ウィノナの事情
研修会前日。
すでに日は落ち、食事も終え、寝る準備も万端だ。
身体の汚れごと疲れを落として、自室に戻っていた僕は、窓から外を眺める。
月は黄色。
赤くはない。
赤に染まる日はいつ来るのかとふと考える時がある。
数年は問題ないとのことだが、それが二年なのか三年なのか、それ以上なのかもわからない。
不安な日々を過ごし続けるということ。
考えても仕方ないことなので、普段は意識の外に出している。
どうせ、時が来れば真っ先に僕にはわかるからだ。
僕はベッドに倒れ込み天井を仰ぐ。
「いよいよ明日か」
明日から始まる研修会。
怠惰病治療とは違った意味で大変そうだ。
正直に言えば、治療そのものよりも研修会の方が気が重かった。
治療は時間と体力と魔力と気合があればどうにかなる。
軋轢や面倒な人間関係はあるが、人と接するならば大なり小なりそういうものは発生する。
治療に関してはそこまで面倒事はなかった。
だから後は自分との戦いだった。
そういうのは辛い部分もあるけど、僕としてはかなり気が楽だった。
黙々と何かの作業をするというのは、僕に向いているからだ。
そういう性質だったから魔法の研究なんてよくわからないものをしていたわけで。
しかし僕は人の上に立ったり人に物を教えることは苦手だ。
不得意という意味ではなく、精神的にストレスが多いという意味で。
元々僕は人見知りだし、今まではやるべきことがあったから忘れていたけど、普段はコミュニケーションを円滑にできるほどの能力はない。
幼い頃は姉さんのおかげである程度は克服できたけど。
もちろん日本にいた時も、人と関わらなかったわけではない。
学生ならばまだしも、社会人で人見知りの人間は、大抵の場所で上手くやれない。
だから社会人の多くは、人見知りや人づきあいが苦手でも、強引に押しこめ、我慢しながらやっているものだ。
僕もその口で、苦手なのに自分を誤魔化してやっていた。
おかげでストレスが余計にひどかったわけで。
つまり、僕は人と関わるのが苦手だ。
親しい人は別に問題ないけど、赤の他人や苦手な性格な人と接するとその部分がより強調される。
だからできるだけそういうのは避けたいんだけど。
そうも言ってられない。
これは生来のもので克服するものでもなく、何とかやり過ごすものなのだろう。
胸に手を当てると、心臓がいつもよりも早く脈打っていた。
イベントの前日、いやこれは大事な仕事がある前日の緊張に近い。
失敗は許されないという、強迫観念のような。
実際、研修会が失敗に終われば、責任を問われる。
僕も、恐らくはミルヒア女王も。
「……今までもやってきたじゃないか。何度も、そうやって乗り越えてきたんだ」
思わず、自分に言い聞かせるように口をついた言葉。
そうだと思う自分と、そうではないと思う自分。
双方の意見は間違ってはいない。
実際、困難を乗り越えてきたのは事実だ。
しかし今までと今回とでは性質が違うことも事実。
ああでもない、こうでもないと意見を出しては否定し、結局自分を納得させることもできず、不安定な精神状態で明日を迎える。
正直に言おう。
ものすっごく不安だ。
失敗するんじゃないかという不安でいっぱいだ。
僕はベッドから身体を起こすと、机へ向かった。
その上には研修会に使う予定の魔法書がある。
僕が自作したものだ。
姉さんに渡したのは二冊のうちの一冊。
これは作成していたもう一冊だ。
内容は同じ。
本当なら研修生全員に配れるくらい複製したかったんだけど、綺麗な紙は非常に希少なため不可能だった。
羊皮紙や木板など代用品はいくらでもあるが、やはり貴族達の授業に持ち出すのは問題があるだろう。
結局、口頭で説明する形に落ち着いた。
紙があるって幸せだったんだな。
僕は魔法書を捲り、頭の中でどんな話をするか何度もシミュレートする。
臨機応変にすれば、何とかなりはするだろうけど、効率的ではないし、誰かに何かを教えるということは、なあなあにできない。
一つだけ間違っただけで、相手に間違った知識を植え付け、そこから派生して、違った答えを出してしまうこともあるからだ。
だから教育者は一言一言に責任を持たなければならない。
わからないならわからない。
わからないものをわかると言うことは絶対にしてはいけない。
僕は何十、何百としてきたシミュレートを数回終えるとベッドに戻った。
これ以上、考えてもしょうがないだろう。
やれることはやったはず。
今さら不備が見つかっても対処できないだろう。
だったらできるだけ休んで明日に備えた方が建設的だ。
「よし、寝よう」
決めたのならばあとは実行するだけ。
つまり就寝である。
僕は燭台の火を消した。
自室でも着火時にフレアを使うことはない。
自分で言うのもなんだけど、律儀というか、不器用というか。
これが自分なのだからしょうがない。
さて、寝るか。
僕は黒に塗りつぶされた部屋の中で瞼を閉じ――ようとしたところで、扉が叩かれた。
「ウィノナ? どうぞ」
言うと数秒後に扉が開かれ、蝋燭の光が部屋に入ってきた。
思った通り、ウィノナだ。
僕は胸中で嘆息する。
ああ、いつものか。
ウィノナは部屋に入ると、顔を赤らめた。
いや、部屋に入る前から紅潮していたのだろう。
蝋燭の光に照らされて尚、顔が赤いとわかるくらいだ。
それはいつものことではあった。
この後の展開も予想できる。
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らし、こう言う。
『お、おやすみになられていましたか?』
「お、おやすみになられていましたか?」
一言一句変わらない。
本人にその意識があるのかはわからないけど、ここまで一緒ということは……多分、練習しているのだ。
僕も事前に準備する際、こういうことを話そうと頭の中で反芻する。
そのため本番でもほぼ同じような言葉が出る。
彼女もその類で、事前に練習しているんだと思う。
部屋の中、一人で台詞の練習をしていると考えると健気ではあると思うのだけど。
「今、寝ようとしたところだよ」
僕の台詞は少しずつ違う。
だけど答えは大体、寝ようとしていたか、まだ寝ていなかったかのどちらか。
彼女がやってくる時間は就寝にはやや早い時間だからだ。
だから彼女はこう答える。
『そ、そうでしたか』
「そ、そうでしたか」
ビンゴだ。
当たっても嬉しいわけじゃないけど。
僕はウィノナを観察する。
いつも同じような状況、同じセリフなんだけど、今日は少し違うらしい。
いつもよりも少し薄着のようだ。
この世界の女性の寝巻はかなり薄手が多い。
キャミソールやベビードールのような下着姿の上にカーディガンを羽織っているだけ。
人によって違いはあるけど、大体同じようなものだ。
ただしこれは貴族にのみ該当する。
平民がどうなのか、詳しくは知らない。
女性の寝間着姿は家族以外は見たことがなかったからだ。
それを考慮しても、今日のウィノナは薄手だ。
いや、恰好は同じような物なんだけど、何というか生地がすけすけだ。
薄い。薄すぎる。
肌が見える。女性独特の曲線が見えるくらい。
上に薄手のカーディガンを羽織ってはいるけど、隠せている部分は非常に少ない。
今まで以上に、何というか色香が強い。
ウィノナはまだ若く、十代後半くらいだと思う。
そのため幼さやあどけなさはあるが乳房や臀部は成熟しているように見えた。
今までは特に気にしていなかった、というか見えなかったからわからなかったけど。
無言の空間。
その中でウィノナが身じろぎする度に、衣擦れの音が響き渡る。
扇情的だ。
しかし僕は冷静だ。
冷静のはずだ。
冷静だよね、そうだよね!
「あ、あの」
「は、ひゃい!?」
どうしたことか、心臓がばくばくいっている。
今までこんなことはなかったんだけど。
その理由がわからず、僕は情けなくも動揺した。
「……よ、夜のお供をさせていただけませんでしょうか?」
今までは即座に断っていた。
それなのに今日に限っては即答できなかった。
ウィノナの請うような視線を受けて、僕の身体は硬直してしまった。
はっとして我に返った僕は、慌てて首を振る。
「わ、悪いけど、そういうのはいいよ」
声が上ずっていたが、情けなさよりも動揺が大きいため、自分を顧みることはできない。
僕の返答を受け、ウィノナはしゅんとして、部屋を出ていく――はずだった。
いつもの彼女ならそうしていた。
しかし今日のウィノナはその場から動かず、きゅっと唇を引き絞ったまま立ち尽くしている。
どうしたんだ。
そう思うけど、何も言えない。
一度断ったのに、出て行けとは言えなかった。
再びの無言。
その中で、ウィノナが口を開いた。
「わ、私は……私には、魅力が、ないでしょうか……?」
「え? い、いや、あ、あると思うよ。うん」
「で、ですが、シオン様は、私と、その……い、致したくないご様子です……」
「し、したくないというよりは……何というか、できない、というか」
ウィノナはカッと目を見開いて、顔を近づけてきた。
近い、近いよこの子!
「そ、それは身体的に、という意味ですか?
ま、ま、まさか、ま、まだお済みでないとか!?」
お済みです。
もうすでに十三歳なので、完全にお済みでございます。
「いやそういう意味じゃないんだけど」
「で、ではどういう意味でございますか!?
ま、まさかその年にして、ふ、ふ、不能に!?」
元気です。
今日も僕は元気なのです。
「い、いやそれも違うよ。だ、大丈夫? だから?」
「では! や、やはり私に魅力が……」
泣き出しそうな顔が目の前にある。
普段ならこんな近距離に来たら、ウィノナは慌てて逃げるだろう。
しかし彼女自身がこれほど近づいてきている。
しかも本人は気づいていない様子。
顔に見えるのは……焦り?
何を焦っているんだろうか。
僕は嘆息し、ウィノナの問いに答える。
「違うよ、そうじゃない。ウィノナに原因があるわけでも、僕の身体に問題があるわけでもない」
「そ、それではなぜ」
「約束だから」
「約束……?」
「うん、約束。ある人とのね。これは一方的に言われたことじゃない。僕が決めたことなんだ。
僕は誰ともそういう関係にならないってね」
正確には結婚しない、だけど。
姉さんとの約束には、異性との恋愛も含まれていると思う。
だから誰かとそういう関係にはなれないし、ならないし、なるつもりもない。
もちろん肉体関係も結ばないし、交際もしないし、結婚もしない。
子供の時の約束だ。
でもこの約束を僕は守るつもりでいる。
童貞でいないと魔法が使えないかもしれないし。
だから僕は約束を破らない。
そんなリスクを負ってでも、約束を破ってでも抱きたいと思う人が出ない限りは。
きっと一生現れないと思うけどね。
「そ、そんな約束、ど、ど、どどど、どうしてしたんですか!?」
ウィノナは詰問口調で僕に迫ってくる。
相変わらず、普段とは違い距離が近い。
でも少しはこの状態に慣れてきた僕は、比較的冷静に考えることができた。
どうして、か。
なんでだろう。
しっくりくる答えが浮かばないな。
「……うーん、そうしないと悲しませるから、なのかな」
「そ、そのために人生の大きな選択肢を捨てたのですかっ!?
け、結婚だけでなく、れ、恋愛も、肉体関係も!?」
「まあ、そうなるね」
「そんなのおかしいです!」
感情的に叫ばれて、僕は気圧された。
なんでこんな風になっているんだ、ウィノナは。
いつもの彼女じゃない。
焦燥感と何か特殊な感情が彼女の表情を歪ませている。
「おかしいかもしれないね。でもそう決めたのは誰でもない、僕だ。
だから僕は約束を守るよ。どれほどおかしな内容でも、僕が決めたからね」
「その……誰かのために……?」
「誰かのためでもあり、僕のためでもあるかな」
後悔はないし、迷いもない。
だから僕は真っ直ぐウィノナの視線を受けた。
彼女の瞳は揺れている。
何を思ってこんなことをしているのかわからない。
わかるのは、彼女がこの行動に納得しているわけじゃないということ。
本意ではないということだ。
「仮に約束があっても僕は断っていたよ」
「ど、どうして」
「だって、ウィノナ。君は別に僕のこと、好きじゃないでしょ?」
「そ、そ、それは、そ、そそそ、そんなことは」
ウィノナは激しく動揺していた。
彼女が僕に恋心や敬愛を抱いていないことは、誰が見ても明らかだ。
本人はそうは思っていなかったのかもしれないけど。
あれか。
毎日、抱いてくれと言えば、好意を持っていると思われるとでも考えたのだろうか。
普通は裏があると思うんじゃないだろうか。
いや、普通の童貞だったら、あれ、もしかしてこいつ、俺のこと好きじゃね? みたいな感じに思うかもしれない。
しかし僕は普通の童貞ではなく、童貞の中の童貞、童貞王だからそんなことには動じない。
達観した童貞は果てしなく澄んだ目を持ち、あらゆることに動じなくなるのだ。
つまり諦観である。
達観の次は諦観、諦観の次は、楽観である。
最終的に別にそれくらいどうでもいいだろう、という風に思い始め、むしろ誇りに思ったりする。
人間とは……いや童貞とはそういうものなのだ。
もしもウィノナの申し出を受け、肉体関係を持っても、一時的な快楽しか得られず、互いに悪影響を及ぼすだけだと思う。
僕達の間に絆はない。
友情も信頼も愛情もない。
だから、この行為は認められるべきではない。
僕がじっと見つめると、ウィノナは視線を逸らした。
わかりやすい人だ。
嘘が吐けない性格だということは、この二週間余りでわかっている。
彼女は悪人ではない。
ただ強い人でもないように見えた。
「ねえ、ウィノナ。どうして君はこんなことをしているのかな?
何か理由があるんじゃない?」
僕はできるだけ落ち着いて話しかけた。
「ど、ど、どうして、そのような」
「ウィノナが軽い気持ちでこんなことをするとは思えないから。
三週間程度の付き合いだけど、それくらいはわかるよ。
よかったら話してくれないかな?」
ウィノナはずっと俯いて、自分の身体を抱いていたが、やがて小さく頷いた。
ベッドに座っていた僕は、隣を促した。
「座って」
普段なら恐縮していただろう。
しかし今日の、今のウィノナは素直だった。
ウィノナはテーブルに燭台を置き、僕の隣に腰掛けた。
何か考えているらしかった。
それからしばらくの沈黙。
そして不意に、ウィノナが口火を切った。






