前編
赤茶色のあちらこちらに跳ねた癖の強い髪。特徴のない平凡な顔に、特別スタイルがいいわけでもない平均身長の体。そのくせ、言われたら言い返さなければ気が済まない気の強さ。
まさに良いとこなし。
それがマリアナ・フラーラだった。
伯爵家の長女に生まれた彼女は今、まるで親の敵を見るような目付きで公爵令息の婚約者のアラン・リデルトと対峙していた。
「今なんと言ったの?」
「…………」
「答えなさい、アラン・リデルト」
声に威圧感をのせて、目の前の無駄に整った容姿の男に問い掛ける。アランは赤色の瞳を一瞬揺らがせ、マリアナを見据えて口を開いた。
「政略結婚でもなければお前みたいな女と結婚しないのに、と言ったんだ」
「違うでしょう」
ピシャリとマリアナの冷たい声が飛んだ。
マリアナはお世辞にも大きいとは言えないつり気味の目で、勢いに圧されたのか先程と違う言葉を吐いた男を睨み付ける。紅の塗ってある彼女の赤い唇が、一層彼女のギラギラした雰囲気を鋭くさせていた。
「政略結婚でもなければお前みたいな可愛くない女とは絶対に結婚なんてしないのに、と言ったのよ」
可愛くないだなんて、そんなのは自分でも分かっている。下にいる一人の妹はあんなにも美人なのに、と言われるのは常で。
マリアナにとって一番気にしているそのコンプレックスを持ち出して婚約者にそんなことは言われるのは、なによりの屈辱だった。
「……分かっているなら聞き返すな」
「アラン、私だって言わせてもらうわ」
アランの指摘にはなにも反論せず、マリアナは震える手を握り締めて立ち上がった。
「顔が良いからって何でも言っていいと思っているのなら大間違いだわ。こっちだって、貴方みたいな平気で人を貶めるような性根の腐った人と結婚するぐらいなら死んだ方がマシよ!」
気は強くても、マリアナは自分に強いコンプレックスがあるからこそ、特に容姿に関して人を馬鹿にするようなことは決して言わなかった。
鬼のような形相で一息で言い切ったマリアナは、体の内側からグツグツと込み上げてくる熱い衝動を口を噛み締めてぐっとこらえた。
こんなことを言ったって、自分達の政略結婚がなくならないことは分かっている。幼い頃に決まってから、どんな口論をしようがひどい喧嘩をしようが、一度も婚約の話は揺らいだことがない。
だからこそ逆に、自分を婚約者として認めていないのと同意のことを言ったアランに、腹が立った。
いい加減私にだって、限界というものがあるのよ。
「もういいわ。こんなことを言い合っていても婚約は白紙にならないのだもの。不毛な言い争いは避けましょう。ちょうど私も忙しくてもう貴方なんかに割く時間はなかったのよ。ごきげんよう」
なんなら結婚式の日までさようなら。
その意を込めて、出ていけとヒラリと手を振った。ここはフラーラ邸であるので、出ていくのはアランの方である。
アランは不機嫌そうに眉を潜めると、忌々しそうにマリアナを睨みながら立ち上がった。
「ああちょうどいい。わざわざ可愛くない婚約者と一応円満にやろうかと足を運んでやっていたが、正直なところ子守りももううんざりしていたんだ」
「誰が子どもですって!?」
「そうやってすぐ怒るところなんか、まさに子どもだろう。自分の感情もちゃんと制御できず喚くガキだ」
「今すぐ出ていきなさい、アラン・リデルト!もう二度とこの敷地に足を踏み入れないでちょうだい!!」
マリアナは顔を真っ赤にさせて扉の方を指した。アランがふんと鼻を鳴らして不機嫌そうに向かっていく。そして一度もマリアナを振り返ることなくそのまま出ていった。
足音が遠ざかっていくのをしっかりと耳で聞き届ける。
その直後、マリアナは上げていた腕を下ろし、床にへたり込んだ。
「ああ……」
真っ赤だった顔が嘘のように血の気が引き、真っ青を通り越して真っ白になる。ほろり、怒りと共にこらえていた涙がこぼれて、嘆くように両手でその顔を覆った。
またやってしまった。どうして自分はこうなのか。
前はこんなではなかったのだ。逆に、言いたいことも言えなくて……いや、本音を言えてない点では変わっていないのかもしれない。自分に自信がなくてとても内気で、父の後ろに隠れてしまうような子どもだった。
それがいまでは、この有り様だ。侮られないようにと弱さを隠すために立てた壁が、高くなりすぎた。
言われっぱなしで終わることは私のプライドが許さない。
少しでも自分が殊勝なところを見せられれば、また少しは変わってくるかもしれないのに。自分が先に折れたせいで相手に優位に立たれるのは、嫌なのだ。
なんて面倒くさい性格なのだと、自分でも自分を恨みがましく思う。ここまできて、後に引けなくなっている自覚はあった。
ああ神様。せめてなにかきっかけをちょうだい。私が素直になれるきっかけを。マリアナははらはら流れる涙もそのままに、胸の前で手を組み天に祈った。
その願いが通じたのだろうか。
バタバタと慌てて走る足音が聞こえてくる。その荒い足音は、この部屋へ近付いてきていて、マリアナは何事かと目元を拭い廊下の方を見た。
直後、扉が開いてそこから現れたのは、喧嘩別れしてもう帰ったとばかり思っていた婚約者のアランだった。
珍しく冷静を欠いた様子に、マリアナは先程の出来事も忘れて、なにか只事ではないことが起こっているのかと目を見張る。同じくアランも口論など無かったかのようにマリアナに向かって口を開いた。
「人が、人が倒れてる」
◇◆◇
「目が覚めた?」
倒れていたその人が目覚めた気配がして、客室のベッドの横で椅子にかけて刺繍をしていたマリアナは、努めて柔らかな声をかけた。
その人、艶のある黒い髪に、ハッとするような端整な顔立ちをした男は、まだ意識がハッキリとせずボーッとしているのが見て取れた。
「…………?」
そして、自分をすぐ側で見下ろす女を数秒の間じっと見つめると、何かに気付いたように目を見開いて息をのむ。
あら、私と同じ黒目だわ。
マリアナは男の反応は気にかけず、瞳を見てそんな感想を抱いた。
「えっ、あっ、えっ、えっ!?いっ……て」
言葉になっていない声をあげながら慌てふためいた男が勢いよく体を起こし、同時に顔をしかめて体を硬直させた。マリアナはため息をつき、ゆっくりと男の肩に手を当てて体をベッドに押し戻す。
「無茶してはいけないわ。あなた、覚えている?うちの階段の下で倒れていたのよ。体を強打したみたい。右腕は恐らく骨折しているって」
フラーラ家は階段を上がった先に敷地を持っている。厳密に言えば、階段も敷地内で、彼はちょうどそこから出た目の前に倒れていたのだ。
アランに連れられて彼を発見したあと、そっと屋敷に運んで主治医を呼んで診てもらった。マリアナは見ていないが、身体中痣があったそう。
「あ~……そっか、うん、そういうこと」
男は自分がそこに至るまでの経緯を思い出したのか、納得したように顔だけ動かして何度も頷いた。そして戸惑ったようにマリアナを見上げる。
その視線を受けて、マリアナも彼の中で状況が把握できたのを確認すると、話を切り出した。
「私はマリアナ・フラーラよ。あなたはどこの家の方?身なりがしっかりしていたから貴族の方だと思ったのだけど、全く見覚えがないし……」
彼は16のマリアナと同じか少し上に見えた。そしてこの整った容姿だ。貴族なら確実に話題となり知られているはずである。憎たらしいことに、顔だけはいいアランも貴族社会では有名な美男子だ。
男は困ったように視線をさ迷わせてから答えた。
「ウィルです」
家名は名乗らなかった。
普通ならば家名のない一般市民なのだと解釈するところだが、彼に関しては違う。マナーに反するのを承知で、何らかの理由で秘匿した可能性が十分にある。
フラーラ家の前に倒れていた素性の分からぬ貴族風味な男。
不審すぎる。そうと分かっているのに、不思議なことにマリアナはウィルに危機感を全く覚えなかった。彼は自分の害には決してならないという直感が、そこにはあった。
「そう、ウィルね。家まで送ってあげたいのだけど」
だからこそ親切にしたいのだが、もし彼が家を知られたくないのであればどうするべきか。打ち身だらけの体で追い返すことは、なるべくなら避けたい。
マリアナは眉の端を下げてウィルに選択を委ねた。
「…………」
そもそもなんであんなところに倒れていたのかも気になるところだが、ウィルが正直に話してくれるとも思わない。
予想の一つとして階段から落ちたというのがあげられているが、誰も彼を知らないのだ。ウィルが知り合いの一人もいないフラーラ家の階段を登っていた理由も思い当たらない。
ちなみにボディチェックは寝てる間にこっそりさせてもらったが、不審な物どころかなに一つ持ち物がなかった。それが彼が危険人物ではないと確信する後押しにもなっている。
ウィルは難しい顔をして考え込むと、体に細心の注意を払いながらゆっくりと体を起こした。時々辛そうに顔を強張らせるのを見て、何度か手を伸ばしかけたがこらえた。
「マリアナさん」
「はい」
「あなたに、頼みがあります」
真剣な顔付きにある人を思い出して、無意識にこくりと喉を鳴らす。
ああ、そうか、だから私はウィルを無条件で信用しているんだわ。思いながら、マリアナは頷いた。
ウィルの黒い瞳がわずかに潤んでいるのは、痛みのせいだろうか?
「俺をこの家の使用人として置いてください」
「……は?」
そして思わぬ申し出に、淑女らしからぬ声を上げた。
な、なにを言っているの、この男は。使用人って、どう考えてもあなた、そんなこと出来るような人じゃないでしょう?むしろ雇う側なのでは、と考えるマリアナの中で、ウィルの身分は勝手に確定されている。
ウィルはマリアナの反応にもめげず、痛む体を何とか折って頭を下げる。
「お願いします。体はこんなですけど、出来ることはなんでもやります。……行くところが、ないんです」
最後に告げられた言葉に、マリアナは怪訝そうに眉を潜めた。
「それはどういうこと?」
まさか彼の体の怪我と関係しているのかと考えたからだ。
家の事情でその存在を秘匿され、暴力を受け、命からがら逃げてここに……とまるでなにかの物語のような予想を立てながら尋ねる。
「……親と喧嘩して」
その答えがこれであったから、マリアナは白目をむきそうになった。言いづらそうに呟いたウィルは、マリアナの目を見ようとしない。自分でも子どものような理由だと分かっているのだろう。
嘘は、感じられなかった。
ならばあと私が取るべき行動は一つだわ。
「分かった。それは私の一存では決められないから、お父様に掛け合ってみましょう。今呼んでくるから待っててちょうだい」
マリアナが椅子から立ち上がり振り向いた瞬間、ぐううと分かりやすく空腹を主張する腹の音が部屋の中に響き渡った。
「…………」
「…………」
「……夕食も持ってくるよう頼んでおくわね」
「お願いします……」
恥じるような消え入りそうな声に、マリアナはくすりと笑った。
◇◆◇
ウィルの雇用はすぐに決まった。マリアナが少し席を外したその隙に、父とウィルはすっかり意気投合していたのだ。
『マリアナ、ウィルにはお前の面倒を見てもらうとするよ』
『そう』
『ウィル、マリアナを頼んだよ』
『うん、任せて』
最早敬語さえ使っていない距離感に、逆に戸惑った。娘のマリアナでもここまで打ち解けていない。一体なにがあったというのか。
しかも自分につけるというのだ。ウィルは短時間で完全に父の信用を手に入れていた。
第一にウィルは右腕を骨折している。手出しなんて出来やしない。
そして純粋に仕事をするにしても、本人は出来ることはなんでもやると言っていたが、恐らく出来ることはほとんどない。
つまりは、事実上は客人と変わらず、マリアナの面倒……話し相手として、屋敷に置くということに他ならなかった。
マリアナとしてはその処置に特に不満はなかった。自分の人を見る目にお墨付きをもらったような気すらして、上機嫌だ。
それに一人反対したのが、
「家に置くなんて、なにを考えてる」
ウィルの第一発見者のアランだった。
もうしばらく会わないという旨のことを言ったつもりだったが、通じていなかったのだろうか。彼は間を開けずフラーラ家を訪れてきた。
開口一番に聞かれたのがウィルのことだったので、目的は明確だが、自分の意思を完全に無視されたマリアナとしては釈然としない。
しかもその赤い瞳は射殺さんとばかりに、すっかりマリアナとも打ち解けたウィルを睨み付けている。
ウィルはウィルで、ボケッとしてアランを見返していた。
あんな風に睨まれているのにびくりともしないだなんて、大物なのか、はたまた図太いだけなのか……
「結局そいつは何者なんだ」
「ウィルはウィルでしょう」
「お前、そんな簡単に人を信用して、貴族という自覚はあるのか」
「簡単に信用したわけじゃないわ。ウィルだからしたのよ!」
「ああ?」
寒い。部屋の空気が10度くらい下がった気がする。ウィルから自分に向けられたそれに、マリアナは腕を擦った。
「なんで断言できる。根拠はあるのか」
「……直感よ!」
「だからお前は子どもだと言ってるんだ」
「なんですって!?」
アランは18歳で、マリアナの2つ年上だ。だからといってたかがそれくらいの差で子ども扱いされるのは、許せない。
「子ども子どもって、あなただって子どもじゃない!自分のことは棚に上げて、えらそうにしないでくれる!?」
「はっ。子どもは子どもだろう。俺は年齢の話をしてるんじゃない。そうやって冷静に判断できない頭の話をしているんだ」
「また馬鹿にして……!」
わざとらしく自分の頭を指したアランに、マリアナが目をつり上げて二人の間にあるテーブルに上半身を乗り出す。
いつもより激しく、どんどんヒートアップしていく会話を打ち止めたのは、この場で最年長の19歳でありこの会話の元凶でもある人間だった。
「はい、やめ。そうやってお互いにいつまでも喧嘩を売りあってる分にはどちらも子どもだから」
ウィルとしては、本人の目の前で喧嘩をしないでくれというのが本心だろう。
左手で軽くテーブルを叩くとその音はやけに響き、二人は状況を思い出して一気に静まった。
ウィルの言っていることが正しかったのもその要因だろう。
「……ごめんなさい」
ウィルには素直になれるのに。不貞腐れたようにマリアナは唇を尖らせながらウィルに向かって言った。
アランもアランで、ウィルに諭されたのが気に食わなかったのかむっつりとして腕を組んだままそっぽを向いてしまった。
ウィルは二人を交互に見ると、呆れたように大きなため息を吐き出した。
「喧嘩両成敗。お互いに謝って仲直りしてください」
「誰が……!大体お前、一応使用人のくせにさっきから生意気じゃないか」
「じ……旦那様が思うがままに自由にしていろとおっしゃってくださったので」
「なんだと?……一体どんな手を使って取り入った」
方眉を吊り上げたアランが険しい顔でウィルに詰め寄った。今にも殴りかかってしまいそうなその勢いに、あわててマリアナが間に入る。
「いい加減にして!アラン、あなたがウィルを認めようと認めなかろうと、これはフラーラ家のことで、お父様の決定なのよ!あなたが口出しすることでも、していいことでもないわ!」
そして腰に手を当ててギロリと下から睨み上げた。
そうよ。これは、フラーラ家の問題だわ。例えウィルが本当はとても欺くのが上手な悪人だったとして被害を負っても、それはアランには関係のない話だわ。
「…………」
アランは一瞬たじろぐもふっと表情を消し、マリアナではなく後ろで何とも言えない顔をしているウィルを見据えた。
その視線から何かを感じ取ったのだろう、ウィルがマリアナの左肩に手をかける。
「マリアナさん、ちょっと」
ハッキリと言われなかったが、暗に二人にしろと言われているのが分かった。
まさか二人でやり合うつもり?と振り返って、ウィルは今立てているけれどそんなこと出来るほど万全な体ではないことを思い出す。全く、早とちりしすぎだ。
ふるふると首を振ったマリアナは一触即発に見える━━実際はアランが一方的に敵視している二人を不安そうに見比べると、すごすごと部屋から出ていった。
どうか戻ってきたとき、険悪な空気が少しでもなくなっていますように、と願いながら。
◇◆◇
結局、二週間が経っても、マリアナとアランの関係が相変わらずのように、ウィルとアランの関係も刺々しいままだった。さすがのウィルもアランは陥落できなかったらしい。
ただ、ウィルがどんなにアランが腹立たしいことを言おうが気にせず、大人の対応をして飄々としているのが唯一の救いだった。
当のウィルは、ベッドの上に広げられている赤の鮮やかなドレスを見て感心しているところだ。
つい数分前、アランから届いた贈り物だった。もう少しで夜会があるから着ろ、ということらしい。
「婚約者に贈り物も出来ない甲斐性無しと思われたら不愉快だからな」
そんな憎まれ口を叩いているのが目に浮かぶ。事実、なにかある度に仲の悪い婚約者にわざわざ贈り物をするのは、そういうことなのだと思う。
「へぇ。贈り物はちゃんとしてるんだ」
「あの男はね、周りからの評価がなにより大事なのよ」
「マリアナさんって、ひねくれてるよね」
物怖じすることなく、ウィルがにっこり笑いながら言った。マリアナは言葉を失って、手に持って見ていたドレスを落とす。
こんなにハッキリと言ってくる人は、今までいなかった。自分でも分かっていることを指摘されるほど痛いものはない。
「……事実を言っているだけよ」
「偏った見方ばっかりしないで、素直に喜べばいいのに」
「どうして私があの男からの贈り物に喜ばなければいけないの」
「マリアナさん」
空気を変えるような凛とした声に、マリアナは困ったように声の主に向き合った。
「今素直にならないと、もうこの先きっと戻れないよ。マリアナさんが辛い思いをするだけだ。だから、少しでもいい、俺は誰にも言わないから、ちゃんと本音出していこう」
まるでお医者さんのようだと思った。精神のお医者様。閉ざしてしまった心をゆっくりと、辛くならないようにしながら開いていく。
ねえウィル、あなたは、なんでも見通しているようなことを言うのね。
ちらり。床に落ちたドレスに視線を落とす。きゅうと胸が苦しくなって、マリアナはドレスを拾い、大事そうに腕の中に抱き締めた。どんな理由がその裏にあろうと、これがマリアナに贈られたのは事実なのだから。
夜会の日、素直にお礼を言うことから始めてみようーー
◇◆◇
そう、意気込んだばかりなのに。
「そんなに従順で可愛らしい方がいいのなら、素直でも可愛くもない私なんかから乗り換えたらどう?私はあなたが誰とどうこうなろうと口出しなんてしないわ」
どうして彼を前にするとこの口は思うように動いてくれないのだろう。
ちらりと妹と一、二を争う人気の教養と美貌を兼ね備えた淑女の鑑である伯爵令嬢を褒めたアランに対して、私の口からまさに可愛くない言葉が意思とは関係無しに飛び出した。
アランは目尻を不愉快そうにピクリと動かし、冷めた目付きでマリアナを見下ろす。
「ふん、俺は誠実な男なんだ。例えどんな女が婚約者だろうと浮気はしない」
「そう、見直したわ。心掛けだけは一人前みたいで」
「なんだと?」
「本当のことを言っただけよ」
だけの部分を強調してにっこりと微笑めば睨まれて、負けじと睨み返す。さぞ二人の周囲には険悪な雰囲気が漂っていることだろう。
ああ、もう。うまくいかないことにマリアナは苛立ちと疲労を感じて、すぐ近くにあるバルコニーに目をやった。
「私、あなたの相手に疲れてしまったわ。あそこで休んでくるからどうぞ、お好きな相手を口説けばいいわ」
さきほど浮気はしないと断言したアランに向かってわざとそんな言葉を投げ掛ける。
こんなことを言いたいわけではない。ドレスのお礼だって、まだ言えていない。心の中でくすぶる本音と、言うべき感謝の言葉を言えていない蟠り。
少し泣きそうになって、マリアナはアランと目を合わせずにバルコニーに逃げ込んだ。
『大丈夫か?』
『ひっ』
バルコニーの隅。一人背中を丸めてうずくまる、8歳ほどの赤毛の小さな女の子が、突然かけられた気遣わし気な声に肩を震わせた。
黒色の瞳を潤ませながら恐る恐る振り返ると、綺麗な顔をした同じ年頃の男の子が立っていた。
見たことがある。この子は……
『お前、たしか……フラーラ伯爵の後ろに隠れていた……』
『…………』
『なんて言っていたかな。悪いな、紹介されたのに』
少女の目線に合わせて隣にしゃがむ少年。
そうだ。自分は父の後ろに隠れていたけれど、彼は彼の父のリデルト公爵の横に堂々と立って挨拶をしていた。
名前だってちゃんと覚えている。内気で堂々と人前には立てない自分には、ひどく眩しく思えてーー
『……喋れないのか?』
『…………』
『おい?……具合が悪いのか?』
少女は弱々しくかぶりを振った。父に連れてこられた初めてのパーティー。人に酔ってはいたが、そこまで酷いわけじゃない。
人の目に晒されるのが怖くて逃げていただけ。こんな隅にいれば、きっと誰も自分のことなど視界にも入れないだろうから。
少年はなにも答えない少女に痺れを切らしたのか、はあっとため息をついた。そして、そっと少女の跳ねた赤茶色の髪を優しく撫で付けた。
『っ……な、な、な、なに』
『やっと喋ったな』
『さ、さささわ』
『癖が強いんだな。大変だろ。俺の母上も癖っ毛でいつも苦戦してる』
他人に触れられていることに少女は激しく動揺するも、少年の他意はないーーどちらかといえば宥めるような撫で方に、すぐに気持ちが落ち着いた。彼の母の話も少し少女の気持ちを和ませる要因となった。
『お前、いつもそうやって隠れているのか』
じっと赤い瞳で見つめてくる少年に言い当てられ、大袈裟なくらいに体が揺れた。少年はその反応で確信を得たようだった。
『こそこそしてる方がよっぽど目立つし、標的にされやすいぞ』
その通りだった。実際、しっかりと少年の中で父親の後ろに隠れていた少女のことは名前までは覚えていなくとも印象深く残っていた。
そんなこと言われたって、私はあなたのように自信を持てないのよ。少女はぎゅっと唇を固く結んで潤む目で睨むようにして少年を見上げた。
『…………』
少年は目を丸め、少しそれに驚いたようだった。そんな反抗的な目もするのかと言う心の声が聞こえてくるようだった。
『大人しいってわけではないのか』
頭を撫でる手が止まった。
少し、ほんのすこしだけ。それが寂しく感じた。
少年が立ち上がる。やっぱり自信を感じさせる威風堂々とした佇まいで、少女は目を細めた。
『努力しなきゃ自信はいつまでもつかないぞ。負けん気はあるみたいだからな、もう少し頑張ってみろ』
少年がニヤリと意地悪そうに口角をあげる。
この少年は、堂々として自分に自信が持てるように、ちゃんと努力をしてきたのか。
コンプレックスが気になるなら、それを言われないように立ち回ればいい。それだけの、力をつければいい。言われっ放しのままになんて、させるな。
『うん……』
ぽつり、溢した一言に、少年がキラキラした笑顔を見せた。ぽんぽんと頭を軽く叩かれて、見とれていた少女が恥ずかしそうに赤い顔を伏せる。
『じゃあな、俺は戻るから』
踵を返した少年に、少女はあわてて顔を上げて口を開いた。
ーーアラン様。引き留めることなんて出来ない。言葉が喉につっかえて、出てこない。
でもなにかを感じたのか、少年が振り返った。スッキリした顔で、ふわりと微笑む。
『またな、マリアナ嬢』
名前を呼ばれた。
その瞬間、幼い少女の心は嬉しさと喜びで埋め尽くされたのだった。