純粋な願い
マリーは馬を借りて、妖精の森に一人で向かった。
鞄には食事と水、手拭い程度の荷物は入れている。
森前にいる警備兵に話を通し、馬を任せて、そそくさと森へと足を踏み入れた。
たまに哨戒兵とすれ違ったが、マリーを一瞥すると敬礼してきた。
どうやらすでに王からの通達はあったらしい。
あるいは事前に周知されていたのだろうか。
自由にアルスフィアに入っていいと言っていたのは事実だったようだ。
しばらく歩くと件の場所へとたどり着いた。
一日前とまったく様子は変わっていない。
瓦礫の山となったアビス。
洞窟が今は見る影もない。
瓦礫には木々や草木、岩々が混じっている。
アビスは突如として現れたが、小山のようでもあった。
それはつまり、アビスは地面から顔を出したということだろうか。
そんなことはどうでもいい。
マリーは雑念を振り払い、辺りを見回した。
誰もいない。
シオンはまだ中にいるのに、救助作業をしている人は一人もいなかった。
作業のための道具も施設もない。
誰も助ける気がないとまざまざと見せつけられた気がした。
マリーは激情を抑えるように拳を握った。
怒りは思考を鈍らせる。
シオンのように冷静に考えるには、感情を抑制する必要があるとマリーは考えていた。
幼い頃からシオンのことをすぐそばで見てきたのだ。
マリーは少しずつ、少しずつ感情をコントロールする術を身に着けていった。
そうすることが正しいのだと信じて、そうしてきた。
そうしなければシオンの隣にいられないと思ったのだ。
マリーは呼吸を整え、落ち着きを取り戻す。
憤っても何も始まらない。
「……上から見た方がいいわね」
誰に言うでもなく呟き、マリーは瓦礫を登り始めた。
ブーストによって身体能力は強化されているため、ある程度の高さならば跳躍可能だ。
だが病み上がりであるため、いつも通りには動けないだろう。
マリーは慎重に瓦礫を登り、やがて頂上に到達した。
あれほど巨大だったアビスは、ただの大小の瓦礫へと成り代わっている。
アルスフィアの中央部を占めているアビスは、かなりの規模があった。
内部は数日も歩けるほどの広さがある。
もちろん暗闇なので進みは遅かったはずだが。
マリーは魔覚でシオンが残った場所を探す。しかし、何も感じなかった。
自分の魔覚では十メートル程度の範囲しか認識できない。
シオンに比べるとお粗末なものだ。
ぽつぽつと魔力を感じない場所があるが、恐らく妖精石だろうと当たりをつける。
数が多いのでシオンがつけてくれた目印とは違うだろう。
「どうすればいいの、シオン……」
考えてもどうしたらいいのかわからず、思わず名を呼んでしまう。
すると寂しさや悲しさが次々に押し寄せてきた。
深く考えてしまうとその場にうずくまりたくなる。
怖くて仕方がない。
もしもシオンが死んでしまっていたら。
そんなことを考えてしまう。
ダメだ。余計なことを考えては動けなくなる。
立ち止まってはいけない。
体を動かさなくては。
悩みや迷い、イライラやモヤモヤ、そういったものがある時、マリーはずっとそうやってきた。
だから歩く。
歩き回ればシオンの魔力を探知できるかもしれない。
マリーは一人、アビスの瓦礫の上を歩き始めた。
でこぼこが多くて歩きにくい。
まだ体力が全快していないマリーにとっては、バランスを取りつつ歩くこともそれほど容易なことではなかった。
しかしマリーは歩き続けた。
身体を動かせば無心になれる。
少しでも進んでいると自分を慰められる。
しばらく歩くと、マリーは足を止めた。
「この魔力、もしかして」
マリーは小さな違和感を覚えると、目を閉じた。
足元のさらに下。
そこに魔力を感じ取ったのだ。
集中して魔覚を鋭敏にすると、確かに感じた。
妖精の村の魔力だ。
「み、見つけた! シオン! いる!? シオーーンッッ!!」
マリーは喜びと共に地面に耳を近づけた。
少しでも情報を得ようと無意識の内にした行動だった。
音はせず、気配もせず、魔力は揺るがない。
妖精の村からはすでに妖精たちは脱出しているはずだ。
もしも魔力の気配がしたら、それはシオンの可能性が高い。
シオンに比べると魔覚の精度は低く、蓋然性は不安定だ。
魔力種の判別もあまりできない。
けれどシオンの魔力は覚えている。
忘れるはずがない。
だが必死で探っても、シオンの魔力は感じなかった。
もしかしたらホールから逃げたのだろうか。
あるいはホールの端っこにいるのか。
シオンは必ず生きている。
やるべきことが明確になると少しだけ視界が晴れた。
マリーは鞄を下ろすと、意を決した。
「絶対に助けるからね」
マリーは一人、瓦礫の撤去を始めた。
●〇●〇
瓦礫は大小の岩々だけでなく、樹木などの自然物も混じっている。
岩だけでも邪魔だが樹木も、となると余計に大変だ。
おかげで撤去作業も遅々として進まない。
ブーストを使っても、巨大な岩や木を軽々と持ち運べるわけではない。
もちろんかなりの膂力を誇るが、それでも限界はある。
自分と同じくくらいのサイズであれば何とか持てるが、それ以上となるとビクともしない。
加えて病み上がりだ。
「はぁはぁはぁっ……!」
すでに作業を始めて三時間。
体中が汗だくになり、服も汗で透け始めていた。
健康的な色気があるが、マリーはそんなことに気づきもしない。
汗を拭いつつ水をあおる。
三時間の作業で進んだのは数十センチ。
これではいつまで経ってもホールがあった場所までたどり着けないだろう。
しかし他に方法がない。
愚直に撤去するしかないのだ。
もしもシオンだったら妙案を思いつくに違いない。
すぐに提案し、指示を出してくれるはずだ。
シオンはすごい。
昔からずっとすごい弟だった。
マリーはシオンのすべてが愛おしかった。
子供の頃からずっと彼を見ていた。
賢くて大人びているのに、魔法に関しては無邪気で子供っぽい。
そんなところも愛おしい。
優しくて明るくて一緒にいると楽しくてしょうがない。
魔法なんてすごい技術を生み出したのも自慢だった。
魔法でたくさんの人を救ってきた。
そんな弟の姿を間近で見ていたのだ。
シオンはマリーにとって自慢の弟だった。
そして嫉妬の対象でもあった。
子供の頃は姉だから弟を守らないといけないと思った。
だから鍛えて、強くなろうと思った。
けれど結局はシオンに守られてばかりだった。
悔しくて悲しくて必死に鍛錬を積んだ。
そのせいでシオンを悲しませたこともあった。
それじゃいけないと思った。
体を鍛えても心を鍛えなければ意味がないと。
そんな折に怠惰病に罹ってしまった。
眠っている間も意識はおぼろげにあった。
ずっと誰かが傍にいて、誰がか優しくしてくれたことを覚えている。
お父様やお母様、そしてシオン。
特にシオンはいつも何かをしてくれていた。
必死で健気で優しくて、触れる手から深い愛情をマリーは感じていたのだ。
断片的な記憶。
だが間違いなくそれは現実だった。
目を覚ました時、マリーはすべてを知った。
驚き、悲しみ、恐れ、そして喜んだ。
家族や仲間たちの愛情が嬉しくてしょうがなかった。
そして弟が自分を助けるために治療方法を生み出したと聞いた。
マリーはシオンをもっと愛しいと思った。
これほどに深い愛を知っては、もうシオンのことで頭が一杯になってしまうのも当然だった。
治せるかわからない病気に罹った姉を治すために、ひたすらに治療法を研究したのだ。
周りからの風当たりが強かったとも聞いていた。
もちろん父や母も献身的に看護をしてくれていた。
だけどやはり長い年月、治療は開発されずに、諦めそうになることもあったという。
しかしシオンは諦めなかった。
何年かかっても絶対に助けると、そう言い切っていたという。
だから自分も諦めない。
どれだけかかってもシオンを助ける。
「絶対に……絶対に、助けるから……!」
マリーは必死に瓦礫をどかし続けた。
ぽつぽつと手に何かがこぼれた。
雨は降っていない。
マリーはそれが自分の涙だと気づいた。
怖い。怖くてしょうがない。
シオンがもしもいなくなったら。
あの笑顔がもう二度と見られないとしたら。
どうすればいいのだろうか。
「シオン……イヤ……イヤよぉ、死んだらイヤ……!
一人にしないでよぉ……! ぐすっ……うええぇぇっ!!
あああぁあぁっ!! うわあぁぁー!」
堰を切ったように涙は溢れた。
シオンがいない。
それだけでマリーの心は不安定になった。
あまりの恐怖と喪失感に吐き気が込み上げてくる。
涙はとめどなく溢れ、頬をひたすらに濡らした。
これほどまでに泣いたのは初めてだった。
マリーの心はぐちゃぐちゃだった。
最愛の人が死んだかもしれない。
そう思うだけで胸が張り裂けそうだった。
シオンに話したいことがたくさんある。
シオンとしたいこともたくさんある。
それだけじゃない。
シオンはきっとまだ魔法の開発をもっとしたいはずだ。
もっともっと魔法を発展させて、もっともっと魔法が使いたいはずだ。
それができなくなるなんて、耐えられなかった。
子供の頃からシオンは魔法が大好きだったのだから。
自分の気持ちとシオンの気持ち。
実感と想像が混ざって、曖昧なまま胸に去来する。
自分の感情や考えがわからず、それでもマリーは手を動かし続けた。
「ううぅっ! ううあぁっ……ぐすっ、ううっ!」
慟哭を抑えずにマリーは瓦礫を動かした。
泣きじゃくりながらも、ただひたすらに作業を続けた。
泣いても泣いても涙は枯れなかった。
気づけば手はボロボロになっていた。
それでも構わずマリーは作業を継続する。
むしろ痛みがあるほうが良かった。
その方が張り裂けそうな心を誤魔化せる。
痛みがあればシオンの苦しみを少しでも感じることができる。
役立たずの腕なんて壊れてしまえばいい。
シオンを助けられなかった身体なんていらない。
「マ、マリー様! や、やめてください!」
不意に誰かに腕を掴まれた。
思わず手を止めたマリーは振り返る。
そこにはウィノナやゴルトバ伯爵、ドミニク、カルラ、騎士たちが立っていた。
空はいつの間にか赤く染まり、夕暮れ時を知らせていた。
どうやらかなりの時間、没頭していたらしい。
爪は剥がれ、体中は土に汚れている上に、傷だらけだった。
我に返ると疲労感がどっと押し寄せてくる。
もう身体は限界間近だった。
しかしマリーは構わず作業を再開した。
「シオンを助けないと……シオンを」
「一人でなんて無茶です!」
「じゃあ誰がシオンを助けるのよ!!」
マリーの怒声にウィノナはビクッと体を震わせた。
「王様はシオンを助ける気がないんでしょ。
あなたたちだって、誰もシオンを救助する気がないんでしょ!
あたしがここに来た時、誰もいなかった。誰も来なかったっ!!
シオンはたくさんの人を助けたのに! シオンとたくさん一緒にいたのに!!
それなのに見捨てるんでしょ!!?」
「そ、そんなことするはずがありません!」
「だったらなんで誰もいないのよ!!!」
マリーの必死の叫びに誰もが言葉を失った。
涙は溢れ、声は震えていた。
ウィノナも、ゴルトバ伯爵も、ドミニクも、カルラも、騎士たちも、ラルフガング王も誰も彼もがシオンを助けようとしなかった。
助けられていないことはしょうがない。
けれど助けようともしないのは許せない。
状況を見て助かっているはずがない?
だから助ける必要がない?
みんなのために命を懸けて戦った人によくもそんなことを言える。
よくも。よくも!!
「なんで誰もシオンを助けようとしないのよ!
なんで、誰も……! あたしの弟を……助けないのよ!!」
マリーは項垂れた。
涙は滴り、瓦礫を濡らした。
シオンが可哀想だ。
あんなにみんなのために頑張った人なのに、どうしてこんな目にあわなければならないのか。
みんなを助けるために一人で残って、戦ったのに。
命を懸けて、身を犠牲にしたのに。
どうして、どうして。
自分の弟を馬鹿にするな!
大事な人を馬鹿にするな!
マリーは怒りに手が震えるのを感じていた。
けれどそれ以上の怒りは口にはしなかった。
きっとシオンならそんなことを望みはしないだろうから。
マリーは再び瓦礫を撤去し始めた。
鬼気迫る姿だった。
だがだからこそ純粋でもあった。
一途に弟を思う姉の姿。
あるいは愛ゆえに男を救おうとする女の姿。
どちらとも言え、どちらとも言えなかった。
マリー以外は身じろぎ一つできない。
それほどに衝撃的な光景だったのだろう。
そんな中、変化が起きた。
マリーの頭上から光の粒子が落ちてきたのだ。
それは妖精の魔力だった。
マリーは思わず手を止めて頭上を見上げた。
メルフィを筆頭に妖精たちが周囲を飛び回っていた。
美しい光景だったが、マリーの心情は複雑なままだった。
メルフィが舞い降りて、マリーの眼前に止まった。
何かを言っているが、マリーは妖精語をほとんど知らない。
必死に身振り手振りをしているが、要領を得なかった。
「……謝っておるようですな。
どうやらアビスから脱出した後、大量に魔力を失っていたため寝ていたとのこと。
今ようやく起きたので、すぐにシオン先生を助けよう、と言っております」
メルフィは泣きそうな顔をしながら必死に話している。
口腔から溢れる魔力には強い感情と意思を感じた。
あまりにまっすぐで純粋な思いが伝わってきた。
口腔魔力はずるい。
こんな風に痛いほどに気持ちが伝わってくるのだから、何も言えなくなってしまう。
メルフィ以外の妖精たちもマリーに何かを訴えてきていた。
「今までの態度を謝罪すると。
助けてくれてありがとうと、シオン先生とマリー先生、騎士たちにも言っておりますな。
私たちも手伝うと」
涙は収まっていたのに、また滲み始めた。
さっきまでとは違う感情が込み上げてきた。
「申し訳ありません、マリー殿……儂たちもメルフィ殿たちと同じ気持ちです。
シオン先生を助けるのは当然のこと。もちろん助けたいと思っております。
いえ、助けなければいけない。シオン先生は師であり友人でありライバルであり、儂たちの敬愛する人なのですから。
儂たちはシオン先生を見捨てたわけではありません。
ウィノナ殿はシオン先生たちが出立後、心配するあまり休めておりませんで……。
報告を受けた時、儂たちと共にアルスフィアへ赴き、一人で救助作業を始めたのですが、儂が止めたのです。
儂たちだけでは微力ゆえ、シオン先生を助けられないと考え、救助の準備のために奔走しておりました」
よくよく見ればゴルトバ伯爵たちの後方には、作業員らしき人たちがいた。
かなりの人数で、しかも屈強な男たちだった。
彼らは救助に必要な仮設施設を建てたり、道具を持って何やら作業を始めたりしている。
「王もああは言っておりましたが、シオン先生を助けたいと思っています。
表立っては行動するのは難しいですが、私財を投じて支援すると言っております。
カルラやドミニクや騎士たちも各所に声をかけ、救助費用も捻出しておりますぞ。
準備に時間がかかり、マリー殿一人にしてしまいました……申し訳ありません。
すぐに説明すればよかったのですが……」
「しゃあねぇよ。あんな状況じゃな。アタシだって同じ立場ならまともじゃいられねぇだろうさ」
ゴルトバとカルラの優しさが身に染みた。
話を聞かずに一人でアルスフィアに来たのはマリーだった。
シオンを見捨てたために、伯爵やドミニク、ウィノナの態度がおかしかったのだと勝手に勘違いしてしまっていた。
しかし実際は、ウィノナたちはシオンを助けるために奔走していたのだ。
盲目的になっていた。
周りが見えていなかった。
彼らは、彼女たちはそんな人間ではないと知っていたはずなのに。
マリーはその場に座り込んだ。
「マリー様!?」
「だ、大丈夫ですかな!?」
「お、おいしっかりしやがれ!」
「す、すぐに治療をしないと! 医師を呼んでくれ!」
ウィノナとゴルトバ伯爵、カルラ、そしてドミニクがすぐに駆け寄ってきてくれた。
「ご、ごめんなさい……あ、あたし……勘違いして、イヤな態度とっちゃって」
「そ、そんな! マリー様のお気持ちを考えると当然ですよ……わ、わたしだって……早くシオン様をお助けしたいですから」
「謝る必要はありませんぞ。こちらにも非はあります。
それによほどの戦いだったご様子……何もできずに申し訳ありませんでした」
「アビスでは何もできませんでした。だからせめてシオン様の救助には尽力したいのです。
絶対に助けましょう、マリー先生」
騎士たちは大きく頷き、妖精たちはキラキラと魔力を落とした。
ここにいる誰もがシオンを助けたいと思っている。
「王様にも謝らないと……あたし、酷いこと言ったから」
「ラルフはすべて承知しておりました。
そもそもあやつの命で起きたことですからな。
シオン先生のことは自分の責だと思っているでしょう。
それに表面上マリー殿とラルフが対立している状況を鑑みれば、ラルフが陰ながらシオン先生救出の支援をしているとは誰も思いますまい。
シオン先生のことを正しく評価しない輩もいるようですし。
むしろ動きやすくなりますから、好都合というもの。
ですので、お気になさらずともよいかと思いますぞ」
「……ありがとう、伯爵」
ゴルトバ伯爵の気遣いが心に染みわたる。
伯爵だけではない。
他のみんなの優しさが痛いほどに伝わってきた。
マリーは頭を下げた。
下げずにはいられなかった。
「お願いします、シオンを……弟を助けるためにみんな力を貸してください」
肩も声も震えていた。
健気な姿に誰もが表情を険しくした。
それは決意の表れだった。
「もちろんです!!」
「貸すに決まってますぞ!!」
「当たり前だ!!」
「シオン様を助けるぞ!!」
誰もが同じように叫んだ。
ここにいる全員がシオンを助けるために集まってくれている。
マリーは己を恥じ、そして全員に感謝した。
シオンは愛されている。
それを目の当たりにしたマリーは、目覚めてから初めて笑顔を見せた。






