抑えきれない思い
雨は絶えず、風は僕達の移動を遮る。
それでも僕達は必死に馬を走らせた。
そして。
「見えたぞ、シオン!」
イストリアが視界に入る。
松明の光が僕達を迎えてくれている錯覚さえ抱いた。
ようやくだ。
僕は姉さんの横顔を眺める。
変化はない。
呼吸はしている。
けれど意識はないようだった。
早く医者に診せないと。
僕達は焦りを抑えきれないままに道を急ぐ。
小一時間程度でイストリア正門へ到着すると、門衛に父さんが話しかけた。
夜、旅をする人間は少なく、そんな命知らずは通常は存在しない。
しかし火急の時、というものは誰にでも訪れるものだ。
まさか僕達にそんな日が来るとは思いもよらなかった。
父さんが話していた門衛が通用口を開いてくれた。
正門はよほどのことがない限りは、夜半時に開くことはない。
横に備え付けられている数人が通れるほどの通用口を通る。
僕達は馬に乗ったまま通用口を通り、街の中へと入った。
「……な、なんだ、これ」
僕は辺りの情景に一瞬、理性を失った。
まず道端に倒れている人が多く、見受けられた。
そして家族らしき人物を抱えた人達が道を急いでいた。
夜の大通りだ。
普段、巡回兵以外はほとんど外に出ない。
歓楽街では別だろうが、一般人は夜道を歩くことはないからだ。
それなのに今はぽつぽつと人の姿があった。
時刻的には深夜一時くらいだと思うけど。
まさか姉さんと同じ状態なのか?
怠惰病。
それが一気に発症した?
そんな不安を煽るような閃きを、僕は振り払う。
「アルフォンス先生のところへ行く」
アルフォンス医師。
母さんが深手を負った時、村まで足を運び、診てくれた老人。
あの人の腕は確からしく、村で何かあった時にはよく顔を出してくれていた。
この世界の医学技術は高くない。
薬学治療ならばいいが、オカルト治療も蔓延している。
西洋医学のような技術を持つ、アルフォンス医師の存在は貴重だ。
幸い、肉体に傷をつけることで治療する、いわば外科に対しての偏見は薄く、少しずつ医学は進歩しつつあるらしい。
ただそれでも、現代に比べると圧倒的に遅れていることは間違いない。
僕達はイストリア内、大通りを抜け、閑静な住宅区画に向かう。
診療所は一般的な店舗とは違い、住民に寄り添った形態をしている。
そのため住宅区画に位置していることが多いらしい。
道にはちらほらと僕達と同じように、誰かを抱えている人が多かった。
やはり怠惰病が発症したと考えた方がいいだろう。
何がきっかけなのか、判然としないが、今の僕にとって原因はどうでもいい。
姉さんさえ助かれば。
「あそこだ!」
父さんの声を受け、僕は我に返った。
明るい。
視線の先にある診療所付近、そこには人だかりができていた。
十数人ほどの患者が列を成している。
「は、早く診てくれ! 息子が、息子が動かないんだ!」
「どうか、お願い! お願いします、娘を助けてください!」
「お母さんが、動かないんだよぉ……ううっ」
連れている人達は誰もが、だらりと腕を垂らして動かない。
死体を連想させるほどに反応がなく、目を半開きにして、地面をじっと見つめている。
死んでいると言われたら信じてしまいそうなほどに、顔色が悪く、身じろぎしなかった。
姉さんも同じだ。
大雨に打たれても、何の反応もない。
呼吸はしているが浅く、注意しなければわからないくらいだ。
「……どうやら順番を待っている様子だ。待つしかない」
「で、でも姉さんが!」
順番待ちなんてしていたらここまで来た意味がない。
早く医者に診せることで早期に治療ができ、悪化を防ぐことができるかもしれないと思って、ここまで来たのだ。
危険な夜の道を超えたのに、ただ待つことしかできないなんて。
強い焦燥感と苛立ちを覚えてしまう僕の肩に、父さんは優しく触れた。
「みんな、同じだ」
誰もが家族のためにここに来ている。
大切な人を救ってほしい。
そんな思いで集まって、同じように順番を待っている。
……わかっている。
けれど僕にとって一番大事なのは姉さんだ。
だからどうしても、もどかしかった。
歯噛みし、込み上がる負の感情を抑える。
それができたのは、父さんの手が震えていたからだった。
父さんも同じだ。
「私は馬を宿屋に置いて貰えるように頼んでくる。
シオンはここでマリーと一緒に待っていてくれ」
「……うん」
父さんは馬から姉さんをおろし、僕に預ける。
そのまま馬二頭を引っ張り、近くの宿屋へと向かった。
僕は曖昧な現実感を抱きつつも、じっと診療所を眺めた。
姉さんの身体を強く抱き、ただただ自分達の番が来るのを待った。
父さんが帰ってきて、二人で診療所の様子を眺める。
患者達は思いの外、間隔を空けずに診療所の中へ入っていく。
列は進み、僕達も屋内へと足を踏み入れた。
中は、人だらけだった。
看護師らしき人が数名。
彼女達は忙しなく動き回って、患者達に手拭いを渡したり、話しかけたりしている。
足の踏み場がほとんどない。
診療所自体はそれなりに大きく、僕の自宅と同じくらいの規模だ。
二階すべてを含めれば百人以上は入れるし、十数人程度ならば泊まれるくらい。
僕達に気づいた若い白衣の男性が駆け寄ってきた。
少年といってもいいかもしれない。
美しい銀髪を揺らしながらこちらへ近づいてきた。
しかしその格好と立ち振る舞いから、新人というわけでもなさそうだった。
妙に整った顔立ちだった。
医者の卵か、それとも看護師なのだろうか。
この世界に男性の看護師がいるのかどうかはわからないけど。
彼は真摯な視線を僕達に向ける。
「症状を伺います。そちらの方ですか?」
「……ああ。夕刻に、突然倒れてしまって。それからずっとこの様子だ」
「そちらの椅子に――失礼します」
椅子に姉さんを座らせた父さんは心配そうに顔を歪ませた。
彼は姉さんの顔を見て、脈を測ったり、目をじっと見たりしていた。
「…………少しお待ち下さい。先生を呼んでまいりますので。
それまでこちらの手拭いで身体を拭いてあげてください。
体温低下は体調を崩しますので」
父さんは白衣の少年に礼を言い、手拭いを受け取った。
少年は一礼すると人の間を縫って奥の部屋へと消えていった。
僕達は無言で姉さんの外套を脱がせて、濡れている箇所を拭いた。
外套は厚い革でできているため浸水は少なめだ。
それでも手足、顔や髪が濡れているため、丁寧に拭いた。
冷たい。
これは雨のせいではないだろう。
生きているのかどうか不安になった僕は、不意に姉さんの口元に手を持っていく。
呼吸はしている。
浅く小さいが、それでも確かに息は吐いている。
「お待たせしたね。オーンスタイン殿」
白髪の老人。
妙に威厳があり、存在感がある医師。
僕は一度しか会ったことがないが、以前会った時と容姿は変わっていない。
「アルフォンス先生……娘が」
「わかっておるよ。ちょっと失礼」
先生は姉さんの触診をして、脈を測ったり、身体の一部を叩いたりした。
一分ほどの診断を終えて、先生は小さく嘆息する。
「怠惰病、のようだね」
「やはり、そうですか」
父さんは落胆と共に、肩を落とした。
僕も同じ心境だった。
僕は淡い期待と共に、先生の顔を見つめる。
「……怠惰病というのは原因不明の病で、ある日突然、何もしなくなる奇病。
動かず、言葉も発せず、瞳もほぼ動かさない。呼吸は辛うじておるし、排泄、食事も行う。
その最低限の生きるための行動以外は何もしなくなるのだよ」
「治療法は、あるんですか?」
父さんの言葉に、先生は渋面のままに首を横に振った。
「残念ながら、今のところはないね」
足元が崩れるような音がした。
全身の力が抜ける。
僕は倒れないように必死にバランスを保つことしかできなかった。
ない?
治療法が?
バカな。
そんなバカな。
あり得ない。
どうして姉さんがそんな病気になるんだ?
重い沈黙の中、僕は無意識の内に口を開いた。
「ほ、本当に、な、何も、治療方法は、ないんですか?」
「見ての通りだ。手の施しようがない」
確かに他にも怠惰病の患者はいた。
彼等は姉さんと同じように、だらりと身体を横たえているだけ。
家族達は泣きながら、大切な存在の不幸を嘆いている。
僕はふらふらと先生に近づいた。
「な、何も? 何もないんですか?
ありますよね? だ、だって今まで他にも怠惰病の人はいたはず。
それなら少しくらいは、な、何かわかったはずでしょ?」
「……確かにここ数ヶ月、怠惰病を発症した患者が増えておった。
我ら医者は治療のため研究をしておるが、遅々として進んでおらん。
患者は何もしない以外にはほぼ健康体なのでな。
体温が低く、反射反応がない、以外には症状がないのだよ。
だからこそ過去の研究結果も参考にならない。すまんね」
先生は申し訳なさそうに頭を下げた。
違う。謝ってほしいんじゃない。
助けて欲しいんだ。
姉さんを。
僕達の家族を助けて欲しい。
それ以外は何もいらない。
僕は先生の腕を掴んだ。
力一杯握り、縋るように引っ張った。
「い、医者は患者を助けるのが仕事でしょ? そうですよね!?」
「……うむ。その通りだ」
「だったら! だったら助けてくださいよ……姉さんを」
「すまない。儂の力不足だ」
わかっている。
これが誰のせいでもないことは。
アルフォンス先生ができる限りのことをしようとしてくれていることは。
こんな夜中に、患者達を診断していることは。
恐らくは、この数ヶ月、必死に研究し、怠惰病の治療方法を模索していることは。
でも。
僕には、僕の行動を止められなかった。
「どうして!? ど、どうして」
僕は先生の腕を何度も引っ張った。
先生は悲しそうにするだけだった。
「シオン……やめなさい」
「姉さんは! いつも明るい姉さんはずっと、頑張って、文句言わずに……。
た、ただ一生懸命に生きて、誰にも迷惑をかけずに、そうやって生きて、いたのに。
いい人なんだ、優しい人なんだ! 何も、悪いことはしてない!
なのに、どうして!? なんで姉さんが、こんなことに……ならないと……」
もっと他に不幸な目に合うべき人間はいる。
なのにどうして善人である姉さんがこんな目に合うのか。
姉さんの顔が浮かんだ。
笑った顔、怒った顔、悲しんだ顔、嬉しそうな顔、楽しそうな顔、拗ねた顔、悪戯っ子のような顔、寂しげな顔、眠そうな顔、疲れた顔、残念そうな顔、真剣な顔。
今までいつもそばにいた。
いるのが当たり前だった。
すぐに感情が顔に出てしまう、子供っぽさもあった。
その彼女が……今は何も言わない。
「ううっ、どうして……ね、姉さんが……どうしてこんなことに!」
僕は泣き崩れ、先生に体重を預けた。
先生は優しく背中を撫でてくれ、何も言わずにいた。
後ろから父さんがやんわりと引っ張ってくれ、抵抗せずに父さんの胸の中に顔を埋めた。
「……すみません。先生」
「いいや。当然のことだよ。医者として申し訳ないと思っている。
これほどに自分の力なさを恨んだ事はないくらいにね」
アルフォンス先生は拳をグッと握っていた。
先生は、こんなことを何度も続けていたのだろうか。
僕達のような患者を前に毎回、何もできないと言うことの辛さを僕はようやく少しだけ理解した。
父さんだって一緒だ。
みんな辛いのだ。
僕だけが悲劇の主人公を気取って、何をしてるんだ。
僕は子供じゃない。
だったらわかるはずだ。
ここにいる誰もが悪くはない。
誰にも責任はないということを。
僕は涙を拭い、鼻をすすると先生に向き直った。
「……すみません、でした……」
すると、先生は驚いたように目を見開いてすぐに首を振る。
「気にすることはない。当然の反応だからね。
儂は申し訳ないがね、他の患者も診ないといけない。
怠惰病以外にも、どうにもおかしな怪我を負った患者もいてね。
コール。すまんが、後は頼めるかね?」
「はい。大丈夫です」
先生はコールと呼ばれた白衣の少年に向かって緩慢に頷き、僕達に一礼すると別の患者のところへ行った。
「現在、怠惰病についてわかっていることは少ないです。
治療方法はわかりかねますが、対症療法は決まっています。
寝たきりになりますし患者は自分で動けません。
ですから最長でも二時間に一度、身体を動かして褥瘡ができないように――」
僕達は真剣にコールという少年の説明を聞いた。
怠惰病を治療することはできない。
怠惰病と付き合っていくしかない。
寝たきりの患者を介護するようなもののようだ。
僕は現実を受け入れ切れない本能と、受け入れていかなければいけないという理性のせめぎ合いの中で、必死に聞こえる言葉を飲み込んだ。
それは父さんも一緒のようだった。
めまぐるしく変わる現実に心がついていかない。
けれど折り合いをつけないと、姉さんを助けられない。
治療はできなくとも、生きることの手伝いはできる。
例え、それが今までの姉さんとは違っても。
姉さんをじっと見つめる。
ふとした瞬間に涙がこみ上げてきそうだった。
僕は姉さんの手を握った。
冷たく、人の肌とは思えなかった。
両手で包み、僕の体温で温める。
そうすることで少しだけ姉さんの表情が和らいだ気がした。
●○●○
診察を終えた僕達は姉さんを連れて、宿に一泊した。
父さんが寝ずに姉さんの世話をしてくれた。
だけど僕は一切、眠ることができなかった。
そして朝。
日が昇ると同時に家を出た母さんと村の人達が宿屋に来た。
その中にはローズもいた。
ローズはレッドとマロンも心配していたと話してくれた。
そしてグラストさんも話を聞き、宿屋に来てくれた。
全員に事情を話し、誰もが悲しんでくれた。
父さんが涙を流す母さんを慰める中、僕はずっと姉さんの手を握り続けた。