擦り寄る悪意
扉を叩く控えめな音と共に、今にも消えそうなか細い女の声が響いた。
それは、次なる宴に着ていく衣装の為にと送り込まれてきたラウルが、次から次へと取り出す生地とデザインとで繰り出す連続攻撃に、ほとほと疲れ果てたミリアが、“休憩”の一言を挟む隙を伺っている最中の事だった。
何しろ、店主の状況がこうだ。当然、今日も店は閉めている。
まだまだ駆け出しの新米惣菜屋店主をわざわざ訪ねてくる知り合いの心当たりは多くない。
しかも、その声に聞き覚えがないのだ。
「……どなた?」
ミリアは、扉を開ける前に誰何する。
この時期の常として、今、この家の周囲には国から派遣されてきた兵士たちが24時間監視の目を光らせている。
国の存亡を左右する事柄故の暗黙の了解というのもある。
だから、例えば先日のダリオによる誘拐事件の時のように、傭兵が押し掛けでもすれば、外の兵士たちが黙って見ているはずもない。
……しかし、昨夜の宴で痛恨のミスをしたばかりのミリアは、その声が明らかに年若い娘のものと分かっていても、不用意に扉を開ける事はしなかった。
「あの、家の者に使いを頼まれたのです。お茶の席のためのお茶請けを注文してくるようにと」
家の者、という言葉から、この声の主がかつてのミリアのように、貴族や金持ちの屋敷の下働きと察する。
「……ごめんなさい、今は休業中なの。――そのお使い、うちを指定されてのご注文かしら?」
下働きの身で、上からの命令を遂行できないというのは、致命的だ。
「――はい」
ミリアは、それを身を以て知っているから、返ってきた答えに立ち上がる。
「はい、でも、今日じゃないんです。今日は、お願いにあがっただけで、それが必要なのは、明日の事で、それを配達してほしいと……主人が……」
焦って裏返った声が、開かないドアに焦れたように大きくなる。
「……あなたには申し訳ないけれど、明日も店を開ける予定はないわ。でも、あなたの主宛てに断りの手紙を私の名前で書いてあげる。――あなたの仕える家の名前は……ローズ家、よね」
ミリアは、半ば確信を持って告げる。
ミリアがジルベルトと共にあの日から相手にしてきたお客に、貴族や資産家と呼べるレベルの金持ちなど居なかった。
皆、それぞれ職こそ違えど、朝から晩まであくせく働いて稼いだ金で、一日平穏無事なささやかな幸せを噛み締める、いわゆる一般庶民だ。
今、この時期に、ミリアの店を名指しで訪ねてくる、使用人持ちの金持ちなど、心当たりはひとつしかない。
……このまま“次”まで黙って指をくわえているかどうか、正直半々かと思っていたのに。
とはいえ。
――いくらかの家の主が浅はかでも、それに振り回される使用人にあたっても意味はない。
かわいそうな彼女の立場を慮り、ドアの下の隙間から、急いで書いた書状をくぐらせる。
「あの、私も……あなたに渡しなさいと持たされたものがありまして……」
ミリアの行いに倣ったつもりか、ミリアがくぐらせた安紙の書状と引き換えるように、高級紙を使った封書が差し入れられる。
「あ、あの……、では、私はこれで……!」
少々乱暴にそれを押し込むと、そのまま急いで駆け去っていく足音が響いた。
「……これは……さて、ローズ家からのものなのは間違いないとして。差出人は、ヴァネッサかしら、それともご当主?」
もしかすると、ヴァネッサの母という可能性もある。
ミリアは慎重に、ハンカチを上からかぶせて、布越しに封書を拾う。
「――内容次第では、ジルベルトに伝言を頼んでもいいかしら、ラウル君」
「はい、勿論でございます」
彼がにっこり微笑むのを見て、ミリアはナイフをで封を切る。
「ラウル君」
そこに書かれた内容を一瞥し、ミリアは傍らの少年の名を短く呼んだ。
「はい、すぐにでも」
彼もまた短い返事を返し、商売道具もそのままに裏口から飛び出し、その背を見送りながら、ミリアは2階への階段を踏みしめた。




