夢への招待状
ずぶりと、二本の牙が肌を破って突き刺さる。
――だが、その痛みより何より、あまりに間近にある体温と、肌の感触に、ミリアは必死に悲鳴を押し殺した。
伯爵邸の使用人には、男性も大勢居たし、外にも同年代の男友達はそれなりに居た。
だから、生粋のお嬢様だったヴァネッサよりは、男性に対する免疫はあると、ミリアは思っていたのだが、これ程間近で、これ程までに濃厚な触れ合い方をされるのは、ミリアも初めてだった。
パニックを起こしそうになる頭を必死に宥め、その感覚に、じっと耐える。
傷口に当たる、唇の感触も気になるけれど、それ以上に――
……穿たれた傷口からじんわりと、全身を巡る血管を通して広がっていくなんとも言えない心地良さ。
(……吸血鬼に血を吸われると快楽が得られる、ってあの噂、本当だったんだ)
酒に酔ったような、酩酊感を覚えながら、ミリアはぼんやりと思う。
「やぁ、ご馳走さん」
――それは、ほんの1〜2分の事、大した量を吸われた訳でもないのに、そう耳元で囁かれたミリアは、不覚にも身体から力が抜け、崩折れそうになるのをジルドに支えられられ、彼の助けが無ければ立っていられなかった。
「……ジルド」
「おう、何だ? ボーナスは確かに貰ったしな。あともう一つ二つ位は仕事してやる。さあ、何をすればいい、掃除か、それとも帳簿付けか?」
「……そう。ならまずは歯を食いしばって、覚悟をしてくれる?」
「は?」
低い声でボソリと呟いたミリアの言葉に、ジルドは首を傾げ――次の瞬間、腹部にめり込んだ彼女の肘によるダメージに悶絶することとなった。
「グっ!?」
……だが、彼女の攻撃はその一撃だけにとどまらない。思わずくの字に折った身体、その顎に拳がクリーンヒットを決める。
「ガっ!?」
その勢いに今度はのけぞった背中に、彼女の回し蹴りが綺麗に決まった。
「うっ、ぐ……、お、お前……、何だこの素人とは思えない威力と流れるような攻撃は?」
「――私の今の夢は、この店を繁盛させて、大きくすること。……だけど、ウィスカーと契約するまでは、騎士団に入るのが、私の夢だったの」
ぱたりと床に倒れ伏し、呻くジルドを、ミリアは冷たく見下ろした。
「伯爵邸のフットマンに、怪我が原因で退役した元騎士団員が居てね。暇を見つけては、彼に武術を習っていたの。……ウィスカーと契約して、その夢を諦めたあとも、もしもの時の備えにと思って練習は続けていたからね。勿論、本物の騎士に比べたらお遊びみたいなものだろうけど」
追い打ちをかけるように、そのウィスカーが尾びれでばしゃばしゃとジルドの背に水を浴びせかける。
「まあ、役に立ったわね」
「――……だな。ふっ、はっ、はっ、あはっ、ははははは!」
ジルドは、床に転がったまま寝返りを打ち、腹を天井に向けたまま、笑いだした。
「……なあ、ミリア。こいつ、今ので頭でも打っておかしくなったんじゃねぇだろうな?」
「いやいやいや、俺は至って正常だぜ? ……でも、マジであんたを気に入った。なあ、ミリア」
ひとしきり笑ったあとで、ジルドはようやく口を開いた。
「俺が、お前をブリアーニ伯爵の“花嫁”にしてやる。……そう言ったら、お前はどうする?」
「……貴方を信用する。確かに私はさっきそう言ったけど。流石にそんな大それた、それも現実味の無い話なんて、信じられるわけないでしょう。それも、たった今貴方が自分で自分の信用を失うような事をしでかしたその後で」
「ああ、うん。確かにそれはごもっとも。……なら、改めて正式に自己紹介させてもらおうか」
ミリアから受けたダメージ等すっかり忘れたように、すんなり立ち上がった彼は、その見目に相応しい、熟れた風の礼を尽くして言った。
「ジルド・ルアンディは、俺の素性を偽るための偽名。その身上も、全て架空の話でな」
彼は、何でもない事のように、その名を明かした。
「俺の本当の名は、ジルベルト。現ロマーノ公の孫であり、現ルカーノ侯の長男であり、ダリオの双子の兄でもある」
そして、彼はミリアに手を差し出した。
「ミリア、改めて昨夜と同じ質問をする。――ブリアーニ伯爵の“花嫁”に、興味はあるか?」