新たな師
『鬼軍曹』と、そう呼ばれる“名物”上官というのは、割とどこの軍隊にも一人や二人は居るものだ。
ましてや、その手に握る武器を向ける相手が、人間ではなく魔物が主であるこの国の軍は、この大陸にあるどの軍よりもその訓練は厳しいものになっている。
ただでさえ多くない国民中、軍人となれる者の限られている。その貴重な隊員の命をつまらぬ事で無駄に散らさぬよう、新人への訓練の厳しさは、多くの国を巡ってきた歴戦の傭兵も慄く程であるから、その中で『鬼軍曹』と呼ばれるからには、そのスパルタっぷりは――推して知るべし、というもの……なのだが。
ミリアは、それを自らの身で嫌というほど思い知らされていた。
「ほら、ペースが落ちていますよ。この程度の走り込みで休息を要するようでは、いざ魔物の前に出たなら、あっという間に連中の腹の中です。ほらほら、外周100周くらい鼻歌歌いながら軽々走れるようでなくては、一兵卒にすら劣りますぞ」
場所に、レオじいさんの農場を借り、広大な農地をぐるりと囲う狭い農道――馬で駆けても10分はかかる距離がある――を延々と走り込まされている。
……この『鬼軍曹』もまた、ミリアの師匠同様に“元”のつく人。軍人として歳を重ね、老齢となり身体が軍務についていけなくなるまで立派に勤め上げた老将。
負傷を理由に途中退団した師匠の若かりし頃、入隊したての彼を上官として新人教育を施した鬼教官その人である。
長く、新人教育に携わり、訓練教官としての腕には定評があり、今も指導教官の指導係として、たまに呼ばれている程の人。
「……そんな、凄い人を、昨日の、今日で、紹介、して、くれる、なんて、……相変わらず、流石としか、言い様がないわ……」
体力には、それなりに自信のあったミリアは、既に絶え絶えの息の合間に呟く。
初日の、初っ端から、早速つまらない自信はこうしてシゴかれ、みるみる削られていく。
自分から望んだ事でなければ、とっくに逃げ出しているだろう。
だが、ギリギリ無理のない限界を見極めつつ、最高に効率良く実力の底上げのできる訓練メニューを組み、それを指導出来るのは、彼くらいのものだ。
既に現役を退いた今、直に彼の指導を受けることは難しく、人によったらそれは垂涎モノなのだ。
彼を紹介されて、ミリアは一つ、ある決断をした。
……決断、といっても、いずれ――それもごく近い未来に閉めるはずだった店を、きっぱり、もう今日以降、開けないと決めた。
あれもこれもと欲張れるほど、今のミリアに余裕は無い。……むしろ、手一杯だ。
今、これをする事が、目指す先へたどり着くのに必要なことなら、どんなに苦しくても投げ出すわけにはいかない。
「――ふむ。根性だけはなかなか、下手な士官よりあるようです。人相手の戦をする兵であるなら、今すぐでも下士官に推薦しても良い。だが、貴女が対するのは、この国の軍人が対する魔物のどれより凶悪な代物なのですよ。下など向いていては周囲の敵に気付くのが遅れ、危機を招きますよ、ほら、顔を上げて、まっすぐ前を向いて走りなさい」
飛ばす檄にアメとムチを織り交ぜ、ただただひたすらに走らせる。
どんな剣技も体術も、それが護身術だの武術だのの枠など関係なく、全ては基礎体力がなければ諸刃の剣になるだけ。
全ての基礎となる足腰と持久力の底上げを、最速で叶えるため、時折、回復術や特製ドリンクでの水分と栄養補給を交えつつ、それこそ軍の新人教育もかくやという地獄の訓練。
「……贄の花嫁に、自ら進んで手を挙げる娘が居るとは。――国防にかかわる身としては嬉しい限りだが、それが教え子のお気に入りとくれば、複雑な気分だな」
課されたメニューをこなした後には、さすがのミリアも草地に倒れ込んだ。
「ミリアお嬢様、これを」
太陽も沈み、夜空に星が浮かび始めた時間、今日の農作業を終えたレオが、果汁を絞ったものを何種か混ぜ合わせ、ミルクで割った甘い飲み物を差し出してくる。
それは、幼い頃からのミリアの大好物だ。
だが、昔は寝込んだ時くらいにしか飲めない贅沢品だった。
「……しかし、そうですか。彼が、公孫子様だったと。確かに、彼がブリアーニ伯となってくれるなら、この国の民としては安心なのですが……。お嬢様が……かの方の……花嫁……ですか……」
つい先日始めたばかりの店を閉めてまでこんな事をするその理由を、場所を借りる以上黙っているわけにもいかず、他言無用と前置きした上で、レオには事情を打ち明けてある。
「……うん。……それが、私の昔からの夢だったから。それに――」
「――あの方の評価は、見る者によって全く変わってきますからなぁ。軍に長く身を置いた者から見れば、あの方は実に将来の楽しみな、非常に優秀な士官でいらっしゃるが、社交界にはまるで向かぬお方ですからの」
「……ええ。身上を偽られていたとはいえ、ただの一農民でしかない私に対しても礼儀の正しい、良き若者に見えましたよ、私の目から見ても。……だからこそ、お嬢様を泣かせる事のないよう釘を刺しておいたはずだったんですが」
「釘を刺すべき相手を、見誤ったようですの」
「……私は、あの人の花嫁になりたいの。――だから、お願いします。少しでも、あの人に近づけるように、稽古をつけて下さい」
ミリアは、改めて彼に頭を下げ、願った。




