怒り
「――何?」
地獄から這い上がってきたような、という――彼の種族を思えば本当に笑えない声が、執務室の空気を凍らせる。
「み、ミリアさんが……」
もう、そんな季節ではないはずなのに、つい暖炉を欲して目が泳ぎそうになるのを堪えながら、彼専属の針子であるラウルは凍結しそうな喉から何とか声を絞り出す。
「ミリアさんが、ローズ家からの招きを受け、晩餐会へ向かいました」
詳細までは知らされなかったが、主の双子の弟が引き起こした先日の事件については彼から直接聞いて知っていた。
だから、彼のこの様子も理解はできる。
――だが。
……針子としての仕事に対してならともかく、それ以外の仕事に対してのプロ意識はまだまだ未熟なラウルは、こんな恐ろしい報告をしなけらばならなくなった事をつい恨めしく思ってしまう。
ミリアを恨むつもりはないけれど……
こんな愚かな企みを思いついた奴こそ地獄に堕ちるべきなのは間違いない。
(まあ……この様子なら、遠からずこの世の地獄を味わう事になるだろう)
そう考えて、ラウルは何とか気持ちを落ち着ける。
「ミリアさんは、当然その誘いが罠だと承知の上で、それでもその知らせを届けた何も知らない下働きの娘を庇われ、誘いに乗る事を選ばれました」
結果、自分がこうして伝令役を引き受けることとなった次第まで、慣れなさ全開の拙い言葉で何とか伝えきって、ホッと小さく一つ息を吐けば、ほぼ同じタイミングで、主もまた――けれどラウルのものよりずっと大きく深いため息を一つ吐き。
「……候補者につける護衛の騎士は、あくまで物知らずの暴漢や詐欺師の類を想定してつけられるものだからな。その栄誉のおこぼれを頂戴する立場の身内がまさかと、普通なら思うだろう」
ましてや、使いとして送り込まれたのは、何も知らない下働きの、無害な少女。
事情を知らない騎士たちは、当然ミリアがローズ家へと向かう道中ではその役目を十二分に果たし、周囲に目を光らせていただろうが……
「ローズ家に限らず、大抵の貴族は多かれ少なかれ私兵を雇っているからな」
だから、この時期に国から派遣される護衛騎士たちの主な任務は屋敷周辺の警護となるのが通例だ。
実際、家に栄誉を与える可能性のある娘を危険にさらすまいと、大抵の親は可能な限り家の中で匿い、滅多なことでは外に出そうとしないし、屋敷の中はその家の勝手を知り尽くした私兵が守りを固めている。
これはあくまで形式的に、「大事に守るべき存在」であると内外に示すためのパフォーマンスの一種でしかないのだ。
「だからこそ、俺は二度同じ失態を犯さぬよう、別に手配した護衛が居たはずだろう?」
まだ、どちらの候補と明かしていない現状で、これまでのようにあからさまに自分の部下を護衛としてミリアに張り付かせるのは先日の夜会の前からやめていた。
四六時中の監視を任務とする派遣されてきた護衛騎士たちに、ミリアとジルベルトとの関係を勘付かせる訳にはいかなかったから。
敵を騙すにはまず味方から、とばかりに、ミリアにも告げずに、信頼できる部下を交代で彼女の護衛任務に就かせていたはずと、彼は憤りを隠さない。
「……まあ、いい。そんな事は後で問いただせば済むことだ。――ラウル、これがお前の職務外の仕事であると承知の上で、俺からも一つ、伝言を頼みたい」
徐ろに立ち上がり、彼は胸に下げた笛に強く息を吹き込んだ。
「少し席を外すと、部下たちに伝えてくれ」
そのままつかつかと執務机を離れ、バルコニー側の出窓を大きく開け放ち――
彼は、そんな言葉だけを残して、ひょいとバルコニーの手すりを身軽な仕草で乗り越える。
――断崖絶壁の上に建つ竜騎士団の官舎に設けられたバルコニーの下では、どの部屋も概ね荒々しい波が打ち付け白い飛沫を上げている。
そのギリギリを、滑り込むように翔け、絶妙なタイミングで主を拾い、大空へと一気に翔け上っていく様は、何度見ても、色んな意味でため息が出る。
主の見据える未来が現実のものとなるなら、いずれそう遠くない未来に、ラウルもまた大きな決断を迫られる事になるから。
あっという間に小さくなって消えていく主の背に小さく頭を下げ、ラウルは急いで預かった伝言を然るべき人物に渡すべく走り出した。




