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sideWill◇前編




 19歳の秋。リデルト家の離れの一室で、ひっそりと母が息を引き取った。36という若さで、その死因は、元より短命な母の血筋の遺伝によるものだった。


 特別美しいわけでも、なにか秀でたところがあるわけでもない。時折俺を見て、申し訳なさそうな顔をして。

 本邸で過ごす父ととても仲が悪くて、記憶のある限りでは寄り添い笑い合うところなど一度も見たことのないような━━そんな、母だった。


「……母さん」


 口をきつく結び、眉間に皺が刻み込まれ、幸福感など欠片も見受けられない母の顔を眺める。


 少しずつ病に侵されて衰えていく体を、母は父に知らせるなと固く離れの使用人に命じていた。そして、俺にも。

 それは懇願にも近いものだった。

 どうかあの男には絶対に知らせないでくれと。死ぬ前の、最後の頼みだからと。


 政略結婚で結ばれた二人の間には、愛情の欠片もなかった。子の俺には、少しは愛情を向けてくれていた。でも、二人の間にそれを感じることは、ただの一度もなかった。


 だから、使用人は母の頼みを聞き入れた。そして、俺もまた。修復など不可能だと、そう思っていたから。知らせたってどうなるものでもないと、そんな諦めもあったのかもしれない。


 そうして、母が死して初めて、父は使用人から報告を受けてその事実を知った。

 そのとき俺は、自分の判断を猛烈に後悔することとなった。


「……マリアナ?」


 魂の抜けたような顔で。その口からこぼれ落ちた声は、俺が今まで一度も聞いたことのないものだった。父の口から母の名前を聞くことすら、初めてだった。


 部屋に現れた父は、真っ青を通り越して白い顔をして、体を震わせながら母の元へ歩み寄った。ゆっくり、ゆっくりと。まるで、母の死を、その現実を知るのを、恐れるように。


「マリアナ」


 そして、ベッドの上で横たわる痩せ細った母の姿を間近で見て、父は崩れ落ちた。恐る恐る血の通っていない母の顔をなぞる。後ろから見ていても分かるぐらいに、父は震えていた。


「マリアナ……マリアナ!わああああああ!!」


 敵のように父を睨み付ける使用人たちと俺に囲まれた中、泣き叫ぶ。何度も名前を呼んで、冷たい体を力任せに抱き締めるその姿を見て、初めて俺達は父の隠れた気持ちに気付いたのだ。


 その声には、公爵家の体裁も父としての威厳もない。


 それは、ただただ、母の死を。

 愛する人の死を、嘆くものだった。








「ウィル」


 母の死から一ヶ月が経ち、俺は母の実家のフラーラ家を訪ねていた。


 父はあれから、悲しみに暮れて母の部屋に籠ったままで、もしかしたらこのまま死んでしまうのではと思うほどだった。

 そんなとき、よく冷え切ったリデルト家からよく俺を連れ出しては構ってくれていたじいじ━━母方の祖父から、手紙が届いた。


「これをお前に」


 その内容は、母が遺したものを渡したいというものだった。母が死ぬ直前、じいじに送っていたらしい。これが、自分の全てだと。

 手渡されたものを眺める。


「……日記?」

「ああ」


 それは、分厚い、まるで本のような日記だった。

 その重さを認識した瞬間、全身がぶわりと震えた。この中に、俺が知らなかった、教えてもらえなかった、母の全てがある。父が愛していた母。自分のことをひたすら父に隠し続けた母の、すべてが。


「お前にはつらい思いをさせたな、ウィル」


 じいじが申し訳なさそうに、頭を下げる。その顔が、俺を見るときの母の顔と重なって、心臓か鷲掴みされたように苦しくなった。


「ゆっくり読みなさい」


 俺はどれほど情けない顔をしていたのだろうか。じいじはぽんと頭を撫でた。そして、俺を一人残して、部屋を出ていった。

 手元にある日記に目を落とす。よれて古びた、何年もの時を感じさせる表紙。


 どっどっと鼓動が早まるのは、恐れからか、期待からか。一度深呼吸した俺は、そっと、その日記を開いた。




「……嘘だろ」


 そして俺は、驚愕の事実を知ることになる。


 そこには、たしかに、母の全てが描かれていた。


 自分に自信がないこと。そのために、虚勢を張ってしまう母の性格。小さいときに父に憧れを抱き、恋をした思い出。本当は好きなのに素直になれずむしゃくしゃする思い。

 ただの政略結婚で一緒になっただけで愛されておらず、むしろ嫌われていると思い込み、ひたすら自分の気持ちを父に知られぬよう隠し続ける日々。

 貴族としての義務で子を成し、愛のない家庭に生んでしまい、申し訳なく思っていると何度も綴られる俺への謝罪。

 父と自分の血を引き見事に特徴を受け継いだ俺を、宝物のように思い、愛してくれていたこと。俺を自分達の代わりにたくさん愛し育ててくれたじいじへの感謝の言葉。

 病気になり、祖母も短命だったためこうなると予想していたことと、その準備。

 なぜか冷めきった自分達の関係の代わりに愛人を作ろうとしない父への疑問。そして、わずかな喜び。

 自分が病気と知れば、父は夫の義務として自分の治療をしようとするかもしれない。でも、そんなのはいらないのだと。それよりも、早く自分から解放されるべきなのだと、そして、自分など忘れて幸せになってほしいと、最後まで父を思う、母の一途な愛情。


 すれ違っているだけだと知らない、母の、すべて。


 どうしてこれを言ってはくれなかったのか。どうして死ぬ前に、父に伝えようとは思えなかったのか。

 あまりにも拗れすぎた二人の関係は、交わることなく、途絶えた。


 父を一方的に責めることはできない。聞いてみなければ分からないが、父もまた、母と同じような葛藤を抱えていたのではないだろうか。愛情を素直に示すことのできない自分に。


 だから、せめて俺が母が病気なのだと一言伝えておけば。二人は死までの僅かな時間を、幸福なものに変えることが出来ていたかもしれなかったのに。




 読み進めているうちに日が暮れ、頬を濡らし続けていた涙を拭っていると、じいじから声がかけられて俺は顔を上げた。


「読み終わったかい」

「……うん」


 じいじは痛ましそうな顔で、俺の赤くなっているだろう目を見つめる。


「知ってたの?じいじは、母さんの気持ちを」

「……すまない」

「母さんが、望んだんだろ?どうせ長く添い遂げられるわけではないからって」

「あの子は妻に先立たれた私を側で見てきたからね」


 残されるものの気持ちを知っているからこその選択だったのかもしれない。

 自分の気持ちを誰にも悟らせず、最後まで隠し抜いて一人亡くなっていった母の。


 そんなの。


「許されないだろ」


 それでもやっぱり、俺はひどいと思うよ。母さん。

 どうして一緒に幸せな時間をすごそうと思ってくれたなかったのか。自分が側にいられればそれでいいなんて。そんなわけ、ないだろ。


 母さん、父さんはいま、母さんの死に囚われているよ。きっと、素直になれず母を思いやれなかった自分を、殺してやりたいと思うほど誰よりも悔いているよ。


 こんなの、誰も幸せになれやしない。

 今さら知ったって、時間は巻き戻せない。二人を素直になるよう諭すこともできないのに。


 でも、だからこそ。俺はこれを父に見せなければいけない。そして立ち直り、母が愛した、自信に満ち溢れる父に戻ってもらわなければ。


 死んでしまってからでは遅い。生きているうちに行動しなければダメなんだ。いつまでも悔いて塞ぎ込むよりも、これからどう生きるかを考えよう。母の思いを受け止め、どうするべきなのかを。


「俺、帰るね」

「ああ」


 日記を片手に立ち上がる。帰ったら、一発ぐらい殴っても許されるだろう。そんなことを考えながら。


「じゃあ」

「またおいで」


 勝手知ったるフラーラ邸を進み、じいじと別れの挨拶を交わして外に出る。灯りに照らされる仄暗いフラーラ家特有の大きな階段を、一段一段降りていく。


 どうにもできないのは分かってるんだ。ああ、それでも。

 もし過去に戻れるなら。ただ素直になれないだけだった二人を、向き合わせることができるのに。

 たとえ遺伝による母の死を変えることは不可能でも、こんな悲しい終わりなんかではなくて、幸せな終わりを迎えることが出来たかもしれないのに。


 そんなことを考えていたからだろうか。


「━━うわっ!?」


 はしゃいで元気に駆け回っていた子どものとき以来転んだことのなかった階段で、俺は久しぶりに足を踏み外した。

 ガクンと体が傾く。体勢を持ち直そうとしたが、間に合わず。どうにもならない浮遊感にさらされた直後、階段を転げ落ちていった。


 日記が手から離れていくのを視界の端で捉えた俺の意識はそこで一旦途切れ。



「目が覚めた?」


 意識が戻ったときに目をしたのは、心配そうに自分を見下ろす母、マリアナの姿だった。






 ◇◆◇





 最初は目を疑い。次に自分の頭を疑い、夢かと思い、階段を転げ落ちたことによる怪我の痛みにそれが現実であると知った。


 マリアナ・フラーラと名乗る、若くまだ幼さすら感じさせる少女。

 それは、間違うことなく、つい一ヶ月前、自分の気持ちをついに墓場まで持っていってしまった母だった。

 じわりと潤んだ目は、ばれないように何度も瞬きして隠した。


 きっと自分は物分かりがいいほうだ。そうでなければこんな非現実的なこと、そんな簡単に受け入れられるわけがない。

 過去に戻れるならと思った。でもまさか、本当に過去に戻ってしまうなんて。しかもそれが、自分が生まれるよりも前だなんて。


「誰が予想できるって言うんだよおお」


 母がじいじを呼びに行き、一人になった部屋で、俺は呟いた。

 無防備すぎないか、母さん。得体の知れない男を保護し、身分も分からないのに家出したという男に雇えと言われてあんな簡単に受け入れるとは。


 ああ、でもそうか。今だからこそ分かるけど、父さんのことを好きだった母。面影のある俺。なんとなくでも、俺に安心感を抱いてしまっているのかもしれない。


 これは、神様が俺にくれた奇跡だ。二人の終わりを幸せなものにするためにくれた、最高のチャンスなのだ。

 なにがどうなって俺が過去に来てしまったのかは分からないし、いつどんな風に戻るのか、戻れるのかも分からない。

 でもここで俺がやるべきことは、たった一つ。


 父と母の関係を、きれいに結びつけること。

 そのためには、俺はなんとしてでもここに留まらなければならない。二人の誰よりもそばに。

 ならば協力は不可欠だろう。


「入るよ、ウィルくん」


 他ならぬ、この人の。


「じ……」


 おっと。じいじと呼ぼうとして、あわてて口を閉じる。不審そうに俺を眺めるじいじに、にっこりと笑った。じいじはこの顔が好きなのだ。笑ったときが一番両親の特徴がよく出ると言っていた。

 見事にじいじは気付いたようで、目を見張った。


「……マリアナ、少し席を外しなさい」

「?はい」


 じいじの言うことを聞き、不思議そうにしつつ部屋を出ていく母。それを見届け、扉が閉まった瞬間。


「……君のことを聞こうか」


 じいじは俺に詰め寄った。まだ不審感は残っているものの、その目は信じられないものを見るようで、おそらくじいじの中で既に答えは出ているのだと分かった。


「あの、信じられないと思うんですけど」



 そして俺は、すべてを打ち明けた。


 俺が二人の子であること。母が最近亡くなったこと。そこで二人の拗れた関係が判明したこと。日記で全てを知り、帰ろうとしていたところで階段から落ちていまここで拾われたこと。


 内部の人にしか知り得ないことまで話せば、じいじはすぐに信じてくれた。でも信用する決め手になったのはやはり、俺にある二人の面影なのだと思う。


 母さんは自分に似ているとは思わなかったみたいだけど、さすがは父親だ。じいじは俺の中の母の遺伝もしっかりと見つけられているみたいだった。


「そうか……アランくんもマリアナのことを思ってくれていたのだな」

「じいじはそれは知らなかったの?」

「ああ。私が知っているのは、マリアナが密かに思っていることだけだったよ」


 それもそうか。知っていたならきっと、じいじも俺と同じことをしようとしたはずだ。誰にも悟らせようとしなかったのは、父も同じなのだ。


「未来の私も、さぞ後悔していただろうな……」


 だからこそ。


「俺は、この機会を絶対無駄にはしない」


 決意表明をするように、じいじに向かってはっきりと告げる。じいじも強い意志を秘め、こくりと頷いた。


「ウィル。お前がこうしてここに来たということは、それはお前の役目なのだろう。出来る限りの手助けをする。どうか、マリアナを。二人を、頼んだよ」


 そうして俺の、父と母の関係を矯正するための日々が始まった。





 ◇◆◇





 第一に問題になったのが、父、アランだった。

 父はフラーラ邸を訪ねて俺を見るなり、見たこともないほどの形相で俺を睨んだ。心内を知っているからこそ、これが嫉妬と母を案ずる気持ちからくるものなのだと分かる。


 ただ、その若さに少し呆けてしまった。だって、18だぞ。母さんは16だって言うし。

 父さんの若い頃か。いまでもそうだけど、めちゃくちゃカッコいいじゃん。そりゃ母さんも自分が隣を立つ自信も無くすよなあ。


「はい、やめ」


 そんなことを考えながら、俺のことで揉めてヒートアップしていく会話を打ち止める。全く、子どもである。


 なるほど。二人が会話すらしなくなっていったのは、話せばこうなるから距離を置こうと考えるほどには大人になっていたからなのだ。


 たしかにたまーに顔を付き合わせたときには、こんな言い合いをいつもしていた。……変わってない。本当はこんな二人でもいいからとにかく一緒にいるところを眺めていたいけど、俺が本当に求めているのは、この先にあるものなのだ。


 俺が母さんの側にいるのが気にくわないのだろう父を、どうにか説得しなくてはならない。


「いい加減にして!アラン、あなたがウィルを認めようと認めなかろうと、これはフラーラ家のことで、お父様の決定なのよ!あなたが口出しすることでも、していいことでもないわ!」


 と思っていたそばから、母さんが火に油を注いだ。なんてこった。これはひどい。思い人に他の男をかばわれ、蚊帳の外にされた父の心境はいかに。そして俺への敵意はさらに膨れ上がることだろう。


 思わず真顔になりかける。どうして二人とも、俺が二人に似てることに気付けないんだ。お互いそんなに思いあってるくせに。


 挑むような視線を向けられた俺は、母を追い出して父と話し合うことにした。もはやこれは対決だとギラギラ目を鋭くさせる父を眺めながら。



「なにが目的だ」

「なにも企んでない」


 悪いことは。二人のために動こうとしてるだけだ。心の中で付け足す。

 相手が若くて自分の方が年上だと、父であってもこうも余裕が出来るものなのかと自分で自分に感心した。


「あのフラーラ伯爵までお前を信用しているみたいだが、俺はお前を絶対に信用しないからな」


 じろり、微塵も隙を感じさせない厳しい目付きで睨まれる。


「いいか。あいつに手を出してみろ」


 胸ぐらを掴まれて、身長は同じくらいだからさすがに持ち上げられることはなかったけど、ちょっと苦しかった。

 父さん、なんで。


「そのときは殺してやる」


 そんなに母さんを思ってるくせに、本人の前でその心配を少しでも見せられないかな。

 もし、万が一、そんなことがあったら。言葉の通り父は俺を殺すのだろう。その本気さが伺えて、俺はため息を吐き出したくなった。


「俺はそんなこと絶対にしない。好きに見張ってていいよ」


 そうやって、母をいつでも見守っていてくれよ。片時も目を離さず。俺を監視する名目でもなんでもいいから。

 母さんのそばに、いてくれよ。





 ◆◇◆





 それから二週間が経った。その間に俺は、死んでしまった母と過ごせる時間を神に大いに感謝し、それと同時に鈍すぎるのも罪なのだと知った。


 父は何度もフラーラ家に来ては俺に憎まれ口を叩きつつ、母に変わりがないことをさりげなく確認していた。


 ある日、夜会が近いということで、父から母へ贈り物があった。母の魅力をよく知っていると分かる、母に似合う赤いドレスだった。


 聞けば贈り物はよくあるという。

 そりゃそうだ。父さんは母さんのことを愛してるんだから。たとえ意地を張っていても、やるべきことはちゃんとやっていて感心した。


「へぇ。贈り物はちゃんとしてるんだ」

「あの男はね、周りからの評価がなにより大事なのよ」

「マリアナさんって、ひねくれてるよね」


 だから思わず呟けば、父の思いなど全く気付いていない鈍すぎる言葉が返ってきて。自信がないからといって、どうしてそこまでひねくれた解釈を出来るのか不思議なほどだった。


 だから、拗れるのだ。いまが一喝を入れるところではないのだろうか。二人の気持ちを知る俺が背中を押さずして、誰が押すというのか。


 年をとればとるほど、回数を重ねれば重ねるほど、素直になるのは難しくなる。今でさえこんなに頑固なのだ。

 少しずつで、いいから。


「今素直にならないと、もうこの先きっと戻れないよ。マリアナさんが辛い思いをするだけだ。だから、少しでもいい、俺は誰にも言わないから、ちゃんと本音出していこう」


 そのきっかけを、作っていこう。

 母は泣きそうになって、ドレスに視線を落とした。それを拾って大事そうに抱き締める姿を見て、やっと一歩前進かなと、俺は安堵の息を吐くのだった。





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