第4話 【乙女の悩み】
最近この施設内の空気が変わった。明らかに悪い方に。
さっきも洗濯物を干している時、一緒に作業していた親友の麻衣が唐突に恋愛話を持ちかけてきた。
「ねえ、唯央?」
「なに?」
「唯央ってさ、好きな人とかいるの?」
突然の質問に胸がつきリと痛む。なぜか暴れん坊で我儘な一つ年下の幼馴染みの顔が浮かんだ。竜毅が和都を離れて三年か、今どこで何をしてるんだろう。あいつもどこかで女の子といい感じになってたりするのかな…。
「唯央? 大丈夫?」
麻衣が心配そうに顔を覗きこんでいた。
「え? あ、ごめんごめん、ちょっとボーッとしちゃっただけ。好きな人なんていないよ。」
「本当に? 例えばこの施設の人とかでもいないの?」
「いないってば。だいたい施設の人なんておじいちゃんかちっちゃい子が殆どじゃない。今は好きな人はいません!」
麻衣が安心したようにホッと溜め息をついた。
「あの、さ……一番奥の部屋の人、大ちゃんなんだけど、どう思う?」
「どうって? 質問がざっくりし過ぎ。私って察する系の遣り取りは無理だから、ハッキリ言ってくれる方が良いんだけど。」
「そうね、あんたって回りくどいのダメだもんね。じゃあハッキリ言うけど、私、大ちゃんのこと好きになっちゃったみたいなの。ねえ唯央から見て私と大ちゃんってどうかな? 合うと思う?」
うわぁ~、出た。その手の相談が来るんじゃないかと嫌な予感がしていたけど、あいつが来てから何日目だよ。麻衣ってば、惚れっぽすぎだよ。しかもあんたの男を見る目って、外見が全てでしょ。
「あのさ、麻衣。悪い意味に取って欲しくないんだけど、親友のあんただからハッキリ言うよ。あの男…だ、大ちゃんが麻衣に合うとか合わないとか、まだ判断できる段階にないと思うのよ。あの人がここに来て六日だか七日だかしか経ってないし、殆ど部屋に籠ってたり、街をふらふら歩きまわったりしてて、碌に話もしてないでしょ?
もっと時間をかけて大ちゃんの人柄をじっくり見てからアプローチしても遅くないんじゃない?」
私にしてはかなり頑張って角の立たない言い方を選んだつもりだ。正直に思う所をぶちまけたなら、絶交を言い渡されるかもしれない。しかし麻衣は不満気な表情でぼそぼそとぼやいた。
「じっくり時間なんかかけてたら、他の人に取られちゃう。私が知ってるだけでも五人は大ちゃん狙ってるんだよ。近所のオバサン連中の中にだって『もしも大ちゃんが振り向いてくれるなら離婚したって構わない』なんて言う人もいるくらいだし…。」
「はぁ…。」
あまりに呆れて溜め息が漏れてしまった。これはもう、泣くことになっても現実を思い知るしか恋の倒錯から抜け出す道は無いな。
「麻衣、私としてはもっと時間をかけて、大ちゃんが麻衣の想いを捧げるに相応しい相手かどうかを見てほしい。でも麻衣はそれは嫌なんだよね? 他の人に取られるくらいなら、当たって砕けたとしても、その方が良いんだよね?」
麻衣はきょとんとして、そして答えた。
「え、砕けるつもりはないんだけど。」
こ、こいつ…。
それでも私は笑顔で黙って麻衣の次の言葉を待った。
「……ただ、二の足踏んでる間に他の人に持っていかれるくらいなら、誰よりも先に大ちゃんに想いを伝えたい。せめて大ちゃんにとって一番印象深い女の子になりたい。」
激しくツッコミたい所ではあるが、敢えてそこはぐっと飲み込んだ。行動が迅速であるほど、目が覚めるのも早く、傷も浅かろう。私は応援するふりをして麻衣を失恋の旅路へと送りだした。
「なら、やることは一つだね。善は急げ、だよ。」
麻衣はちょっと潤んだ目でこちらを見つめ、コクっと大きく頷いた。彼女のキラキラ輝く瞳に浮かぶ、私への信頼感がチクリと胸を刺した。
****
その日の夜。
日が落ちてからも日中の熱さが続き、すっかり汗だくで体中ベタベタになった私は、床につく前に体を拭こうと水桶と手拭いを用意してベッドに腰掛けた。三年前にこの施設に来た時から同室の麻衣は、隣のベッドですでに床に就いている。薄暗い部屋の中、手燭の灯りを頼りに、音を立てないよう静かに手拭いを絞っていると、麻衣から小声で話し掛けられた。
「唯央、ちょっといい?」
「っ! ね、寝てなかったんだ…。なに? もしかして……大ちゃんのこと?」
麻衣はごそごそと体を起こすと、少し暗い表情で静かに頷いた。
「当たって……砕けちゃった?」
麻衣は一瞬、不愉快そうに眉根を寄せたが、小首を傾げて答えた。
「そう…いうことになるのかな?」
「なるのかなって、ハッキリ断られたんじゃないの?」
「いや、断られたのかどうか良く分かんない、っていうか、大ちゃんが途中から何の話をしているのかが分からなくなっちゃって…そもそも自分が何の話をしたかったのかすら分からなくなって、退却を余儀なくされたって言うか…。」
はい? これはどういうこと? 私の予想とは随分かけ離れた反応だ。そもそも麻衣はちゃんと相手に分かるように告白したのか?
「えっと、良く分かんないんだけど、大ちゃんとの遣り取りを細かく教えてもらえる?」
麻衣はうんと肯くと、左上を見ながら思い出し思い出し言葉を紡いだ。
「今日の夕方頃だったかな、大ちゃんが街から帰って来たところにばったり出くわしたの。周りには誰も居ないし、これはチャンスだと思って『大ちゃん、ちょっと話があるんだけどいい?』って庭の隅っこに連れて行ったの。
大ちゃんは不思議そうな顔で私の後をついてきて。で、私思い切って振り向きざまに『あなたのことが好きです!』って言ったの。」
おおー、文句のつけようのない立派な愛の告白だ。
「で、大ちゃんはそれを聞いてなんて言ったの?」
麻衣はやや伏し目がちに左の方を見つつ言葉を続けた。
「『そうですか、どうもありがとうございます。』って頭を下げられた。」
いやいや、そうじゃねーだろ! 私は叫びたい思いを腹の底に沈め、麻衣の説明を目で促した。
「『この施設の人達は親切な上に、とても友好的ですよね。これまでにも何人かの人に同じように親愛の情を示していただきました。僕は無駄飯喰らいの役立たずなのに、こんなに良くしていただいて、皆さんの好意までいただいて。本当にありがたいことです。
実は、この施設のお役に立てる手段がないかと毎日あれこれ考えているところなんです。僕でも力になれることがあれば、ぜひ声をかけて下さい。』って。私、その時点で何を話していたのか分からなくなって、頭の中がグシャグシャになっちゃった。」
「う…うん、その気持ちはよく分かるよ。努力で理解できる限度を超えているもの。で? それだけ言って、大ちゃんはいなくなったの?」
麻衣は首をふるふると横に振った。
「私がポカンとして突っ立っていたら、『ところで僕はこの施設内では"大ちゃん"と呼ばれているようなのですが、記憶のない僕が他の人に、自ら"大ちゃん"だと名乗ってもよいものでしょうか?』みたいなことを訊かれたわけ。
だから『大ちゃんっていうのは、あなたが人気役者の万屋大輔に似てるから、みんなで勝手につけたあだ名なの。でも、あなたがそれを不快に思ってないのなら、自分で"大ちゃん"を名乗っても問題ないんじゃないかな?』って言ったわ。」
「で、そのあとは?」
麻衣は大ちゃんの仕草を真似ているのか、顎に手を遣り、眉間にシワを寄せた。
「大ちゃんはこんな風に地面を睨みながら『"大ちゃん"と言うのは僕の本当の名前に由来するものじゃなく、単なるあだ名だったのか。かといって名無しで過ごすのはなにかと不便だし、たとえあだ名でも既に沢山の人に浸透しているのなら、それを使う方が無難だろうな。わざわざ"僕は大と呼ばれているナントカです"と訂正して回る必要もないし、個人間の情報伝達の程度の差から生じる誤解のリスクも回避できる。うん、このまま大を名乗るのが最善策だろうな…。』とか独り言に没頭し始めちゃって、私のことをすっかり忘れているみたいだったから、『私、麻衣って言うの。これからもよろしくね。』って声を掛けて走って逃げちゃった。」
「あ…そう。それって確かに砕ける云々の次元じゃないわね。まず当たってさえいないっていうか……。」
「なんかさぁ、今となっては唯央の言っていた『時間をかけて』ってやつも悪くないかなって思ってるんだ。他にももう告白した子がいるみたいだけど、あの調子なら『早くしないと取られちゃう!』って感じでもないし、まずは彼の視界にちゃんと収まらなきゃね。
いろいろと相談に乗ってくれてありがとう。やっぱり唯央は頼りになる親友ね。じゃ、お休み。」
「うん、お休み。」
予想外、というか頭大丈夫なのかな、あの男は。
私は色男が嫌いだ。いや、正確に言うと信用できないし、ちょっと怖い。
一年くらい前に、女好きのする甘ったるい容姿の優男がこの施設にやってきた。その時も今と同じように女たちが熱狂した。でも私は何となくその男が胡散臭く思えて仕方がなかったので、男と男を取り巻く女達を遠巻きに眺めるだけだった。
私に対してもかなりしつこく粉を掛けてきたけど、男に群がる発情した女たちと同列に見られたくない、という生来の天邪鬼からくる矜持もあったので、頑として拒絶を貫いた。
その男は実際に胡散臭い奴だった。言い寄ってくる女達に、思わせぶりな態度と甘い言葉を掛けては、次々と欲望の毒牙にかけていった。まだ十代半ばのおぼこい少女から、子育てを終えた五十代の熟女まで、不実を見破られぬよう巧みに時と場所と人を選んでは、文字通り彼女らを弄んだ。あいつを徹底的に避けていた私ですら、何度か待ち伏せされて、手篭めにされそうになったことがある。その時、私はかつて蟷螂組のならず者達に強姦されそうになった恐怖を思い出し、半狂乱で男からなんとか逃れたのだった。
一年前に施設内で色狂いの男に襲われて以降、私は精神的に不安定になった。なんとかあいつを追い出せないだろうかと頭を捻ったが、あいつは憎らしいほどに外面がよく、またあいつに骨抜きにされた女達の協力もあって、なかなか尻尾を掴ませなかった。
ところが、地味で垢抜けない十九歳の女の子の妊娠を機に男の行状が発覚した。施設内のほぼ全員が、一生色恋とは無縁だろうと思いこんでいた子だっただけに、その衝撃は凄まじかった。また、もともとふくよかな体型だった彼女が妊娠に気付いた時には、すでに堕胎が不可能な月齢になっていたことも事態を大きくするのに一役買った。
言い逃れできぬ立場に立たされた途端、それまで誠実で優しげな振る舞いを貫いていた男は豹変した。
「俺がお情けで声を掛けてやらなきゃ、一生男に縁もないブスどもが徒党を組んで何様のつもりだ? いいか、お前らブスが俺みたいな色男と関係を持てたんだ、感謝されこそすれ、恨まれる覚えはねーよ。ぶつくさ文句言う暇があったら、そこらの豚みたいな臭いのオヤジでも引っ掛けて、死ぬまで乳繰り合ってろ!」
そう捨て台詞を吐くや否や、男は脱兎のごとく施設を飛び出して行った。施設の男性達も総出で男を追ったが、ついに男は捕まらなかった。
既に潮時を察していたのか、男の部屋はすっからかんだった。後に残ったのは、心も体も傷ついた女達の慟哭と怨嗟の声ばかりだった。
麻衣もそんな碌でなしに処女を捧げてしまった被害者の一人だった。男の本性を知った麻衣は酷く落ち込み、一時期、男性不信に陥った。それでも時間を掛け、周囲の善良な人々との生活の中で少しずつ回復して、ようやく立ち直ったと思ったところに厄介な男がまたもやこの施設に転がり込んできたのだ。
竜災害の生き残りとして旗田さんが連れてきた男。記憶を失くしているとかで名前は分からない。
容貌が万屋大輔にそっくりだからと、いつしか女達の間で言われるようになった『大ちゃん』というあだ名が、今ではすっかり施設全体に定着してしまった。
そして一年前と同様に、女達が鼻をふくらませて大ちゃんの噂話に夢中になった。中にはあからさまに扇情的な格好で大ちゃんの気を惹こうとする下卑た者も出始めた。ここは売春宿じゃない。あんな女達と一緒くたにされては甚だ迷惑だ。
どうせ今回もまた同じ。一人、二人とあいつの欲望の捌け口にされた挙句、最後には騙されたと泣きわめきながら石を投げる羽目になるんだ。
そう思っていた。きっとそうなると信じていた。
なのに事実は小説よりも奇なり、ときた。
大ちゃんはあまりに奇妙すぎる。あの容姿も相まって、より一層珍妙さが際立っている。
油断ならない。こいつは前の男よりもとてつもなくしたたかで、計算高い色魔かもしれない。私達の目を欺き、見えないところでどんなえげつない行為に及ぶか分からない。もっと厳しく監視しなきゃ。
その晩、私は疑念と不安に苛まれて、なかなか寝付けなかった。
2014年1月27日に唯央の回想シーンを一部削除しました。