救いの糸の片端は
この世の歴史に於いて。
飲食物に混ぜ物をする、というのはこの国のみならず歴史を振り返ってみても珍しくない手段である。
……それが嫌がらせの類か、生死を分けるかは、文字通り匙加減次第なわけだが。
こと、権力や富の集まる場所において、それは後者の場合が圧倒的に多い。
だから当然、そういう身分に生まれ育ち、今や軍の中枢に居るジルベルトはその類の知識は一通り厳しく叩き込まれているし、“もしもの備え”としてある程度馴らされてもいる。
だが、同じ物を口にしても、吸血鬼と人間とでは顕れる症状が違う。
吸血鬼の方が人間より頑丈なので、そもそも人間相手より吸血鬼相手の方が量を必要とするという意味合いのものが殆どであるが、人間には無害でも吸血鬼には害になる物や、またその逆もあり。
そして、もう一つ。
食べ合わせという言葉があるように、それ単体では全くの無害なものでも、ある何かと合わせた瞬間に無害でなくなるものもある。
流石にそこまで詳細な知識を持つのは、専門の医師や薬師か学者くらいのものだろう。
「――助かるかどうかは五分五分……いえ、正直彼女の体力次第でしょう。解毒薬は打ちましたが、明日の朝まで保つかが、まず最初の峠となるでしょう」
末席とはいえ貴族であるカーラの屋敷にもお抱えの医師は居て。
ミリアが倒れてすぐに喚ばれた彼が口にした診断。
「そもそもが、悪ければ即死も有り得た“毒”です」
その答えに、ジルベルトは強く自責の念に苛まれながら、同時に医師に掴みかかりたい衝動を抑えながら、尋ねた。
「……やはりワインか? しかし、俺も彼らも同じ物を口にしている。――具合の悪そうだった彼女に、毒消しも飲ませたのに、何故……!」
「ワインそのものに、問題はありませんでした」
医師は、一度首を振ってから、診断材料として渡されていたワイングラスを見下ろした。
「しかし、香り付けのためでしょうか、ワインに入っていたスパイスの方は、我々吸血鬼の身体には無害ですが、人間には……毒、とまでは言いませんが、酒への耐性を下げ、酔いの回りを早める効果があります」
次いで、もう一つ、毒消しの入っていた瓶を摘み、目の高さまで持ち上げる。
「この毒消し。“普通に”使えば、人間にも吸血鬼にも効果があり、副作用も少ない安全な薬というのに間違いはありません」
普通に、というのを強調して言った医師に、ジルベルトは再度質問を投げかけた。
「別に、普段と変わった事はしていない。ただ普通に服用させただけだぞ……!」
「ええ、本来ならそれで問題はない。ですが、今回の場合飲み方の問題ではなく、相性の問題、つまり飲み合わせが悪かった」
医師は、似た様な瓶に入った同じ薬を取り出し、中身をワインの入ったグラスに注ぎ入れ、ゆっくりとそれを攪拌する。
「大抵の毒に、ある程度の効果が期待できるこの薬ですが、あくまで“大抵”であって、万能薬ではない。ごく僅かながら、効果がないどころかより協力な毒となる場合がある。その数少ない例の一つが、このスパイスとの組み合わせなのです」
無色透明の薬を溶いても、元のワインの色に変化は見られず、見た限りではごく当たり前の赤ワインだ。
「この一杯で、我々吸血鬼を一瞬で昏倒させられる強力な毒です」
今、この医師が皆の前でしてみせたのと同じことが、ミリアの胃の中で行われた。
「――申し訳ありません!」
医師の説明でそれを理解した者達の中、まずまっ先にカーラが声を上げ、腰を折り深々と頭を下げた。
「……お前だけの責任ではない。認識が甘かったのは俺も同じ――いや、遠からず人間である彼女を連れ島へ行くつもりでいた俺は、もっときちんとした知識を得ておくべきだったのを怠っていた以上、その責は俺のほうが重い」
ジルベルトは、強く拳を握り締めた。
「……本当に。これでは、ダリオの事は言えないな。まだまだ、足りない物が多すぎる」
その咎を、自分が被るなら自業自得というものだが、この間からそのとばっちりを受けているのはミリアばかりで――
「ジルベルト殿下」
静かな怒りを己に向ける彼に、医師が静かに呼びかける。
「今、五分五分と言った彼女が助かる見込みを、十中八九まで引き上げる方法が、ひとつだけ存在します」
「……! なら、早くそれを……!」
彼女を助ける方法があり、それを知りながら何故それを早くやらない?
当然の疑問を飲み込みながら、ジルベルトは医師に迫った。
けれど、医師は首を横へ振った。
「私は、その方法を知っています。ですが、今の私が彼女にそれをする事は出来ません」
「どういう事だ?」
「――今それができるのは殿下、貴方だけです」