃん、何が欲しい?」おじいちゃんが聞いた。

「りんご」

「はて。ギンゴ? そんなお菓子あったかな」

「違う。り。りー、んー、ごー!」

 羽海はおじいちゃんに対して、ほっぺたをふくらませた。

 羽海はラ行を言うのが苦手で、「り」は「ぎ」とよく聞き間違えられる。

「ぎりぎり」は「ぎぎぎぎ」って言ってるようになってしまって、たまに同級生にからかわれている。

 ぼくは仏壇の高い所からりんごを取って、羽海に渡してあげた。

「兄ちゃんは羽海の味方だからな」

「ありがとう。お兄ちゃん」

 羽海がにっこりして、赤いりんごを抱きしめた。ぼくはその頭を撫でていて……ふっと、ある事に気がついた。


 クーギョー……朝治(ともはる)さんは側に来て、ひとこと言うだけで、ぼくを助けてくれた。

 というか、それくらいしかできなかったんだと思う。

 だっておまんじゅう一つで、あんな怖い顔をする人だ。もしもすごい力が使える霊だったのなら、あの時もっと早く、なんとかしてくれたはずだ。

 生きていても、とても頼りになったはずだ。ぼくの勝手なイメージでは、竹刀とか振り回してくれそう。

 ……朝治さんの声は、ぼくにしか聞こえなかった。それなら、朝治さんにはぼくの声くらいしか、聞こえなかったのかもしれない。

 ぼくは家に帰る前に、きちんとご先祖様とお話する事にした。


『中田空良』と書いてあるサッカーボールを横に置いて、正座をした。

 金色の仏像はいつもと同じ場所で、いつも通り、蓮の花に座っていた。

 ぼくは鐘を鳴らしてから手を合わせ、そしてぼくの声が天に届くよう、お祈りをした。


 ――ぼくの名前はナカタソラ。『空』に『良い』と書きますが、クーリョーとは読みません。

 ――朝治さん、もう読み間違えないでください。次からはソラって呼んでください。

 ――会った時は全然知らないだなんて言って、ごめんなさい。助けてくれてありがとうございました。


 家に帰る日の天気予報は、晴れ。

 外に出ると予報通りの青空が広がっていて、少し風が吹いていた。

 近くの畑では黄色い向日葵が揺れていて、遠くの山では、青い木々が揺れていた。

 お母さんがぼくの手に、そっと触れた。

「………。空良、無理に連れてきてごめんね」

 あの日、ぼくの携帯につながらなかったから、お母さんは心配して家に電話をくれたらしい。ずいぶん長い間、鳴っていると思ったら……。

 ぼくは仲直りの意味も込めて、お母さんの手を握った。

「大丈夫だよ」って笑った。

「それより来年のお盆もその先も、ここに来ようね。絶対だよ?」

「どうしたの急に」お母さんが目を潤ませた。

 だって、ここには朝治さんがいるから。

 そして、お盆になればご先祖様や良くない霊が帰ってくる事を、ぼくはもう知ったから。


 ■

 小学校五年生の夏休み。ぼくは、この世で何が怖いかを知った。


 八月十六日……あの未遂事件が起きた、お盆の最終日。

 警察があの男を捕まえるまで、ぼくは床下に隠れ続けていた。

 夕方、雨の中、とても汚らしい男が警察に囲まれて、家から出てきた。

 その男はぼくが床下に隠れていた事を知らずに、終わったから。

 こんな言葉を叫んでいたんだ。


「畜生。お袋の奴、当てになんねえ。捕まっちまったじゃねえか」

「――病気で寝ている子どもなんて、いなかったじゃないか。あの、嘘つきばばあめ!」


 ……あの言葉を思い出しただけで、今でもぞっとするんだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 拝読しました。 都会の小学生が感じる「田舎の家」の印象がリアルでした。もう一本の夏ホラー作品「代行者」が徹底して内面の話だったのに対し、こちらは外の世界を描いたお話でしたね。対照的でした。 …
[良い点] ほっこりする中に悪意のアクセント。怖いのはそれだったのか。面白かったです。読みはじめに抱くクーギョーって何だろう?という疑問が、物語にぐっと惹きつけてくれていました。
[良い点] 怖い話ではありますが、先祖が子孫を想う気持ちが支柱となっているので、読み終わった後、心が温かくなった気がします [一言] 今年の夏は、空良くんを見習って、いつもよりちゃんとお墓参りをしよう…
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