絡む蜘蛛の糸
ミリアが酒を口にするのは、これが初めてではない。
人間の住むこの大陸に数ある国の中、酒に対する考え方や法規制はそれぞれで、帝国のそれは特に緩くも厳しくもなく。
酒を呑む事自体に否定的な考えはなく、酒に溺れて他人様の迷惑とならない限りは、酒呑みにもどちらかといえば寛容な土地柄で。
ましてや、人間の血の代用品として、ワインを嗜む吸血鬼と共存するこの公国においては、尚更。
……あまりに幼すぎる子どもの飲酒はさすがに良しとはされないが。
自分で自分の責任の取れると周囲に認められれば、好きに飲める。
ミリアも、酔うほど呑む趣味は無いが、料理に使うのに味を確かめたり、仕事終わりの一杯をテオたちと楽しんだ事くらいはある。
少なくとも、よほど強い酒でない限り、グラス一杯のワインで正体を無くす酔い方はしない。
……今宵は礼節を欠く事を厭う貴族の集う夜会。
そんな場で、強い酒をこんなふうに配って歩く訳が無い。
事実彼も――この宴の主も、少々頬が赤く染まっている様に見える程度のほろ酔い加減のまま、グラスを空け、夫人や娘にも同じ酒を勧めている。
だから、ミリアも勧められるままに一口、口に含んだ。
少し渋みの強い、深みのある赤ワイン。
流石に、ワインにうるさい吸血鬼の貴族たちの夜会で饗されるだけの事はあり、味も香りも上品だ。
瓶一本空けて酔うための酒ではなく、こうしてグラスに一杯注いで味と香りを優雅に楽しむための美酒。
個人的にはあっさりしたものの方が好みであるせいか、少し渋みは気になったが、滅多に味わえない高級ワインの香りにミリアは二口、三口とグラスを傾け、喉を潤し。
アルコールの火照りを腹部に感じた直後、ミリアは、不意に、強い目眩に襲われた。
くるくる舞う女性たちの色とりどりのドレスが、不意に凶器の様に目に突き刺さり、鈍い頭痛を揺り起こし、その痛みが不快な吐き気を誘発する。
四肢から力が抜け、その場にへたりこみそうになるところを、エスコートを務めるジルベルトの腕が引き止め、それは危うく回避される。
「――ミリア?」
不意に必要以上の負荷のかかった腕に、ジルベルトはすぐに異変に気づく。
今の今まで普通にしていたのに、今のこのタイミングでの異変に、ジルベルトはまずミリアが口をつけたグラスに目を落とす。
半分以上中身の減ったそれの中身と同じものを、ミリアより先に空けたジルベルト自身は特に自分の体調に異変は感じない。
カーラたちも、然り。
となれば、疑わしいのは酒ではなく、グラスそのもの。そのグラスを選んで彼女に手渡した給仕の男にジルベルトは鋭い視線を向けた。
「カーラ。彼は?」
ジルベルトは、彼女の上官として命じる声音で尋ねた。
「当家に古くから仕える者です。私たち家族の遠縁に当たる家の三男で、実家を継いだご長男とも長らく良いお付き合いをさせていただいております。今日も……ほら、あちらで踊られているあの――紫のドレスをお召しのご婦人のパートナーを務めてらっしゃる方がそうです」
ジルベルトも、ミリアも、今この状況で招待するからには、当然ホストである夫妻は、招待客や裏方を仕切る使用人の人選には気を使っただろう。
古くから付き合いがあり、長く仕えて信頼のおけると彼らが判断した人物が、血の繋がった実家の兄夫妻を大いに巻き込むこの場で愚かな行為に及ぶ、というのは考えにくい。
「……ミリア殿、どうかされましたか?」
ミリアは、極力不調を隠そうと何でもない顔を装っていたが、人間には有効でも、脈拍や呼吸の乱れを敏感に察する吸血鬼からそれを隠し通すのは難しい。
「――殿下、よければこれをお使いください」
他へ知られる前にと、カーラはサッと懐から透明な液体を詰めた小さな瓶を取り出し、ジルベルトに差し出した。
それは、軍で常用されている毒消しだ。
強い薬ではなく即効性も無い。よほど弱い毒でない限り、その影響を完全に取り去る事は出来ないが、その分幅広い種類の毒薬による症状を緩和する事ができる。
ジルベルトは、迷う事なくそれを受け取り、ミリアに差し出した。
……カーラから、渡された薬。
ミリアは、思考を遮る鈍い頭痛の狭間でそれに警戒を抱いたが、それを渡されたジルベルトから「軍で使われている薬だ」と疑うことなく差し出されて――彼を疑う理由は無いと、それを口にして。
回っていた世界が、闇に堕ちた。