譲れないもの
十四日目。昼前。
治療人数、残り100人。
休憩はほぼとっていない。
食事も治療をしながらした。
おかげでもう少しで全員の治療を終える。
もうこの施設に、残りの患者全員が運び込まれている。
僕が気絶したりしない限りは全員治療できるはずだ。
終わりが見えた。
しかし僕の身体には力がほとんど入らない。
腕はラフィとウィノナに支えられている状態。
介護されているのが患者なのか、僕なのかわからない。
無様だろう。
でも僕は治療を続ける。
どんな状態でもやるって決めたのだからやり遂げる。
これはただの意地だ。
けれどのその意地が誰かを救うこともあるはずだ。
あと100人。
絶対に治療してみせる。
気を抜けば意識が飛びそうだ。
あとちょっとなのにこんなところで倒れてなるものか。
不意に頭上から声が落ちてきた。
「お、おい、シオン。大丈夫か!?」
ラフィの声だ。
状況がわからない。
何に対して言っているのかさえ、僕にはわからなかった。
もう現実なのか夢なのか判別がつかない。
ああ、なんだ。
わかった。
腕に力が入ってないんだ。
腕には完全に感覚がない。
第六感に近いような、魔力の流れる僅かな感覚があるだけ。
それが魔力供給を何とか補助してくれている。
この感覚がなくなると同時に、僕は気絶する。
僕はまだ大丈夫だと言おうとした。
しかし声を出すことさえできない。
息を吸い、肺から吐き出すことで精一杯。
これ本当に死ぬかもしれない。
なんでここまでしているんだろう。
僕がここまで必死にならなくても、治療できなかった人達は死にはしない。
もういいじゃないか。
諦めても。
そう思うのに、僕の意志は全く揺るがない。
諦めろという自分がいるのに、それは一瞬ですぐに消えてしまう。
自分でも呆れるくらい、諦めが悪いな僕は。
そうさ。
関係ないんだ。
周囲が馬鹿らしいと笑っても、それに意味がないと蔑んでも、関係ない。
自分が諦めろと囁いても、もう限界だと弱音を吐いても関係ないのだ。
だって僕は諦めないって決めたんだから。
諦めるくらいなら最初からやるべきじゃない。
僕は諦めが悪いんだ。
そうじゃないともったいない。
やるべきことが、したいことがあるのに、何もしないで塞ぎ込んで、ただ言い訳を並べ立てるなんてつまらないじゃないか。
僕はもう後悔したくない。
つまらない人生はこりごりだ。
持っていることにも、知っていることにも慢心しない。
魔法の力も、出会った人達のことも、僕を構成するすべてが当たり前じゃない。
いつか失われるのならば、失われるその時まで必死に大事にすべきだ。
僕はそれができなかった。
だから死ぬ時、後悔があった。
でももうそんな生き方は嫌だ。
諦めて、失って、後悔して、人生に価値を感じないなんて、そんなのは嫌だ!
だから僕は……絶対にやり遂げる。
僕は声を出せない。
だからラフィに向かい、小さく笑った。
彼女はそれだけで僕の意志を汲んでくれたようだった。
「……わかった……続けるぞ」
彼女の手は震えていた。
しかし瞳には強い意志を灯らせ、唇を噛みしめ、僕の腕を支えてくれた。
右手はラフィが。
左手はウィノナが。
右手は患者の胸に添えられた。
しかし左手は伸びない。
掠れた視界の中で、ウィノナの顔を辛うじて認識できた。
彼女は呆然と、涙を流して僕を見ていた。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのような顔。
まともに頭が働いている普段ならば、何か気づいたかもしれない。
でも僕はもう限界ギリギリ。
体内の魔力も2、3万くらいしかない。
これから入る患者の必要魔力量が多い人ばかりならば治療も困難だ。
だけどそんなことを考える時間はない。
限界まで走り続け、ダメだったらその時、また考えればいい。
進め。
足を止めるな。
治療を続けるんだ。
「おまえは下がっていろ。後は私が引き継ぐ」
ラフィは突き放すでも優しくするでもなく、真摯な視線をウィノナに送り、そしてやんわりと僕の左腕を掴んだ。
ウィノナは呆然としながら、後ろに下がった。
彼女も僕と同じように休憩をほとんどしていない。
限界が来て、何度か気絶するように寝てしまったことはあったけど。
後に、僕に何度も謝罪してきた。
そんなものは必要ないというのに。
僕の勝手で巻き込んでしまっているだけなのに。
ウィノナはかなり疲れが溜まっていたのだろう。
切っ掛けはわからないけど、彼女の中で意志の糸が切れてしまったらしい。
彼女は壁際に下がり、そのまま壁に体重を預けた。
ラフィの手伝いで、僕の手は患者に添えられる。
しかしラフィもラフィで一日以上、僕に付き合ってくれている。
それにどうやらここに来るまでも色々とあったようで、疲労の色が顔に出ていた。
ラフィは弱音を吐かない。
だから彼女の辛さは僕にはわからない。
僕はいつもみんなに助けられている。
それが当たり前だなんて思ってはいけない。
「くっ……このくらいで」
ラフィは僕の腕を伸ばしてくれた。
しかしかなり体力が奪われていることは間違いなく、手は震えていた。
数人の治療を終えると、今度は看護師達が傍に立っていた。
「わ、私達もお手伝いします!」
「……し、しかしだな」
ラフィは困ったようにしていた。
今までウィノナもラフィも僕が頑張っているのだから、と手伝い続けてくれた。
しかしラフィ達が無理をする必要はない。
怠惰病の治療に関しては、僕の代わりはいないけど、ラフィやウィノナの役割であれば他の人でもできる。
二人の気持ちはありがたいけど、無理はして欲しくない。
今まで甘えていた僕は、ラフィに向かって頷いた。
ラフィは口惜しそうに顔を歪ませる。
「……すまん。これ以上すれば足手まといになりそうだ。
おまえ達、すまないが後を頼む」
「は、はい! 喜んでお手伝いさせてくださいっっ!!!」
待ってましたとばかりに、嬉しそうに声を上げる看護師達。
笑顔を咲かせるみんなを前に、僕は胸中で呟く。
僕は良い人達に巡り合ってるな。
怠惰病に関わる人達もみんな、必死で患者のことを考え、介護をし、治療の研究をしていた。
彼等と僕の間には何の隔たりもない。
みんな考えることは一つ。
患者を治療したいということ。
だから僕はもう遠慮しない。
助けてくれる人がいるのならばその助力を受ける。
看護師達の手伝いを受けて、治療は進んだ。
30人、40人、50人、60人。
治療時間はかなり延びていた。
予想では昼過ぎには全員を治療できると思っていたのに、すでに夕方に差し掛かろうとしている。
それなのにまだ40人も残っていた。
一人治療するのに10分近くを要している。
このペースなら何とか今日中には治療できるだろう。
ただ体力はもう限界を超えて、気持ちだけで治療しているだけだ。
「はぁはぁ……つ、次の、人を」
魔力光が戻った患者さんが声を取り戻し、家族達と少しだけ話をしていた。
喜ぶ家族達の顔を見ると、力を貰える。
このために頑張っているのかもしれない。
あと少し。
息苦しい。
身体の感覚がない。
魔力の脈動も少しずつ聞こえなくなっている。
あと少し。
あと少しなんだ。
「が、頑張ってください! シオン先生!」
誰かが言った。
そんな応援は初めてだった。
僕の思考の水面に小さな波紋が生まれる。
「あ、後少しです! 先生! あと少しだから!」
「シオン先生……ううっ、シオン先生! 頑張れぇっ!」
嗚咽を漏らす誰かの激励。
僕は顔を上げる気力もなく、ただ鼓膜に届く声を受け入れるだけだった。
一つ、二つと声は上がり、やがて部屋中にその声は響き渡っていく。
誰もが僕を応援してくれている。
こんなにも色んな人たちに心配をかけてしまっているなんて、情けない。
そう思いながらも心に小さく火が灯る。
力が少しだけ戻った気がした。
治療を続ける。
10人治療した。
空は赤く染まり、もうすぐ日は落ちる。
それでも僕は手を止めない。
応援の声も留まることを知らなかった。
医師、看護師、患者の家族達。
部屋の外からも声は響いていた。
みんな僕のことを支えようとしてくれている。
熱が伝わる。
ここで終わるなんてできるはずがない。
やってやる。
絶対に、やり遂げてやる。
更に10人を治療した。
残りは20人。
夜の帳が落ちている。
でも今日中には間に合うはずだ。
更に10人、治療した。
あと10人。
もうすぐだ。もうすぐ全員を治療できる。
もう少しなんだ。
これで全員を治療できる。
終着点が見えた。
そう思った時、僕の鼓膜に届いた違和があった。
ひたすらに続いていた声援が途絶えた。
同時に、外からドタドタという足音が響き、そして大部屋に入ってきた。
「おやおやおやぁ? こんな時間まで治療をしていたんですかぁ?
期限は今日まで。それなのにまだ全員治療できていなかったんですねぇ。
まったく名誉貴族などという平民まがいの人間はやはり無能ですねぇ。
あれだけの時間があって、まだ治療できていないとは」
フリッツだった。
残り数日は朝、来なくていいと言っていたはず。
それなのにどうして、よりによってこんな時に。
奴はいつも通り、兵士数名を連れていた。
僕はフリッツを無視して治療を続けた。
構っている時間はない。
早く治してあげないと。
するとフリッツが乱暴に歩き、僕のすぐ傍まで来た。
隣で休んでいたラフィがすぐに立ち上がると、すぐに僕の隣に移動する。
「これはイストリアの野良犬。おお、田舎臭い。
ゼッペンラストなどという無駄に広いだけの領地を管理するような貴族は、ニオイまで獣臭がしますねぇ」
「なんだと貴様……ッ!」
ラフィは怒りを顔に出した。
しかしラフィは剣を持っていないし、私服だ。
休みを貰ったようで、鎧の類も着ていない。
そんなことにさえ、今さらに気づいた。
僕に余裕はない。
僕の腕を持っている看護師達が怯えている。
そのため僕の手は震えてしまい、満足に魔力供給ができない。
この状態では厳しいか。
彼女達に非はない。
平民である看護師達からすれば、騎士とは恐れ多い存在だからだ。
「何の……用、ですか……?」
声が出たことに驚いた。
まだ僕には体力が少しばかり残っているらしい。
「オーンスタイン卿。かなり疲れていらっしゃるようですねぇ。
もしかしてぇ? 連日徹夜、とかですかぁ?
いやいやまさか。平民の患者相手に、そこまでしませんよねぇ?
いくら名誉貴族なんて、女王の後ろ盾がなければ何もできない貴族もどきでも、平民相手に施しを与えるようなことはしませんよねぇ?
女王の命だから治療しているんですよねぇ?」
面倒くさい。
僕もみんなも疲れ切っているんだ。
横やりを入れてくるんじゃない。
この何も知らない馬鹿騎士が。
みんながどれだけ苦労をしてきたか、わかりもしないのか。
どれほど耐えてきたのか。
どれほど苦しんできたのか。
彼等の心の傷がなぜわからない。
なぜわかろうとしない。
僕は込み上がる負の感情を何とか宥めて、口を開いた。
「…………要件を……言ってください……」
フリッツは大げさに首を傾げ、気持ちの悪い笑みを浮かべた。
フリッツが振り向き、部下に視線を向ける。
すると部下達は担架を運んで部屋に入ってきた。
誰かを乗せているようだ。
華美な衣装を着た若い男性。
その後ろには同様に、高級そうな衣服を纏った男女がいた。
恐らく彼の両親だろう。
「女王の命です。そこのお方の治療をすぐに行ってください」
「なんだとッ!?」
フリッツの言葉に大きな反応を示したのはラフィだった。
彼女は明らかに怒りを以て、フリッツを睨んだ。
「おやおやぁ? 何か不満でもぉ?」
「あるに決まっている! 治療の順番は決まっていたはずだ!
他の患者はその順番通りに治療を待ち続けていた。
そうして今まで治療して来たというのに、なぜその男を治療せねばならない!」
僕も同意見だ。
はっきり言って、元気ならば真っ先に僕が噛みついていただろう。
しかし今の僕は立ち上がることさえ困難な状態。
内心で、ラフィが怒ってくれたことがありがたかった。
今のこの場にいる看護師や医師、患者の家族達全員が同じ意見のはずだ。
フリッツは笑顔のままに周囲を見渡す。
視線が合いそうになると、みんな怯えて、俯いた。
「何か勘違いしてるようだがぁ? これは女王の命だ。
平民や田舎貴族風情が口答えする権利などない!!
調子になるなよ、ゼッペンラストの野良犬。
貴様達なぞ、女王の命ですぐに没落させることができるのだぞぉ?
よいのか? 女王に逆らうとはそういうことだ」
「くっ! き、貴様!!」
ラフィは貴族の娘。
彼女自身はただの騎士だ。
貴族の事情なんて知らないけど、恐らくはフリッツが言うことは脅しではないのだろう。
ラフィは悔しそうに歯噛みし、フリッツを睨むことしかできない。
「おい! 貴様! 早く、息子を治せ!」
「どうしてわたくし達がこんな埃臭いところへいないといけないんザマス!。
さっさと治療して頂戴! 平民が、貴族の手を煩わせるなんて許せないザマスよ!」
偉そうな、典型的な貴族のような二人だ。
明らかにこの場で浮いているというのに気にしてもいない。
いや、どうでもいいことだと思っているのか。
奴らにとっては平民は自分と同じ人間じゃない。
そう思っているように感じた。
「あの二方はアドン帝国の貴族なんですよぉ。
選ばれし者についてきた方々でね、尊き地位についている。
わかりますかぁ? 帝国の、貴族。
我らリスティアは小国であり、帝国の貴族を無碍にしたとなれば、後々問題になりますねぇ。
その原因があなただとしたら、どうなりますかねぇ?
今までの功績があろうと、さすがにこれはお咎めなしとはいかないでしょう。
あなただけじゃない。あなたの家族にも罰が及ぶ可能性もありますねぇ」
わかりやすい脅しだ。
フリッツにとっては僕が命令に従うことは当たり前なのだろう。
僕以外の平民も。
貴族達からすれば、僕達は傅くものなのだと、僕は理解してしまった。
「あなたも女王の命でここにいるんです。わかってますねぇ?
逆らえばどうなるか。さあ、さっさと治しなさい。時間も大してかからないのでしょう?」
確かに治療には十分ほどしかかからない。
長くなっているとはいっても、一つの治療として考えれば長くはない。
残りの怠惰病患者は10人。
先に貴族の息子を治療しても、今日中に彼等を治すことは可能だろう。
まだ夜になったばかりなのだから。
「さあ、早くしなさい!」
フリッツが高圧的に僕に命令をする。
みんなが見ている。
目を見ればわかる。
誰もが『先に貴族を治せばいい』と考えている。
本意なわけじゃない。ただ事を荒立てるのなら、という前提の妥協だ。
確かにその方が、問題は起きない。
貴族を蔑ろにしたという事実はなく、争いも起きず、穏便に事は済むだろう。
誰だって面倒事はごめんだ。
相手が貴族ならば逆らえばどうなるかわからない。
賢い人間ならばここで断るはずがない。
だったら答えは決まっているじゃないか。
僕は即座に応えた。
「断ります」






