失ったものと得たもの
カチャカチャという音だけが部屋に響いている。
二十人は座れそうなほどに長いテーブルが真っ直ぐに伸びていた。
テーブルの上には一人分の食事だけが乗っている。
村に住んでいた時と違って豪華な料理だ。
柔らかい肉と柔らかいパン、これがあるだけで非常に裕福であると言わざるを得ない。
他には瑞々しい野菜と果物、そして温かいスープ。
スープは薄味ではなく濃厚で芳醇な香りがする。
数十種類の野菜やら肉やらを煮込んでいることは明白だった。
日本であってもそれなりの値段がしそうな料理だった。
父さんが見たら、何と言うだろうか。
複雑そうな顔をするような気がする。
実家だと村のことも考え、できるだけ質素な料理にしていたし。
贅沢をするつもりも、贅沢に大きな喜びを感じることもない。
しかしやはりおいしいものを食べるとその日の活力になるものだ。
現在の僕の立場であればこれくらいの食事は当たり前らしく、ウィノナがすべて用意してくれた。
ちなみに生活費として給金の幾らかを彼女に預けてある。
管理も任せてあるので、内訳はよくわからない。
ウィノナは部屋の隅で立ったまま、僕の食事風景をはらはらとしながら見守っている。
「い、いかがでしょうか?」
「うん、おいしいよ」
ウィノナはほっと胸をなでおろす。
これはいつものことだった。
と言っても、まだ数日しか経っていないけど。
「ね、ねえ、やっぱりウィノナも一緒に食べない? 一人だと何だが味気ないし」
「と、とと、とんでもございません!
じ、侍女である私がご主人様であるシオン様と食卓を一緒にするなんて、で、できません!」
これである。
そんなにダメなのだろうか。
僕はほんの数週間前まで名誉貴族の息子だったんだけど。
ほぼ平民と同じだ。
そんな僕にそこまで敬意を払わなくてもいいだろうに。
そう説明してもウィノナは頑なに、できないと言うばかりだ。
堅苦しいと息が詰まる。
もっと気軽に接してくれれば幾分かは楽になるんだけど。
ウィノナにそれを言ってもダメだろう。
彼女は絶対に僕を自分の領域に入れない。
敬うように見えて、それは相手を拒絶することと同じで。
なんだか寂しい気分になった。
仕方ないことなんだろうけど。
僕はなんとはなしに周囲を見回す。
無駄に広い食堂。
僕にあてがわれた家には、以前、それなりに裕福な貴族が住んでいたらしい。
詳細は知らないが商才があった貴族だったようで、その力だけで二侯爵の地位に就いたとか。
しかし年を取り、現役を引退し、自然の多い田舎で隠居することとなった。
タイミングよく僕が王都に訪問して二侯爵になることとなったため、この家を引き継いだ、というわけだ。
そのためこの家はある程度、老朽化している。
しかし手入れはきちんとされていたらしくまだ数十年は住めそうだ。
この家は広い。
滅茶苦茶広い。
十数部屋あり、無駄に広い。
この家に住んでいるのは僕とウィノナだけだ。
そのため、かなりがらんとしている。
正直に言うと落ち着かない。
なんだか寂しいような気持ちになるし。
実家を思い出す。
多少は広い家だったけど、家族四人で住むには丁度良かったと思う。
もしかしたら父さんはそのために適度な広さの家を建てたのだろうか。
ちなみに家賃は給金から自動的に引かれるようになっている。
研修会まであと二日。
女王と話をしてから三日が経過している。
彼女と協力関係を明確に結んだ後、少しばかり話をして別れた。
誰かにこのことを話すなという釘を刺されて。
世界だけでなく、リスティアという国自体の危機を救うため、僕はこれから色々とやらなければならないことがあるようだ。
その一端はある程度聞いてはいるが。
ちなみにあの後、女王と話した内容を簡単に言うと、以下の三つ。
まずは給金に関して。
これは僕が上流貴族であるにも関わらず領地を持つ領主としての職務を義務付けられていないため、与えられるものだ。
貴族には領主の任に就くものと、公務に従事する人たちがいる。
まあ何もしない道楽貴族もいるけれど、それが許される理由がそれぞれあるものだ。
それはそれとして。
領主として担当領地の管理をすることも公務だが、この場合は別物として扱う。
後者の公務は、いわゆる国に直接仕えるというものだ。
兵士、騎士、文官などのこと。
僕もそちら側の人間なので、領民から得た課税の何割かを収入とするのではなく、国から直接お給金を貰うことになっているというわけだ。
そういうことから僕は、ただの魔法好きの子供からいわゆる公務員に昇格したのだ。
ブラック企業さながら、無茶な要求をされることが決定している。
まあ、女王曰く、僕の意見を尊重してくれるらしいので、職場改善はされるはずだ。
現段階で、僕に与えられた任務を終えた後、その要求はさせて貰うことになると思う。
それについては色々と考えているけど、今は怠惰病研修会のことを優先すべきだろう。
女王の命令だからという理由も多少はあるけど、僕もこの技術を活用して、病に苦しんでいる人達を助けたいという思いはあるのだから。
自分が生み出したものが誰かの役に立つということは、やはり嬉しい思いもあるものだ。
補足として、給料はかなりのものらしい。
少なくとも豪邸に住み、侍女を雇い、それなりに贅沢な食事をしても給金の二割程度しか消費しないくらいには。
お金に頓着はないので喜びは薄いけど、先立つものがあった方が後々、役に立つこともあるだろう。
そういうこともあって、多少は嬉しかった。多少は、だけどね。
次にウィノナに関して。
二侯爵ともなれば侍女の一人や二人は必要。
本来なら私兵なり護衛のために抱えの騎士なりを持つものだが、そうなると動きづらくなる。
そのため『最も問題ないであろう侍女』を女王が選び、侍女として傅かせたらしい。
彼女がどういう人物なのか詳細は本人から聞くようにと言われた。
人の事情を他人から聞くのは憚られるため、元よりそのつもりだったけど。
ただ一つだけ。
彼女は貴族らしいということだけは聞いた。
まあそうか。
貴族の侍女になるくらいだ。
貴族の娘か、執事か侍女の家系である場合は多いと思う。
ただ問題ないという点には引っかかるけど。
彼女は確かに優秀ではあるが性格は侍女に向いているとは思えないし、何より夜のお供はどうかという提案を毎日してくる。
これが問題でなくて何が問題なのか。
仕事はしっかりしてくれているから、不満はないけど。
引っかかりはする。
何か理由があるんだろうか。
最後に僕を二侯爵にした理由だ。
正直、詳細を聞いて驚きはしたけど、なぜか妙に納得もした。
簡単に言えば理由は二つあったらしい。
一つは『実績を積み重ね、国内外に僕の名前を浸透させる基礎作りのため』。
名誉貴族の息子は、つまり何も称号のないただの子供に他ならない。
そんな僕が成果を上げても宣伝効果は薄く、世界的に受け入れられにくい。
平民の子供という肩書よりも、功績を上げて二侯爵になった子供という方が世間的にも納得がいくし、何より諸外国、特に帝国と渡り合うために、僕という駒の価値を向上させることに役立つ。
いわば箔づけというやつだ。
世界中で誰一人成しえなかった、怠惰病治療という実績のある僕だったが、爵位、しかも二侯爵なんて上級の位階にすえることに大きな反発があったようだ。
しかし、半ば強引に女王が決めてしまったとのこと。
そのためにかなり無理をしたらしいが、その話を僕が知ることはないだろう。
政情を知りたくはない。
面倒以外の何物でもないからね。
そして二つ目だ。
『僕の地位が低いと、怠惰病治療研修会において、生徒達が素直に教えを請わないから』ということだった。
これはどういうことかと言うと、各国が選出した選ばれし者達の大半は貴族だから、ということ。
考えてみれば、国を代表する人物を選出するに当たり、平民を候補者に据える統治者はあまり存在しないだろう。
よほど特殊な理由がない限りは、貴族から選ぶ。
格という点においてもそうだが、まずこの世界において貴族と平民とでは大きな隔たりがある。
教育だ。
僕も貴族だし、母さんと父さんは共に学があった。
そのため幼い頃から教えを請うことができたが平民だとそれは難しい。
平民が行ける学校がないからだ。
この世界にある教育を受ける方法は多くはない。
貴族のために設立した非常に小規模な学校に通うことがその内の一つ。
これは特殊な教養を必要とする学習機関であり、学校というよりは塾や専門学校のようなイメージに近い。
少人数制のため、義務教育を受けるような場所とは違い、専門的な知識を得るような感じだ。
そして貴族の大半は家庭教師や家族から教養を得る。
当然、平民の家族に学がある人物はほとんど存在しないため、彼等が教育を受けることはない。
家庭教師を頼むにはかなりのお金が必要なため、平民達が雇うことはほぼ不可能だからだ。
そのため国が平民を選出することは、絶対とは言えないが、ほぼないだろうと言える、ということらしい。
全部、女王の受け売りだけど。
そういうことから僕が怠惰病治療の方法、つまり魔力の操作方法を教える相手はその『選ばれし者達』。
つまり貴族達だ。
そのような理由から僕は二侯爵となったというわけだ。
普通に考えれば無茶苦茶だ。
通常では一番下の男爵から始めるだろうに。
どれほどの反発があったのか想像に難くない。
とにかく治療研修会への参加者には上級貴族もいるらしく、二侯爵にするしか選択肢がなかったと言われた。
その前に、自国の民達を治療してもらわないといけないから、という理由もあったらしいが。
それはおまけ程度だったようだ。
患者やその家族、それと医療関係者達は僕が平民だろうが貴族だろうがあんまり気にしてなかっただろう。
ちなみに『選ばれし者達』の条件は基本的に女王が指示したが、中にはそれを無視して選出した国もあったようで。
年齢制限もその一つ。
本来、魔力は二十代以下の人にしか備わっていない。
これは現時点で見つけた人達の条件が二十代以下だったからという理由のため、正しいかどうかの判断は確実ではないが、確率は高い。
しかし強引に立候補し、選ばれし者達の中に入った人もいるということ。
あのアドンの馬鹿な貴族もその一人だったようだ。
さらに蛇足だが、あの太った貴族達には魔力が一切なかった。
考え事をしているといつの間にか食事を終えていたようだった。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
言って沈黙が漂った。
いつもはここですぐに返事が来るのに、今日は何もなかった。
ウィノナは何か考え事をしているのか視線を床に落としている。
「ウィノナ? どうかした?」
「え? あ、も、もうしわけありません。な、なんでしょう?」
「えーと、ご飯食べ終わったから。おいしかったよ」
「あ、あ、ありがとうございます」
ウィノナは勢いよく頭を下げる。
疲れているのだろうか。
僕が寝ている間も、彼女は身の回りの世話をしてくれていたらしいし。
ゆっくり休んでいいと言っても、働いてしまうんだよね。
どうしたもんかと思うんだけど。
「もしも体調が悪いなら休んでいいからね」
「い、いえ! だ、大丈夫です。快調ですので」
確かに顔色は悪くない。
動きも体調が悪い人間とは思えないくらいには機敏だ。
嘘ではないらしい。
「そう、ならいいけど。それじゃ僕は部屋に戻るね」
「は、はい! かしこまりました!」
僕は苦笑しつつナプキンで口元を拭き、立ち上がると食堂を出た。
うーん、侍女はウィノナ一人だし、彼女の仕事が多い。
何人か雇った方がいいかもしれないな。
せめてあと一人くらいは、彼女の補佐が必要かも。
僕の世話だけといっても、屋敷は広い。
掃除だけでも大変だろう。
一応、ウィノナは女王の選んだ侍女だ。
女王に相談した方がいいかもしれない。
気軽にとはいかないだろうけど。
相手は女王だし。
無駄な遠慮は必要がないけど、気軽に会える間柄でもない。
「さてと……」
僕は廊下を進み、自室へ向かった。
これからすることは特にない。
なぜならばこの時点ですべきことはすべて終わってしまったからだ。
まず女王の言っていた、他国の怠惰病治療希望者達の治療に関してはすでに解決している。
たった百人以下の人数、数時間あれば終わる。
それが一昨日の事。
それ以降、誰か別の申請者が来ることはなかった。
これから来る可能性はあるけど、そう多くはないだろう。
彼等は治療しても大してお礼を言わなかったな。
なんか不遜というか偉そうな人間が多かった。
僕が子供だからなのか、リスティアの人間だからなのかはわからなかったけど。
何度も感謝を述べていた平民達と比べて、印象はよくなかった。
貴族なんてそんなものなんだろう。
そして僕がしなければならなかったこと。
それは――『怠惰病治療研修会における準備』だ。
僕は怠惰病治療に関しての知識はあるし、自分で治療をすることはできる。
しかしその方法を口頭で教えて、他人がすぐにできるはずもない。
魔力の放出から、いや魔力が存在すると信じさせるところから始めなければならないのだ。
そもそもできるかどうかもわからない、新たな試みなのだから尚のことだ。
適当にぶっつけ本番でできるはずもないし、下準備が必要なことも多々ある。
実はバルフ公爵から女王の命を聞いた時、バルフ公爵の代筆により、怠惰病治療に必要なことはある程度女王に伝えているし、その準備はほぼできている。
すでにバルフ公爵から色々な報告を受けていた女王は、事情に精通していた。
当然、怠惰病に関しても詳細を知っており、僕からの説明はほぼ不必要だったわけだ。
そのおかげで互いに怠惰病治療の研修会に必要なものに関して、ある程度の共通認識を持っていた……と僕は見込んでいたし、実際に会ってそれは間違いではなかったとわかった。
時間がなかったため、やり取りはほぼ僕から一方的になり、必要になるであろう準備を書き連ねるようにバルフ公爵に言っただけだけど。
三ヶ月という期間で怠惰病治療ができるように仕上げないといけないわけだし、色々と作戦は練っている。
思い通りに行くかは正直賭けだけど……。
とにかく下準備はほぼできている。
後は各国の選ばれし者達が全員集まるのを待つだけだ。
しかし問題、というか気がかりな部分はある。
それは選出方法だ。
どういう条件で彼等を選んだのかというところ。
僕が直接見る以外でも、魔力を持っているかどうかを知る方法はある。
エッテントラウトだ。
エッテントラウトを見て、淡い光が見えれば魔力持ちだということ。
しかし、それは不可能だった。
なぜならば今、エッテントラウトは産卵期ではないからだ。
トラウトが魔力光を放出する理由は、求愛行動にある。
産卵期間近の時期でなければそれは起きない。
そして今はその時期ではない。
もちろんトラウトの身体自体も魔力を帯びているため、目を凝らせば見える。
だがそれができるのは魔力の扱いに長けた人間か、余程の魔力の素養がある人間だけ。
実際、僕以外にはトラウト自体の光は見えなかったのだ。
自分で素養があるとか言うのはちょっと引っかかるけど、他に言いようがないし、しょうがない。
とにかく、過去にトラウトが光っている姿を見た、という人物がいても、それが虚言か真実が判断することは、魔力を持っている人間にしかできない。
つまり見えなくとも光っていると話せば、魔力があると判断されかねないということ。
別の場所に生息するトラウトを同時に見せて、どちらが光っているかという試験をすればいいわけだけど、それも確実ではないわけで。
どっちにしても今の時期は無理だし。トラウトを判断材料とした場合、そういう不安要素もあるわけだ。
僕が直接彼等を見なければ、魔力があるかどうか、正確に判断できない。
しかし僕が各国へ赴き判別する時間はないし、そんなことをするくらいなら、リスティアに招いて各国同時に研修をするなんて必要はないわけだ。
ではどうやって選ばれし者達を選出したか。
僕はこの点に関してだけ、頭を抱えていた。
結局その案は浮かばず、僕は村を発ったわけだけど、女王にはその選出方法に思いあたる点があったようだった。
内心では半信半疑だ。
彼女は魔力を持っていたから、何かしらの方法を彼女自身が見つけたのかと思ったけど、どうやらそういうわけでもないらしかった。
結局選出条件や方法を教えてはもらえなかったんだよね。
当日、魔力判別の時間を設けているので、その時を楽しみにしていろということだった。
楽しみも何も胃が痛いんだけど。
もしも魔力持ちがいなかったらどうしようもないし。
そうなった場合、各国や内部からも糾弾されるだろう。
女王だけでなく僕にも飛び火しそう。
まあそれはいいけど。
妙なプレッシャーを感じ始めていた僕は、自室に戻り、ベッドに横になった。
「……魔法……使いたいなぁ……」
誰も見ていないとしても、魔法を使うのは危険かもしれない。
「ちょ、ちょっとくらいなら、い、いいよね?」
はぁはぁと息を荒げながら僕は右手を見下ろす。
まだやりたい実験は幾つもあるのだ。
魔法を使わなかった期間もふとした時に閃くこともある。
こうすれば新しい魔法ができるかもしれない。
こうすれば今の魔法を進化させることができるかもしれない。
そんな風に考えて、試行錯誤を続けることが僕の生活習慣だからだ。
僕は何かの禁断症状に苛まれた患者のように、手をプルプルと震わせた。
だが、ぐっと歯噛みし、何とかその衝動に耐えた。
「くっ! だ、ダメだ、我慢我慢。今だけ、今だけ……」
我慢する必要はあるのだろうか。
見られなければいいじゃないか。
そうは思うけど、女王との約束だから破れない。
誰も見ていなくても僕が見ている。
一方的な命令だったとしても、理由もわからず、それくらいはいいだろうと思って安易に行動することはできない。
なぜなら、女王と僕は密約を交わしたからだ。
ただの口約束。
でも、それは誓約でもあった。
彼女があれほどの内情を話した理由を考えれば、軽く考えることはできない。
少なくとも、今は。
僕に伝えた情報、すでに僕が知っている情報。
それらの多くは国を転覆させかねない、世界を揺るがすであろうものばかり。
その中心に僕がいる。
そして女王は自ら渦中に飛び込んできたのだ。
僕が巻き込まれたのではない。
彼女が巻き込まれたのだ。
それは彼女にとっては光明に見えただろうが、同時に苦難に満ちた道でもある。
僕という、ルグレという存在が女王だけでなく、この世界に大きな影響を与えている。
すでに運命といううねりの中に僕達は溺れているんじゃないだろうか。
もう後戻りはできない。
何も知らない、無邪気に魔法の研究をしていた時の自分とは違ってしまっているのだ。
僕は目を閉じた。
身体が少しだけ重く感じだ。
その代わりに胸の内から湧き上がる何かの力を感じた。
失ったもの。
得たもの。
それを噛みしめるように、僕は意識を閉ざした。






