高貴なる者の義務
「……だから言ったんだ、やめとけって」
朝一番、昨日と同様まだ日の出ない時間帯に厨房へ一人降りてきたミリアに、ウィスカーが「それ見たことか」と言わんばかりに半眼になりながら開口一番にそうのたまった。
「ウィスカーは、反対なの?」
小麦粉をわさわさと袋から大きな計りの上へ少しずつ移しながら、ミリアは小声で尋ねた。
「当たり前だろ、“贄の花嫁”だなんて、そんなの勧める奴は人間じゃねぇ」
「……ウィスカー、私がその呼び方が嫌いだって知ってるはずよね?」
「ああ、知ってるさ。ついでにその考え方が一般的でないどころかとんでもない少数派だって事もな。世間様では伯爵の花嫁ってのは必要不可欠な“犠牲”ってのが当然の見方なんだ」
彼らの花嫁が、貴族階級の娘から選ばれるのが慣習となっているのも、それこそが理由。
「お貴族様方は、民から吸い上げた税金で贅沢が許される代わり、自らの身を犠牲にしてでも民を守る義務を負う。――『高貴なる者の義務』、ノブレス・オブリージュってやつだな」
魔物とはいえ魚のくせにやけに偉そうにヒゲを弄りながら、ウィスカーはたらいの中からミリアを見上げた。
「ミリアは確かに半分貴族の血を引いている。でも、一度たりとも伯爵令嬢らしく扱われた事なんか無かっただろう? それどころか、使用人として労働させられてた。権利あっての義務、義務あっての権利だ。ミリアに、『高貴なる者の義務』は無い」
ミリアは、守るべき側の貴族ではなく、守られる側の民だ。
「箱入りお嬢じゃ耐えられない? ……巫山戯るな。権利ばかり貪って、義務を果たさない者など、その身分にある資格はない。島へ行く前に、徹底的に根性を叩き直してやりゃぁいいんだ」
「まあ、前半部分は同感だけど。……でも、私は守られる側より、守る側にいたい」
バシン、と、捏ね上げた生地を台に叩きつけ、ミリアは呟いた。
「一度は、きっぱり諦めたつもりだった夢だけど。……この仕事も、嫌いじゃないけど。でも、あれからずっと、気が急いて仕方がないの。こうして、じっとしているだけなのが、もどかしくて仕方がないの」
そのやり場のない気持ちをぶつけるように、パン生地に当たるミリアに、ウィスカーはブクブクと口から気泡をいくつも吐き出した。
「でも、それならミリア、公爵家の夜会に出るのか? ミリア、円舞曲踊れたっけ? 礼儀作法は? ドレスは? ――何より、そんな場だったら、あいつらも来るんじゃねえか?」
「う…………」
咄嗟に反論できずに固まったミリアに、ウィスカーが畳み掛けるように追撃を仕掛ける。
「それに、ブリアーニ伯爵の“花嫁”は、ルカーノ侯爵の“花嫁”と違って、単なる“妾”じゃない。ミリア、本当にあいつの“花嫁”になる覚悟があるのか?」
「――彼は」
ミリアは、丸めた生地を容器に寝かせ、一度台の上を片付けながら、考え考え答える。
「あの人は、覚悟を持って私にこれを渡した。私を、“主”として、そして“花嫁”として自分の命運を託す覚悟を、彼は既にしているわ」
もしミリアが『NO』といえば、その覚悟は別の少女に預けられる。
「私は、それを傍から見ているだけなんて、耐えられない。彼が他の娘を連れて島へ渡るのを見送る私なんて、考えられない」
――だったら。
「……貴族同士の結婚に恋愛感情は必要ない。必要なのは、互いの信頼よ」
ミリアは、彼を雇う際に彼を信じると決めた。
――だったら。
「ダンスやマナーくらい、何とかしてみせるわよ。ドレスは……、伯爵邸の誰かを買収して、ヴァネッサのお古をちょろまかして貰えば……」
「いやいやいや、招待したのは俺、エスコート役も勿論俺だ。ドレスは当然俺が用意してやるさ」
いつの間に降りてきたのか、突然かけられた声に、ミリアは不覚にも飛び上がった。
「ダンスもマナーも俺が教えてやる。島へ行けば必要の無い技能だしな、一晩くらいなら付け焼刃で充分間に合う」
ほうきの柄で自分の肩を叩きながら、彼はニヤリと笑った。
「だろう、俺の“花嫁”殿?」