伯爵家の名誉のために
「――ヴァネッサ」
いつも忙しくて、滅多に食事を共にしない彼が、今日に限って食堂の上座についていた。
その時点で、何かある、とは思っていたけれど。
「はい、何で御座いましょう、お父様?」
「来月、公爵家主催の夜会が開かれる」
すでに成人を迎えたヴァネッサは、とうに社交デビューを果たし、ほぼ毎週のように開かれる、様々な夜会に顔を出している。
旬な噂を仕入れるため。未来の婿候補を見繕うため。人脈作りのため。そして時には父の仕事の付き合いでパーティーに出席する事もままある。
だから、この時も初めは、そういう事だとヴァネッサは考えた。
「まあ、それは珍しいですわね。主催は公爵様ですか?」
侯爵以下、人間、吸血鬼共に、貴族の家では一年に数回は夜会を開く。
しかし、公爵家主催の夜会など、何か公式な式典でもない限り滅多に開かれない。
だが、今の時期にそういった行事は何もなかったはず……。
ヴァネッサは少し不思議に思いながらも、そういう貴重な場なら、正妻や娘を伴っての出席も当然だろうと納得し、頷いた。
「ならば、早々に、相応しいドレスを新調しなければなりませんね」
さて、どんなドレスにしようか。ヴァネッサは最新の流行と、己の好みや場所柄等考えながら思いを巡らせようとしたところを、父の言葉に思考を遮られた。
「――ああ。とびきり上等の物を誂えなさい。金はいくらかけてもいいから、必ず殿下方のお目に留まる様に」
「殿下方……? ――まさか、その夜会というのは……」
「そうだ。……まだ、公にはされていない。だが、内々に通達があった。おそらく近々公爵家が代替わりの時を迎える、と」
代替わりを迎える公爵家が開く宴――それは……。
「ヴァネッサ。ローズ家の名にかけて、必ず、次期ルカーノ侯爵、もしくはブリアーニ伯爵のどちらかに気に入られなさい」
父の言葉に、ヴァネッサは、小躍りしたい気分と氷水を頭からかぶせられたような気分を一度に味合わされた。
「それ……は……」
「彼らの花嫁に選ばれる事は、この国の娘にとって、これ以上ない最高の名誉だ。――分かるね、ヴァネッサ。これは、我が伯爵家にとっても非常に名誉な事なんだ」
食後に楽しんでいたお茶が、飲みかけのまま、冷めていく。
「……それは、勿論。分かっておりますわ。でも――」
ルカーノ侯爵の花嫁。
それは、この国で、人間の貴族の家に生まれた娘なら、誰でも一度は憧れ夢見るものだ。
当然ヴァネッサも、例外ではなかった。
しかしそれは、彼らの噂を耳にするようになるまでの話であった。
「ジルベルト殿下は、その……大変気難しい方と伺っております」
ヴァネッサは不敬を気にして随分控えめな言葉を使ったが、実際に耳にした噂では、武人としては勇猛果敢でも、貴人としての振る舞いに難のある……ヴァネッサに言わせれば野蛮な男だとしか思えなかった。
「ダリオ殿下は……、とても素敵な方ですけれども……」
しかし、彼は次期ブリアーニ伯爵だ。
彼の花嫁は、“贄の花嫁”。もしもそんなものに選ばれてしまったら、ヴァネッサの未来は無くなってしまう。
もしも、ダリオが次期ルカーノ侯爵であるならば、ヴァネッサは全力を挙げてその地位を得るべく奔走しただろうが――。
けれど父は、そんな娘の葛藤など見向きもせず、席を立ち、
「お前は、私の自慢の娘。――期待しているぞ」
と、無責任にヴァネッサの肩を叩いて、さっさと部屋を出て行ってしまう。
……彼は、本当に“どちらでも良い”と考えている。
もしも、ブリアーニ伯爵の花嫁に選ばれてしまったら、娘とは二度と会えなくなるというのに。
娘を死地に送り出すも同然だというのに、彼は躊躇いもなく「期待している」と言った。
こんな時、ヴァネッサはいつも厨房へ向かう。
「ちょっと、そこのあなた。ミリアが今どこに居るかご存知?」
厨房や洗濯場、馬場やらがある、屋敷の一階北側は主に使用人が行き来する場所で、伯爵家の人間はまず近寄ることはない。
そんな場所で突然伯爵家のお嬢様に慇懃に尋ねられたまだ若い小間使いらしき少女はびくりと身体を強ばらせた。
「は、はい……? み、ミリア様でしたら、先日お屋敷をお出になられましたが……。ご存知ではなかったのですか?」
びくびくと、怯えたうさぎか何かのように震えながらも、彼女は怪訝そうな顔をして言った。
「屋敷を出た……、って、遠出の使いか何か? いつ戻るのか、聞いてないの?」
どうやら入ったばかりで、この家の事情に明るくないらしい彼女は、首を傾げて言った。
「え? いえ、そうではなく、お屋敷のお仕事を辞めて、出て行かれましたよ?」