奇跡と絶望の間に
医師達に案内された部屋は最も奥にあった。
途中、いくつもの部屋を通り過ぎた。
理由は何となくわかっている。
イストリアでもあった、治療する順番。
どのような条件で定めたのかはまだわからないけど、怠惰病患者の治療する順序は、すでに決められているようだった。
そうでなければ不公平になる。
いや順がある時点で不公平なのだ。
ならばせめて公的に定めた順番に従うことこそ肝要だ。
そうでなければ誰もが我先に治療しろと声を上げるに決まっている。
老医師、いやロウ医師と名乗った彼に続き、僕とウィノナは施設の一室前に到着した。
「――ここです」
ロウ医師が緊張の面持ちで僕達に振り返った。
後ろからは何人かの医師や看護師達が続いている。
この場所は怠惰病患者専用の施設だけど、怠惰病患者の対処療法も請け負っているため、医師全員を伴うわけにはいかなかったのだ。
僕が首肯するとロウ医師はノックをして部屋の扉を開いた。
中は広くはなかった。
数人が入ればスペースがなくなるくらいの規模。
そこにベッドと家具が少しと椅子があるだけ。
棚には花瓶が置かれており、綺麗な花が一輪刺されていた。
椅子に座っているのは三十代くらいの男性だった。
痩せ細り、顔も青白く、疲れ切っている。
ベッドには僕と同じくらいの年齢の男の子が横たわっている。
怠惰病を患っていることは明白だった。
彼は天井を見上げたまま身じろぎしない。
魔力は見えなかった。
「せ、先生。も、もしや、イストリアからお医者様が来てくださったのですか!?」
「……ええ」
ロウ医師は複雑そうな顔をしていた。
僕に懇願した彼だったが、完全に僕のことを信用したわけじゃない。
胸中は不安で一杯なのだろう。
「ど、どちらに? そのお医者様は!?」
男性は僕達を一人一人と確認した。
しかしその中で、彼の知らない人間は僕とウィノナしかいないはず。
しかもウィノナはどう見ても侍女だ。
残ったのは僕だけ。
彼は期待していた顔を、明らかな落胆に変えた。
「ま、さか……そ、の子供、が?」
「……はい。彼がイストリアで怠惰病患者を治療したシオン・オーンスタイン医師です」
ロウ医師が言うと、男性は笑いながら椅子に座る。
彼にあるのは失望だった。
「は、はは、はは……やっぱり、あの噂も嘘だったんですね……。
また、また騙されたんだ。私達は」
「い、いえ、彼は……彼は……」
本物とは言えなかったのだろう。
ロウ医師は戸惑い、逡巡し、自分でもどうしたらいいかわからなくなっているようだった。
医師達と患者の家族の辿ってきた過去が、少しだけ垣間見えた気がした。
ここで問答をすべきではないだろう。
言葉で納得させる術が、僕にはない。
だったらやることは決まっている。
「僕は子供です。ですが怠惰病治療をしたということは事実です。
信じられないかもしれない。ですが治療させてはいただけませんか?
彼を傷つけるようなことは一切しません。ただ触れることを許可していただけるだけでいいです」
男性は光を失った瞳を僕に向けてきた。
なんて絶望的な目をしているんだ。
彼はどんな日々を過ごしてきたんだ。
「触れるだけ……? は、はは、そうですか。
ええ、どうぞ。触れた後、どうせお金を要求したりするんでしょう?
もうどうでもいい。好きにしてくれ……」
男性は顔を手で覆いながら、自棄になっていた。
これがロウ医師の言っていたもの。
大きな希望を失った人の絶望なのだろうか。
だけどそれは尚早だ。
希望はある。
彼にそれを伝えるには治療するしかない。
僕は男性の隣に立ち、ベッドに横たわる男の子の胸に手を置いた。
冷たい。
熱がない。
彼には魔力がまったくない。
「すぐに治してあげるからね」
言うと、すぐに魔力を供給し始める。
三千人をも超える患者に魔力供給をしてきた僕は、効率的な魔力供給方法を習得している。
以前は最大五分はかかっていた治療だったが、今は長くとも二分ほどで可能になっている。
手元が発光する。
しかしこの光を認識できる人はこの場には僕しかいない。
だから誰もが、僕がただ患者に触れているだけに見える。
100、105、110。
供給する魔力量を徐々に増やす。
供給に慣れているとは言っても、一気に供給することの悪影響を僕は知らない。
確実に慎重に迅速に供給をするしかない。
200を超えると患者の男の子に変化が訪れた。
瞼が動き、指が震えだした。
「……今、動いた」
「え?」
ロウ医師の呟きに、父親が力なく視線を上げた。
彼等には見えているはずだ。
患者の変化を。
「動いて、いる?」
そう動いている。
確実に完治に近づいている。
僕は魔力を供給し続ける。
やがて瞬きが早くなり、指が、手が、腕が動き始める。
300を超えると、男の子の視線がこちらへ向けられる。
同時に手元が強く光り輝き、男の子の身体全体が魔力を帯びる。
魔力が戻った。
「お父、さん……?」
「お、おお、お……こ、こんな、き、奇跡、だ……。
あああっ! ああああああああ! トム! トムッッ!!!」
声を発した息子を抱きしめる父親。
僕は少しだけ後ろに下がり、人知れず嘆息した。
緊張がなかったと言えば嘘になる。
不安もあった。
もし治療できなければ、そういう考えもなかったとは言えない。
だけど治療はできた。
父親は泣き叫びつつ、息子を抱きしめていた。
息子は状況がわからないのか動揺していた。
ロウ医師を筆頭に医師達、看護師達の間に歓声とも悲鳴とも判断がつかない声が上がった。
「ほ、本当に治療できた! た、怠惰病を治せた!?」
「そ、そんな、そんな、こ、こんなことが、本当に……?」
「奇跡だ……奇跡としか言えない」
「彼は一体何をしたんだ?」
部屋が一気に騒がしくなる。
何度も見た光景だ。
でも慣れはしない。
人が喜ぶ姿を見て、僕自身も喜びを感じる。
でもその心情に浸る時間はない。
患者はまだまだいるのだ。
「もう大丈夫です。すぐに日常生活には戻れませんが、リハビリをすれば元通りになるでしょう。
最初は声があまり出せないですし、身体は動かせないので無理をさせないように。
ロウ医師。後はお願いしても?」
「は……は、はい。こ、こちらの看護師に引き継ぎますので」
僕は鷹揚に頷くと、泣きじゃくる父親の背中に声をかけた。
「ではお大事に」
次の患者の下へ向かうべく、僕は部屋を出ようとした。
「あ、ああ、ありがとう、ございました!
ありがとうございました! シオン先生! ありがとう、本当に、あ、ありがとう!」
父親が何度も頭を下げながら礼を言う。
これも何度も見た光景だ。
でもやはり慣れない。
まともに彼等の姿を見てしまうと、心が締め付けられ泣いてしまいそうになる。
でも毎回そんなことしていたら僕の身体が持たない。
だから僕はいつも通り、素っ気ない態度をとる。
「いいえ、大したことじゃ――」
ない、とは言えなかった。
言うべきではないのだ。
僕はその言葉を、封印していたことを思い出した。
だって大したことなのだ。
彼等の数年は、そんなに軽いものじゃない。
謙遜すれば、彼等の苦労を馬鹿にすることになる。
だから僕はこう言った。
「今日はゆっくり休んでくださいね。それじゃ、大事に」
家族が病気になると、日々に追われ、常に怯えて、気の休まる日はない。
それが終わり、ようやく純粋に休むことができる。
それを僕は知っている。
僕もそうだったから。
「さあ、ロウ医師。次の患者の下へ行きましょう」
「は、はい! シオン先生!」
ロウ医師は先程とは違い、笑顔を咲かせていた。
彼は涙を流しながら、それでも表情を引き締め、部屋を出た。
それはロウ医師だけでなく他の医師や看護師も同じだった。
誰もが治療できたことを喜んでいる。
僕はその事実に心を温かくし、そしてすぐに使命感を認識した。
少しでも多くの患者を治さないと。
時間はない。
一度、治療したのならば治療は事実であると広まるはず。
今後は治療に至るまで円滑に進むだろう。
後は時間の許す限り治療することができる。
「本当に……治療できるなんて……」
隣で小さくつぶやいたウィノナの声を、僕は聞き取れない。
何か思いつめたような表情で考え事をしているようだった。
僕はロウ医師達と共に部屋を出ると、次の患者の部屋に向かった。
施設内の患者を治療を終えると夕方になっていた。
治療した人数は200人程だった。
残りの怠惰病患者は約9800人。






